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夜の声


 子どもの想像力ときたら、留まるところを知らない。人差し指を乗せた十円玉には霊が宿るし、マンホールは地球の裏側まで繋がっていて、学校には七つ以上の七不思議がある。

 この暑い季節が来るたび、自分もそうだった頃を思い出す。思い出して、背筋を震わせる。



 私は比較的栄えた街に産まれて、小学校を折り返す少し前に田舎へ越した。母と別れた、父の都合だった。残念なことにその頃合の小学生はもう徒党を組んでいたが、よそ者の私は珍しがられて輪に引き込まれた。しかし、上手く馴染んだとは言いがたかった。子どもだった私は、自分の内にたまったものの吐き出し方もわからずに、面白くもないのにただにこにこして毎日を過ごしていた。

 その噂は自分のクラスだけでなく、ほぼ学校中に広がっていたものだったので、私の耳にも届いた。

「おまえさ、どぶのカミサマ知ってる?」

 そうやって話しかけてくれたのが誰だったか、今ではよく思い出せない。

「どぶ? 側溝のこと?」
「そっこう? どぶはどぶだよ。あれさ、ふたが金網のやつあるじゃん? 夜の十二時きっかりに網の上に乗って声掛けると、カミサマに会えるんだって」

 そう言った同級生は、興奮気味に笑っていた。恐れよりも好奇心が勝っている証の笑みだった。

「三組のやっちゃんがほんとに見たって言ってた。幸せになれるって」
「しあわせ?」
「そう。カミサマにさ、『あなたはぼくですか』って言って、『違います』って返事されたら幸せになれるんだよ。その代わり、『そうです』って返事されたら、不幸になるんだ」

 こえー、とはしゃいだ声を上げて、同級生は他の友達のところへ行ってしまった。噂を知らない私を巻き込めたことで満足したらしかった。

 誰が言い出したのかもわからないまま、本当だよ、とだけ付け加えられて噂は広まっていったようだった。私も素直に信じたし、そもそも子どもに疑う理由はなかった。正しく言えば、信じた方が面白いとわかっていたのだろう。

 夜の十二時といえば、小学生はそうおいそれと外出はできない。それだけに、皆その噂に熱中したのだろう。カミサマに会えたかどうか以前に、その時間に実行できたこと自体が賞賛の的になり得た。だが、私は別だった。唯一の家族である父が仕事で帰りが遅くなることがあったため、週に一度はチャンスがあったのだ。しかし、それを自慢する気には、到底なれなかった。

 その夜も、私は布団の中で膝を抱えて丸まっていた。布団の中は安全だったが、世界でひとりきりの小さな生き物になった気分だった。皆が憧れるような、夜にジュースを飲むとかお菓子を食べるとか、そういったことも私には何の魅力もなかった。一人分の食器が出しっ放しの流しを見るのはまっぴらだったのだ。

 私はパジャマのままで外に出た。家の近くには、側溝の金網が続いていた。私はその角にある一際大きな網の上に立って、膝に手をついて、中を覗き込んでみた。当たり前だが、何も見えなかった。

「あ」

 自分の声がやたらと大きく聞こえて、驚いた覚えがある。夜は街も寝静まるのだと、肌で感じた瞬間だった。心臓の鼓動さえ誰かに聞かれていそうだと、妙な緊張があった。もちろん、誰か大人に見られていたら何事かと思われただろう。父親に見つかったら叱られたかもしれない。けれど、残念ながら、この時の私を父親が見つけることはなかった。

「あなたはぼくですか」

 言ってから、そういえば返事がなかったらどうなるか聞くのを忘れてたことに思い当たった。けれど、それは杞憂だった。

「ちがいます」

 どきりとするよりも先に、きょとんとした。自分の中にある冷めた部分が、返事が来るわけがないと諦めていたのだ。だから、まさか聞こえた声が自分の足の下からしたとは信じられなかった。

「あ、の」

 二の句が継げない、という感覚を味わったのはこの時が初めてだった。

「なに?」

 状況を考えなければ、ごく普通に、会話は続いた。

「えっと……君は、誰?」

 ろくに敬語を知らないせいもあったが、聞こえた声が自分と似た年頃のものだったので、気安く聞いた。

「ぼくはぼくだよ。きみじゃない」
「……じゃあ、カミサマ?」
「かみさま? だれ、それ」

 それから私は色々と質問を投げ掛けたが、要領を得た返事は何一つなく、足元から聞こえる声の正体に近付くことはできなかった。

「じゃあ、えっと、あの」

 最後に、深く考えもせず、一番大事だった質問をした。

「友達に、なってくれる?」

 引っ越して以来、自分からそんなことを言ったのは初めてだった。人付き合いが下手で仕方なく、あまり多くの友達を欲しがるたちではなかったから。だが、私は「カミサマ」に期待してしまったのかもしれない。ただ笑い合って終わるだけではない、特別な何かを与えてくれる、と、そう信じてしまったのかもしれない。

「いいよ」

 私は毎週のように家を抜け出しては側溝へと向かった。



 この年の夏は特に暑く、夜に出歩くことにためらいがなくなるのはすぐだった。新しい家にはエアコンもなかった。

 いつ覗いても側溝の中は真っ暗で何も見えず、闇夜を閉じ込めているような薄ら寒さがあった。

「あなたはぼくですか」
「ちがいます」

 暗闇から彼の声が聞こえると、私は安堵に包まれた。

「そっちは楽しい?」

 そこがどこなのかもわからないまま、そんなことを尋ねることもあった。

「あんまりたのしくない。そっちはたのしい?」
「……楽しくない」

 彼と話す時、私は他の誰に対する時よりも素直になれた。

「学校のみんな、ゲームとか、あんまりしないみたいだから。上手いってほめられるのはいいけど、つまんないよ。みんな、すぐ飽きちゃうし。虫とか、どうでもいいのにさ」

 珍しがられるのを嬉しく思えたのは、始めのうちだけだった。当然と思っていることが通用しないのはわずらわしいだけだったし、知らないことを当然のように言われるのもつまらなかった。

「にぎやかで、たのしそう」

 賑やかであることに違いはなかった。クラスに友達はたくさんいて、遊び相手に困ることもない。でも、無駄な気遣いだけを知っているようなこましゃくれた子どもには、それはただの「付き合い」であって、つまらないことでしかなかった。

「そうでもないよ。あれよりかは、一人の方が楽しいかも」
「ふうん」

 誰にも話せなかったことを吐き出すと、胸がすいた。

「お母さんがいなくなってから、おかしくなっちゃった」

 子どもながらに、自分は不幸だと自覚があった。生活から母は消え、転校で友達も消えた。母は時折手紙をくれるが、いやに優しいせいか、もう前の母とは違う人のように思えて気持ちが悪かった。前の学校の友達は、手紙すらくれない。新しい学校の知り合いに、家の事情を話す気にはなれなかった。

「おかあさん、いないの?」
「うん……他にね、家族ができたって、その人と暮らすって、いなくなっちゃったんだ」
「きみは、かぞくじゃないの」

 彼の言葉は、時折、容赦なく胸を刺した。

「……お父さん、いるから、大丈夫」

 そう言いながら、最後に父とまともに喋ったのがいつだったか思い出そうとした。男手一つで息子を養うためには忙しく働くしかない、そんな理由に思い当たるにはもう少し大人になる必要があった。

「おとうさんは、かぞくなの?」
「そうだよ。……なんでそんなこと聞くの?」
「おとうさん、すき?」

 ぎゅう、と息苦しさが襲ってきて、私はしゃがみこんだ。しばらく返事ができなくなるほどで、どうして自分がそんなことになっているのかもわからないまま、膝を抱えた。

「だいじょうぶ?」

 首を横に振ってしまわないようにするのは、大変だった。

「……お父さんなんか、大嫌いだ」

 ぴちゃん、と側溝の奥で水の跳ねる音がした。

「なかないで」

 こんなに優しく声を掛けてくれるのは、彼しかいなかった。誰も、私が泣いていることすら知らなかったから。

「ごめんね」

 彼の方から何かを言ってきたり聞いてきたりすることは、全くと言っていいほどなかった。彼と話しながら『王様の耳はロバの耳』という寓話を思い出したことがある。私にとって彼は、夜の側溝は、嫌なことを何でも吸い取ってくれる深い穴だった。何も求めてこない、決して埋まらない深い穴。

 もう既に、彼は特別になっていた。



 その日は、母から届いた手紙を読んでいる父を見てしまった日だった。父宛に手紙が来るのは初めてで、出張に行った父を見送った後にこっそりと盗み読んだ。新しい家族にもう一人子どもが増える、という内容の手紙だった。

 私は生まれて初めて学校をさぼり、日がな一日布団に包まっていた。

 夜が来て、側溝へ走った。

「あなたはぼくですか」

 自分にはまだ彼がいる、だから大丈夫。そうすがるように、声を絞り出した。

 返事はなかった。

 ぞわぞわしたものが背中を駆け上がり、私はおののく。穴はいつでも空っぽで、無条件で自分を受け入れてくれると信じ切っていたのだ。

「あなたはぼくですか」

 このまま返事がなかったら、と考えて、途方に暮れた。自然と膝が落ち、金網にしがみつくような格好で彼を呼び続けた。

「あなたは」
「ねえ」

 何度目かで不意に声が返って、ぎくりと喉が詰まった。いつもと様子が違うことはすぐにわかった。自分がほっとしたのかぞっとしたのかさえ、私にはわからなかった。

「な、に」

 かろうじて、それだけ返した。

「とりかえっこしようか」

 彼の声はいつもと同じで、穏やかで、優しかった。

「いらないでしょ」
「何が」
「ぜんぶ」
「全、部?」
「たのしくないこと、いらないでしょ」

 ともだちも、がっこうも、おとうさんも、おかあさんも、ぜんぶ。そう言う彼の声に、迷いは一切なかった。

「あのね、かんがえたんだけどね」
「何、を」

 何を言っているのか、私は混乱するしかなかった。考えたなんて、彼がそんなことを言うなんて、想像してみたこともなかった。

「ぼくはきみじゃないけど、きみ、なんだとおもうんだ」
「どういう、意味?」
「だからね、きみとぼくは、きっちりはんたいでしょ。きみはあるものがいらない、ぼくはないものがほしい。きみとぼくがもってるものは、はんたいなんだよ。ほしいものもはんたい。だから、きっと、とりかえっこしたらぴったりだとおもうんだ」

 そう言われて初めて、私は自分の境遇に向き合ったのだと思う。本当にいらないと思ってるのかなんて、今まで考える必要がなかった。いろうといるまいと、なくなるわけがなかったのだから。

「いやなこと、ぜんぶ、すいとってあげるよ」

 少しずつ声が近付いているのがわかったが、私の体は動いてくれなかった。真っ暗に捕まってしまった。

「いや、な、こと」

 声だけは出せたけれど、聞いたことのないようなかすかすな声だった。

「ここには、いやなこと、なにも、ないよ」

 彼はもう、私の逃げ場ではなかった。

「たのしくないこと、いらないでしょ。いらないもの、なにも、ないよ」
「いらない、もの……?」

 私は彼の声が自分の声とそっくりだと気がついて、背が粟立った。

「なにも、なくなるよ」

 足元で闇が囁く。私の言うことに耳も貸さず、ただ近寄ってくる。

 違うのだと、叫びたかった。他愛無い会話しかしない級友を嫌っていたわけではない、傍にいてくれない父を憎んだわけではない、変わってしまった母を恨んだわけではない。彼に呼び掛けたのだって、こんなことを望んでいたわけではなかった、のに。

「ねええ、かえっこしよ」

 彼の声が膨れ上がったと思うと同時に、側溝から、視界を埋め尽くすように暗い黒いものが、ぶわっと、溢れ出た。

「かえっこしようよおお」

 噴き出したと言うには、それはあまりにも重くて、どろりとしていて、まるきり覆われた私はがむしゃらに腕を振るった。しかし手応えはなく、暗闇は口や目から染み込んでくるようだった。何てものと話をしていたのだろうという恐ろしさが一瞬で体中を駆け巡って、じっとしていることなどできなかった。

「いらないものおおおおお、ぼくにいい、ちょうだいいいいいい」

 涙腺と喉の奥が、同時に弾けた。

「――ちがうちがうちがう! いらなくなんかないよ!」

 ちがう、みんな、だいじ、なんだ、いやな、ことも、あるけど、でも。

 血を吐くように叫んだつもりの声は、しかし闇を切り裂くには至らず、ただのかすれた音になって意識と共に沈んで消えた。



 そこで一旦、私の記憶は途切れる。目の前が漆黒に染まったところで。

 次に気付いた時には、父親が泣いていた。私が倒れたと聞いて、仕事を切り上げて飛んできたのだそうだ。丸三日、私は眠り続けていたという。父は私の頭をぐしゃぐしゃに撫でながら、がらがらの声で、ばかやろう、と叱ってくれた。それから撫でる手を緩めて、ごめんな、とも言ってくれた。私もつられて相当泣いた。

 倒れている私を見つけてくれたのは、クラスメートだった。犬の散歩に出て見つけたというから、私は一晩中外に倒れていたらしい。真っ白な顔で倒れている私を見つけて、死んでるんじゃねえかと思った、とそれこそ蒼白な顔で言っていた。生きてて良かった、とぽつりと漏らして、ほっとしたように目を拭っていた。

 母とは電話で話をした。私が目を覚まさない間に連絡を受けていたらしい母は、大層安堵してくれた。私は、父宛ての手紙を読んでしまったことを母に謝り、元気な赤ちゃんが生まれるといいと伝えた。最後にさよならと言って切った。

 何があったのかと様々な人から聞かれたが、私は覚えていないとだけ繰り返した。何と説明していいのかわからなかったし、あったことをそのまま言葉にしても伝えたいことがちゃんと伝わるとは思えなかった。結局、原因不明の急病だったということで、私の日常はすんなり戻ってきた。ほんの少し、変わったかたちになって。

 世界が変わったのか、私が変わったのかは、よくわからなかった。とりあえず、ひとり、ではなくなった。確かなことはそれだけだったが、私には充分だった。

 「どぶのカミサマ」の噂は、それから程なくして立ち消えた。私はほっとして、ほっとした自分に少し失望した。



 彼のことは、思い出さないように努めた。夜に出歩くのをやめ、日中でも側溝には近付かなくなった。いや、正確に言うなら、近付けなくなったのだ。何年経っても、夏が来るたび、私は彼を思い出した。そしてもう二度と会わないようにこっそり願いながら、秋が来るのを待っている。

 大人と呼ばれる歳になった今では、彼が本当にいたのかすら危うく思え、想像の産物に過ぎないと考えては記憶を追いやろうと努めもする。しかし、詮無い思いはふとした時に浮かび上がり、もしまた彼に出会ってしまったら何と言えばいいのか、と考えては途方に暮れる。恐ろしさに任せて叫び出せばいいのか、それともありがとうとでも言うべきなのか。

 少なくとも、「あなたはぼくですか」とは、言わないだろう。もう二度と。






  了




*サイトアクセス938hits リクエスト作品
  御題 「闇夜」

やでお様、938ヒット報告ならびに御題提供ありがとうございました。
938を「草葉(くさば)の陰から……」と語呂合わせをするその感性、頂きました。
始めは純粋なホラーでも書こうかと思っていたのに、結局こんな仕上がりに。
どのジャンルに属するのか、自分でもよくわかりません。
お好きなように受け止めて頂ければ、これ幸いであります。






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