return to contents...
うさぎその少女が微笑むと、周囲にいる人間は皆心を奪われた。艶のある黒い髪が揺れると皆が振り返り、長く巻いた睫毛の伸びる瞼が伏せられると皆が覗き込んだ。誰もが彼女の絹のような白い肌に触れたいと思い、誰もが赤く潤う唇に思いを馳せた。 少女は熱っぽい視線を全身に浴びながら、美しさを重ねていった。少女は自分が愛されることに、何の疑問も抱いていなかった。 ある日も少女は取巻きに囲まれて微笑んでいた。取巻きたちは少女を見つめ、同じ空気を吸い、同じ時を過ごすことに陶酔していた。 「ねえ」 鈴の音のような少女の声に、皆が引き寄せられる。少女は頬杖をつき、うつむいたまま続けた。 「何を見ているの?」 少女を取り囲む者たちは競うように身を乗り出した。 「勿論、君を見ているんだよ」 「あなたがいる時は、誰だってあなたを見るわ」 「大人も子供も、男も女も、あなたを見ずにはいられませんよ」 やかましいくらいの声に囲まれた少女は、うるさそうに眉をひそめた。そんな仕種さえも美しく、取巻きたちは一瞬言葉を失って溜め息を吐いた。 「違うわ。私が聞きたいのはそんなことじゃないの」 少女の声で我に返った者は、更に彼女を褒め称える言葉を並べ立てた。が、賞賛されることに飽きている少女の耳にはどんな文句も届かなかった。 「私が聞きたいのは、彼の答えよ」 そう告げた少女は、取巻きの輪から一歩離れて佇む少年を見据えた。取巻きたちは不機嫌な声を張り上げた。 「何を言ってるんだい。こいつには何も見えちゃいないよ」 「そうよ。だって彼は盲目だもの!」 「あなたを見ることができないなんて、普通の神経じゃ耐えられませんね」 少女の視線を受けた少年を、取巻きたちはこぞって嗤った。少女は特に心を動かされた様子もなく、淡々と少年に尋ねた。 「いいから答えて。あなたは何を見ているの?」 少年は閉じたままの目を少女の方に向け、答えた。 「……何も、見えないよ」 少女は大げさに溜め息を吐いてみせた。 「つまらない答え」 少女が少年を嗤うと、取巻きたちもそれに倣った。それを知っていて少女は笑い続けた。 少女の美貌はその性格を歪め、残酷な愉悦に酔わせた。 「ねえ」 少女は自分の声の持つ力を心得ていた。 「手を出して」 少女は一人で盲目の少年と向き合っていた。少年は両手を差し出し、その上に何かが乗せられるのを感じた。 「……うさぎ?」 耳を垂らした子うさぎは、少年の手の上で震えていた。そこに、少女の楽しそうな声が降った。 「それを、握り潰して」 少年のぎょっとした様子に、少女は笑い声を漏らした。 「握り潰して」 少女は少年に近付き、繰り返した。少女の囁きに触れた少年の耳朶がさっと赤く染まり、彼は一歩退いて息苦しさに耐えた。 「……できないよ、そんなこと」 「私が頼んでいるのに?」 少女はうさぎを乗せている少年の両手に、自分の手を重ねた。少年は身じろいだが、少女は逃がさなかった。 「握り潰すの」 少女の手に力が込められ、少年の手でうさぎを潰させようとする。小さなうさぎはただ震えるだけだった。 「……できない」 「やるの」 少年は抵抗し、少女は更に力を入れた。少年の手の中で、うさぎは少しずつからだを縮められた。少年はその毛並みの温かさに息を呑んだ。少女は歪んだ笑みを浮かべた。 うさぎが、ぐうっと鳴いた。 「――できない!」 少年は少女の手を振りほどいてうさぎを抱きかかえた。浅く呼吸する少年を見て、少女は眉間に皺を寄せた。少年が声を張り上げたのを聞いたのは、これが初めてだった。 「どうして?」 少女は不愉快そうな声を上げた。 「そのうさぎがどうなったって、関係ないじゃない。血が出たって、どうせ見えないんだし」 投げかけられる言葉の冷たさに、少年は唇を結んで耐えた。短い沈黙の後に、少年はかすれた声で言った。 「関係なくても見えなくても、うさぎは血を流すし、死ぬんだよ」 少女はあからさまに不機嫌な声で、ああそう、と応えた。少年はそれ以上何も言わなかった。 「じゃあ、うさぎを返して。他の子にやらせるから」 少年は迫り来る少女の手から逃げ、階段を踏み外して手足を何針も縫う怪我をした。うさぎは無事だった。次の日、少女は取巻きたちの前で素知らぬふうに、大変ね、と少年に声をかけた。 年月が過ぎても、少女の美しさは増すばかりだった。髪を長く伸ばし、結ばずに誇示する術を覚えた。取巻きは増える一方で、それを煩わしく感じ始めていた少女は、ある日一人で帰途についていた。それが元凶だった。一人歩く自分をつけている男がいることに、少女は気付いていなかった。少女の退屈な鼻歌を聞く者は、その男以外にいなかった。 静かな昼下がりだった。 男は人気のない公園に少女を引きずり込んだ。わけもわからず少女は叫んだが、すぐに口を塞がれた。男は茂みに少女を倒し、その上に覆い被さった。 少女のひ弱な力は何の役にも立たず、抵抗し叫ぶ度に男は少女を殴った。男はぐったりとした少女の股を割り、押し入ろうとした。 少女にとって幸運だったのは、叫び声を聞きつけた取巻きがいたことだった。取巻きの一人が少女の声に気付き、他の一人が男に組み敷かれている少女を見つけた。そしてもう一人が少女から男を引き剥がしたが、その目が少女を捕らえた時、一瞬昏い光を帯びたのを、少女は見逃さなかった。 男は取巻き連中のリンチに遭い、大怪我を負った。救い出された少女は取巻きたちの手を振りほどき、我が家へと走り去った。少女は震えの止まらない体を抱き締めて夜を明かした。 少女は笑うのを止めた。 取巻きに囲まれる少女から表情が消えた。微笑みが消え、笑い声が消えた。少女は自分が襲われた時のことが話題にのぼった時でさえ、表情を変えなかった。自分への哀れみの声や、男への怒りの声を聞いてもそれは同じだった。しかしそれでも少女の美しさが損なわれることはなかったので、取巻きが減ることはなかった。黒髪に覗く伏せられた瞳を見ようと、多くの人間が集まった。 周囲の人間が、少女の変化を深く気に留めることはなかった。取巻きが気にするのは、少女の体に残った傷のことばかりだった。その傷もほどなく消え、少女の美しさは日ごとに増していった。 「しかし、傷が消えて本当によかった」 「あんな男に汚されては大変だものね」 「ああいう輩は、死罪にすべきですよ」 美しさに反比例するように、少女の口数は減っていった。 家族といる時も、少女は笑わなかった。世の中の恐ろしさと助かった幸運をとうとうと語る両親の声を子守歌に、父親の運転する車の後部座席で、少女は眠りに落ちた。少女はひどく疲れていた。 少女は静寂を聞いた。それは孤独の音だった。 そしてその刹那の後、悲しい爆音が少女の耳を劈いた。悲鳴を上げる間もなく、少女の意識は深い闇へと沈んだ。 少女は黒煙を上げる車の中で夢を見た。それは成長した眉目秀麗の女性が多くの取巻きたちに守られ愛される、甘い甘い夢だった。 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ その青年が女のことを訊くと、町の人間は皆顔をしかめた。 初めて見る写真の中の美しい少女に、青年は会いたがった。町中を捜してもその女はいなかった。女の所在を尋ねる青年に返ってくる答えは、決まっていた。 「もう、あの人はいないよ」 美しい少女の存在は過去のものだった。 青年は女を捜すのを止めなかった。美しさを失った女を捜し続ける青年を、町の人々は嗤った。顔のわからない女を捜し求める青年の耳には、暗い噂ばかりが飛び込んできた。 「隣町で身売りしていたらしいな」 「病に臥せって余命いくばくだそうね」 「とうの昔に自害したんじゃありませんでしたか?」 青年は噂の真偽を一つ残らず確かめた。その他に手掛かりを持たない青年には、汚れた噂に信用を寄せるより他なかった。 全ての噂は噂だったことがわかった時、青年は写真を手放した。少女の美しさを心の内に留め、それでも女を捜すことは止めなかった。 そして季節は一巡した。 見逃しそうなほど小さい工場の男は、笑顔で青年に話を聞かせた。 「よく働く娘だったよ。うちで働く分には容姿は関係ないからね。たまに、顔が痒そうにしていたがね。熱気で傷が疼いたんだろうよ」 青年は驚きと喜びの入り混じるのを感じながら、工場の男に訊いた。 「彼女は今、どこにいるのですか」 青年は何度も口にしてきた問いを投げかけた。工場の男は表情を変えた。 「さてね。あの娘の噂が流れ始めて、出て行っちまったのさ。なんでも山川越えて向こう隣の町まで行くって言ってたが、どうだかね」 青年には他に頼れるものはなく、工場を後にした青年は、些細な手掛かりを見失うまいと女の跡を追った。 青年が辿り着いたのは、豊潤な香りの立つパン屋だった。主人の話では作業場で働く女がそれらしく、青年はパン屋の店じまいを待った。 日が暮れ、パン屋の灯りが消え、出てきた女の顔は影に隠れてよく見えなかった。青年が近寄ると女は顔を上げ、その黒髪の隙間にただれた肌が見えた。残る面影に、間違いはなかった。 「会いたかった」 青年の声に、女は怪訝な表情を作った。そして青年をよく見たかと思うと、はっと息を呑んだ。上着の袖から、幼き日の傷跡の残る青年の腕が覗いていた。 「何をしに来たの」 女は射るような目を青年に向けた。 「私の顔を見て嗤いに来たの」 牙を剥く女を、青年は見つめ返した。青年にとって、初めて見る女の顔だった。 「君に、会いたかった」 二人の間に沈黙が流れた。青年はただ静かに女を見つめ続け、女は反撃を試みて何度か口を開いた。 「放っておいて」 何度目かで声になった女の言葉は、微かに震えていた。青年も女も、気付かない振りをした。 女はもう一度青年を睨みつけ、立ち去ろうと足を進めた。青年は女の腕を掴んで止めたが、女はそれを振り払おうと腕を振った。 「私はあんたに会いたくなんかなかった」 ぎりぎりと鳴る音が聞こえそうなほど、女は腕に力を込めて青年を拒絶した。青年は女の手を離したが、女から視線を離すことはしなかった。 「……見ないで」 女は呟いた。青年の耳にもその声は届いたが、青年は女を見続けた。 「――見ないで!」 女は手を伸ばして青年の目を塞ごうとした。青年はそれを避けようとしたが、女の爪は青年の頬をかすめ、小さな傷を作った。女はぎくりとして手を退き、もう片方の手でそれを握り締めた。 「……どうしてここに来たの」 女は押し寄せる感情の波を抑え込もうとするように、自分を抱いた。困惑した表情は、うつむいた影に隠れている。 「どうせ、罰が当たったんだとでも思ってるんでしょう。いい気味だと思っているんでしょう。もう放っておいて。どうせ私は幸せになるつもりなんてないもの。私はただ、静かに死にたいだけなの」 女の絞り出した声は夜に溶け、どこからか漂ってきた涼しい草の匂いが二人の肺を埋めた。青年が一歩足を踏み出すと、女は身じろいだ。 青年は女の頬に手を伸ばした。女は身を引いて逃げた。一瞬だけ触れた女の傷跡の感触が、青年の指先に残った。 「君の言う通り、罰が当たったんだと言う人はいたよ」 「そうよ。あんただってそうでしょう」 青年は密かに拳を握った。 「それを聞いた時、僕は初めて人を殴った」 女は黙った。 青年はもう一度、女の頬に手を伸ばした。女は身をびくつかせたものの、逃げることはなかった。 青年は女の傷跡に触れた。まるで今にも血が流れ出しそうだと思った。 「君は、泣かないの?」 女の目は薄らと潤んでいた。 「泣かない」 女は青年から離した目を伏せ、見えないものを睨むように呟いた。 「泣くと、傷が疼くの」 うつむく女の髪が、青年の指にさらりとかかった。細やかな感触に捕らえられた青年はその隙間に手を差し入れ、女の頭を引き寄せた。女は首筋に添えられる青年の手から逃れようとはしなかった。 女は温かく、震えていた。 「――うさぎみたいだ」 あの時、僕の手の中で震えるしかなかったうさぎみたいだ。 青年は囁き、黙った。 涼しく静かな暗闇の中で、女の震えが止まった。 女は、一粒泣いた。 青年は、女の傷の上を流れる涙よりも美しいものを、知らなかった。 了 return to contents... |