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秘密


 彼は全くの無欲だった。要領が悪く、誠実で勤勉で、それでいていつも俺よりもわずかに優秀だった。

「ようやく引き継ぎが終わったんだけどさ、いつになっても異動ってのは緊張するよなあ」

 同じ会社に勤め、住む家も近い俺たちはいつものように駅のホームで顔を合わせた。他愛もない会話に、俺は目も見ず相槌を打つ。

「まあ、そのうち慣れるさ。支社とは言っても同じ会社なんだし」

 そんなふうに心にもないことを言う。異動なんて言い方でごまかされるほど彼も子どもではないだろう。体のいい左遷だと気づいているはずだ。

「まあなあ。のんびりできそうなのは自分に向いてる気もするし」

 彼とは高校からの付き合いで、大学も一緒で、その頃からの楽天的な口調は変わらない。それを皮肉かと勘ぐってしまう俺の悪い癖も、変わらない。

「こうやっておまえと朝から会うのも、今日で最後かあ」
「そんな、仲良しこよしって歳でもないだろ」
「いやそうは言ってもさ、残念だよ、実際。昔っから今まで付き合いがあるのなんておまえくらいだし。しみじみしてくる」

 彼が善良な物言いをする度に、俺は黒々とした物が胸の内に凝り固まっていくのを感じる。その正体は劣等感と猜疑心。それに今は、罪悪感も混じって決して消えることはない。きっとこれから一生。

 彼は、電車が来るのを待ちながら、昔の話をのんきに話している。高校の学祭で下手なバンドをやったこととか、大学のサークルで飲みつぶれて路上で眠ってしまったこととか、楽しそうに。俺は好きだった女が何も知らずに彼の恋人になったこととか、テストで彼にぎりぎり負けたこととか、そんなことしか思い出せなかったのでにこにこと話を合わせるだけだった。

 長く時間を共にしているのにこうも違うのかと、今までに何度思ったことか。心の中で誰かに暴言を吐いたり、残酷な想像をしたり、とても人前には出せないような思いをわだかまらせたことが、彼にはないのだろうか。

 それが真実だとしたら耐えがたいことだ。それじゃあ、人知れず脳内で誰かを辱めたり殺したりしている俺は、許されない汚れを持っていることになってしまう。

 だから俺は、彼を蹴落とすためにやってはならないことをしたのだ。彼から離れたくて、俺よりもほんの少し、しかし確実に先を行く彼の足を引っ張り、醜い想像を現実にでっちあげ、彼を踏み台にのし上がらんとした。それで俺は解放され、晴れやかな気持ちになるはずだった。それなのに。

「そういえば、おまえ、僕に隠してることがあるだろう」

 彼の何気ない言い方が、余計に突き刺さった。俺は表情を作ることもできずに、ただ無様に「何のことだ」と言い返すだけだった。

「隠すことないのに。僕のことを気にしてるのかもしれないけど、いいんだ、別に。そんなことはさ」

 穏やかな口調。それは自分の罪を見透かされたようで、それでいて普段通りの余裕を振りまいているようで、どちらにせよ直視できなかった。

「そうだ、今度飲みに行かないか。ふたりでさ。そのときに、言いたいことがあるんだ――」

 そう言って振り向いた彼の胸を、俺は、つい、とんと押した。何が起こるかはわかりきっていた。ホームには列車の到着を告げるアナウンスが流れていたのだから。それなのに、彼は、何が起きたのかわからない、俺の意などさっぱり汲み取れないといった顔で、俺を見ていた。子どものような目で、無邪気に、きょとんとしていた。

 それも、減速しきれずに滑り込んできた列車に横なぎにさらわれ、一瞬で掻き消えた。



 最後に彼が何を言わんとしていたのかは、俺が警察に捕まってから届いた手紙でわかった。今時手紙なんて、古風なことをする。どこかでわざわざ買ったのだろう、派手すぎないが立派なメッセージカードに、見慣れた彼の字がおどっていた。

「昇進おめでとう!」

 彼は、ああ彼は、全くの無欲だったのだ。







  了









*twitter企画「同じプロットでSSを書く」
 1)登場人物
  A、B(年齢性別関係性人類人外生死不問)。
  AはBに対して秘密を持っている。
  AB以外の人物の登場は可。
 2)場面
  別れの朝(時間場所空間再会の可否等々不問)。
 3)台詞
  B「(次に会う時に)言いたいことがある」
  キャラクターや状況に合わせた言い回し、語尾の変更等は可。

森本鰆(@m_sawara)様主催の企画に参加させて頂きました。






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