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或る身勝手な男の話


 誰の目にも留まらない透明人間に憧れる、とある有能な博士がいた。頭は良かったが他にこれといった得手はなく、己の知能をいかにして役立てるか、徹底して自分の役に立つかばかりに心を砕く利己主義者だった。その熱意は研究の背を押して優秀さに拍車をかけたが、それでも博士が満足することはなかった。

 人間を縛るあらゆるしがらみを捨て、思う様に生きられたら、どんなにか愉快だろう。誰もが同じように考えているはずなのに、それを口に出すことを世間は許さない。博士が思うに、真に満足に生きるためには邪魔なものがたくさんあった。倫理や道徳といったものは何の価値もないと思っていたし、社交性やら社会性やらは単なる枷でしかなかった。

 だから博士は、透明人間の物語を好んだ。かようになれれば誰にもうるさいことを言われずに自由に生きられる、そう考えてはほくそ笑んだ。しかし博士はそれが不可能であることもわかっていたので、同じくらい透明人間の物語を憎んだ。

 人は透明にはなれない、皮膚も臓腑も血液も透明にすることはできない、博士は嫌というほど知っていた。彼は常に飢えていた。

 その葛藤が更に暗い情念を燃やし、彼の身勝手は、結果として偉大なる発明を生んだ。

 博士のとってのしがらみは、全て人間の頭の中にあることだったから、その人間に気付かれなければそれは透明も同然である。そう考えた彼は煮えたぎる情念に急かされるように人知れず発明を完成させ(彼にとって発明を世に知らしめることにはさして意味がなかった)、ひとつの薬を作り上げた。人の頭に働きかけ、飲んだ人間を認知する器官を狂わせる物質を発生させる薬だった。

 薬を飲み下す彼に、ためらいはなかった。ただ期待だけがあった。

 効果は抜群だった。

 まず彼は適当な店に入り、適当に食べ、何もせずに店を出た。当然咎める者はなかった。食に対してさしたる興味もなかったが、とりあえず高いものを食べ散らかし、しかしやはりまずいと思っては捨てた。

 それから金を盗もうとして、しかし誰かに金を払う必要のないことに気付いて、いたずらにその金をばらまいたりした。群がる人間どもを見て高みから笑った。

 彼の悪意の増長を止める者はなかった。悪意自体に気付く者がなかったから、当たり前だった。彼は飢えを満たすために、ただひたすらに、傍若無人に振舞った。

 道を歩いていると向こうから若い女が来たので、襲った。女は何が起こったのかわからぬまま抵抗したが、殴り付けたら大人しくなった。彼は思う様恍惚をむさぼると、女をそのまま捨て置いて次を探した。

 ふと思いついて、自分の勤めていた機関を覗いた時、彼は同僚だった男を刺した。そういえばこいつの顔が気に食わなかったと思い出しながら、笑って刺した。死ぬのを見届けてから、悠々と立ち去った。もちろん犯人は掴まらなかった。

 そうやって、ずっとずっと、やりたいことをやりたいように続けた博士だった男は、やりたかったことをやり尽くしてしまった。身勝手にも飽きがくるとは予想外だった。元の体に戻そうと思ったが、ものを考える必要のない生活を長く送ったせいで、その知性は失われていた。



 彼は途方に暮れた。大声で叫んでも騒いでも、誰も気付かない。壊したり殺したりしても、誰も彼を気にしない。そうして全ての欲は失われ、ただ無気力な生き物になった。たったひとつ残った願いは、誰かに気付いてもらいたいという、この上なく身勝手なものだった。もちろん、叶うべくもなかったが。

 車に轢かれたのは、うっかりしていたからだった。彼が誰にも気付かれないのと同じように、彼もまた、迫り来る大型の自動車に気付かなかった。

 不幸なことに、かろうじて一命は取り留めた。車は一旦停まって、運転手が後ろを振り返ったが、自分が轢いたものに気付かなかったので、そのまま走り去った。彼の喉からは際限なくうめき声がもれたが、彼の耳以外にはどこにも届かなかった。

 彼は誰かが気付いて医者を呼んでくれる、病院へ連れて行ってくれるという願いを捨て切れなかった。激しい痛みの中で、彼はかつて自ら手放したものを切望した。しかし、やはり、一度捨てたものが手元に返ることはなかった。

 緩慢にただの塊に近付く彼に、舞い降りるものがあった。黒い鳥は横たわる肉塊に止まり、その肉をついばんだ。鳴き喚く烏にしかめ面を浮かべた人々が幾人か傍を通り過ぎた。その中には、鼻をひくつかせる者もいたかもしれない。

 誰の目にも留まらない男は、笑い出した。腹の底から、辺り一面の空気を震わせる哄笑を轟かせた。いくら烏が己の肉を食いちぎろうとも途絶えることはなく、むしろ勢いは増すばかりだった。

 それは、狂ってしまったのではなく、自分が認識されたことへの喜びから出た笑い声だった。嬉しくて、涙で顔を濡らすほど笑った。喉が嗄れても、血を吐くまで笑い続けた。ぎゃあぎゃあと鳴く烏の声と混じって、獣の雄叫びは震え広がった。

 絹を裂く笑い声は、唐突に止んだ。程無くして飛び立つ羽音が空に消えたが、それを聞き留めた者は誰もいなかった。







  了








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