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Thank you !


 誰にも信じてもらえないようなことが起きた時に、もしそれが大事な体験だったとしたら、誰にも話さない方がいい。信じられない、ありえないと諭されるうちに、きっと自分の記憶を疑い始めてしまうからだ。誰にも信じてもらえないような、それでも大事な体験は、自分の中にしまっておくに限る。誰にも見つからない場所に、こっそりと、けれどいつでも取り出せるように。

 俺はそうしてきたから、あの日のことをいつでも鮮明に思い出せるし、決して忘れない。もちろん、今でも。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 どうしようもなくひとりぼっちな気分を抱えていたら、いつの間にか猫を拾って帰っていた。うちのアパートは動物の持ち込み禁止なのだが、つい、拾ってしまった。首輪をしていない薄汚れた猫に、なんだか共感を覚えてしまったのだった。誰のものでもない、自由だけれど孤独な存在。狭い風呂場でこっそりと洗ってやると、その毛並みは驚くほど白かった。ドライヤーでふくふくになったところにちょっと指を埋めたら、あんまり温かくて気持ち良いものだからうっとりしてしまった。

 そんな毛並みを誇るように猫らしく気高い素振りで欠伸をするのを見て、俺は呟いたのだった。

「おまえ、ひょっとして金持ちのとこの猫か?」

 そうしたら、聞こえてしまったのだ。

「野良でござるよ」

 猫が来ただけで狭くなったと思えるような部屋を隅から隅まで見まわした後、まさか、と思った。まさか、返事なんて期待して言ったわけでもない。まさか、返事なんて聞こえるはずがない。だって、この部屋には誰もいないのだから。俺と、猫以外には。

 おそるおそる手を伸ばすと、猫は俺の手に顔を寄せてきた。ごろごろと喉を鳴らしながら。俺は猫に顔を寄せた。大きな目が俺を見ていた。

「……空耳だよな」

 独り言のような、問い掛けのような言い方になってしまった。問い掛けたって答えが返ってくるはずもないのに。うん、空耳に決まってる。

「空耳ではござらんよ」

 あれか、最近、テストにバイトで疲れているのかもしれない。でなかったら、ちょっと、心が消耗しているとか。

「確かに、喋ったのは拙者でござる」

 俺は考えた。こういう時に駆け込むとしたら、何科がいいのだろう。幻聴なら耳鼻科か?

「思ったほど驚かんのでござるな」
「……そうでもないよ」

 うわ言のようだった。そう、熱にやられてるんだったらまだわからないでもない。でも体の丈夫さは自慢できるくらいだし、酒も飲んでないし、睡魔に襲われてるわけでもない。それなのに。

「貴殿は肝が据わっていると見える」

 笑うしかなかった。ああそうさ、俺は肝っ玉がデカいんだ。でもそれを口に出すには、開き直りがほんの少し足りなかった。

「申し遅れた。拙者、ゴイチと申す者」

 猫は当然のように喋り続けている。おかしい。猫が喋れるわけがない。でも、喋っている。ということはおかしいのは俺か? もう、いいや何でも。

「変な名前だな」

 俺は深く考えることを放棄した。どうせ一人なんだし誰におかしいと思われるわけでもないんだから、それが一番手っ取り早い。

「失敬な。吾一とは、われは唯一という意味の、立派な名前でござるぞ」

 吾一と名乗った白いのは、そう言って毛を逆立てた。どうやら本当に猫ではあるらしい。

「ごめん、気に障ったなら謝るよ。耳慣れない名前だったもんだから」
「いや、結構。拙者は、どうも頭に血が上りやすくて適わぬ」

 はあ、と返事のような溜め息を吐く。

「兎に角、貴殿の親切、痛み入った。この吾一、心より感謝致す」
「……はあ。いや、そんな」

 なんだかやけに物言いが丁寧というか、堅苦しいので、こちらとしても改まってしまう。気付いたら俺は正座をしていた。

「……ところで」
「はい?」
「親切ついでに、何か食べ物を戴けぬでござろうか」
「食べ物?」
「あいや、残飯で構わんのでござる。拙者、丸一日何も口にしてござらんのだ」

 前足で顔を洗うようにしつつ(照れ隠しなんだろう、たぶん)、吾一はそう言った。

「いいよ。何食べたい?」
「拙者は何でも」
「何か好きなものくらいあるだろ? いきなり特上カルビなんて言われても困るけど」

 吾一は口ごもった。いや、だが、しかし、とまあ話が進まない。

「いいから言えって」
「……拙者は、白米と味噌汁が好物でござる」

 いよいよもって古風な猫だ。見た目はどちらかと言えば洋風なのだが。

「ちょっと待ってろな」
「かたじけない」

 俺は颯爽と立ち上がった。料理には自信がある。前に、彼女から「料理人になったら?」と言われたこともあるほどだ。せっかくだから美味いもんを食わせてやろうと思った。今のところ、化け物に変身する様子も俺を食おうとする様子もないし。

 昨日の残りの味噌汁(具は豆腐とワカメ)を温め直して、猫用にちょっと薄めつつ、その間に冷や飯を器に盛る。準備は万端だ。元がいいから、これでも充分に美味いのだ。

「ほれ。俺のお手製だぞ」

 飯を吾一の前に置く。

「味噌汁、かけるぞ」
「お願い致す」

 片手鍋から直接味噌汁を注ぐ。吾一の目は、器の中に釘付けだ。

「よし」

 完璧な量が注がれたところで鍋を水平に戻す。これで、器の中の飯と味噌汁は渾然一体だ。

「頂くでござる」

 吾一はよほど腹が減っていたらしく、勢いよく食べ始めた。鍋を持って流しに戻る。俺は冷蔵庫から冷えたビールを取り出した。さっきからずっと、アルコールが欲しいと思っていたのだ。缶のプルタブを開けて一口飲み下す。一息吐いて、もう一口。ふと、この缶を持って戻ったらひょっとしてあいつはもういないんじゃないか、と思った。そもそも、猫なんて拾ってなかったとか。それはそれでどうかとも思うが、少なくとも、俺は振り返る時にちょっとどきどきしていた。

 居間では白く綺麗な毛並みの猫が空の器の底を舐めていた。俺はなぜか安堵の溜め息を吐き、缶を持ってその前に座った。

「そんなに急いで食わなくても、なくなんないのに」

 独り言のように呟いて、ビールをあおった。

「貴殿の名は?」
「え? ああ、俺?」

 吾一は空の器を前にして、俺を真っ直ぐに見ていた。透き通って、すごく綺麗な目だ。

「ソウジだよ、宗治」

 吾一はただでさえ大きな目を、更に大きくさせた。驚いているようだった。

「どうかした?」

 吾一は俺の質問には答えず、笑った。

「宗治殿」
「うん?」
「宗治殿は、料理が上手いでござるな」
「……そう?」
「宗治殿の味噌汁、実に美味かった。拙者は、こんなに美味いものが食えるとは思わなんだ」
「それは、ちょっと褒め過ぎじゃ」
「いや、言い足りないくらいでござるよ」

 吾一はお世辞を言えるようには見えないが、だからといって単純に喜ぶのは気がひけた。あれを、果たして料理と呼んでいいものか。

「こんなに美味い飯を食わせてくれたのは、宗治殿が二人目でござる」
「二人目?」

 なんだか微妙な褒め方だ。

「一人目は拙者の初めての……そして最後の飼い主でござるよ」

 目を糸のように細めて、吾一はそう言った。

「少し、昔話をしてもよろしいでござろうか」

 口の中のビールを飲み下しつつ、頷く。

「拙者は昔、野良猫の時分に、拾われたのでござる。その時、拙者は他の猫と戦った後で、怪我があった。その手当てもしてもらったが、拙者は懐こうとはしなかった」

「猫ってそんなもんじゃないの? 我を通すっていうか」

「中にはそういう者もおるが、拙者は恩返しくらいは致すよ。ただあの頃は、戦いに負けた悔しさもあったが、拙者は人間が嫌いでござった」

「人間が? なんで?」

 こういう、深く考えずに軽く聞き返すようなデリカシーのなさは、反省の余地がある。

「人間が、拙者を捨てたからでござる」

 俺が言葉を探して口をぱくぱくさせている間に、吾一は笑って続けた。

「気になさるな。もう昔の話でござる」
「……でも」
「珍しい話でもござらん」

 確かに捨て猫捨て犬の類の話は珍しくはない。珍しくはないが、そんなことはこの際関係ない。軽く聞き返してしまったせいで、そんな話を、吾一本人の口からさせてしまったのが問題なのだった。そう言って、ごめんなと呟くと、吾一はまた目を目一杯細めて笑ってくれた。

 軽々しい口は俺の悪い癖だとわかっているのに、なかなか治せない。

「……今も?」
「む? 何と申した?」
「……何でもない」

 今も、嫌いなのか?

 俺は言葉を飲み込んだ。俺はいつの間にか随分と吾一を気に入っている自分に気付いた。気に入った奴のことは、知りたくなる。知りたくて、つい、余計なことまで聞いてしまう。そのせいで痛い目を見たばかりだというのに、俺の口と言うやつは減らない。

 こっそりと溜め息をついたつもりだったが、吾一の耳には届いてしまったかもしれない。彼はすぐに話を進めた。

「ともかく、拙者は飼われることになったのでござるよ。怪我さえ治ればさっさと出て行くつもりでござったが……」
「結局、居ついちゃったってことか」
「まあ、そういうことでござる」
「その人、どんな人だった?」
「宗治殿の親の親と同じくらいの世代でござろう。翁《おきな》と呼ぶと喜んだ」
「……その時から、もう喋れたの?」
「飼われ始めてすぐは駄目でござったが、気付いたら拙者は人間の言葉を理解出来るようになってござったよ。言葉を覚えたのは、この頃でござる」

 翁ってことは、おじいさんであって……。

「……そのじいさん、時代劇とか見てなかった?」
「好んでよく見ておったよ。拙者もよく、翁の膝の上で一緒に見ていたものでござる。あれはなかなかよく出来ている。大岡越前とか、水戸黄門とか。一度、翁をご老公と呼んでみたこともあったが、あれは翁が照れてしまった」
「……なるほどね」

 見た目の割りに古風な理由がわかった気がする。時代劇が日本語の先生じゃ仕方ないか。

「翁は本当によくしてくれた。一人で暮らしていて、料理が上手かった。翁に撫でられたり、一緒に眠ったり、話をしたりしているうちに、拙者は翁に懐くようになった。拙者と翁は、同じだったのでござる」
「同じ?」

 吾一は一呼吸おいて言った。

「翁もまた、捨てられたのでござる。一緒に住んでいた、家族に」

 それを聞いて、胸の奥、体のやわい芯の部分がきゅっとなるのを感じた。

「翁は寂しそうに笑う人でござった。拙者は笑うことの出来ない猫でござった。けれど一緒にいると、翁も拙者も心から笑うことが出来た。拙者たちは、幸せだったのでござる。たった、一人と一匹でも」

 そう言って笑う吾一の顔には、ちょっとのかげりもない。そして笑ったまま、こう付け加えた。

「翁の名前は、宗治朗というのでござるよ」
「宗治……朗?」
「拙者はこの名に、縁があるのかもしれぬな。そう思うと、宗治殿に拾われたのもただの偶然とは思えぬ」

 吾一はきれいな眼で、またしても俺を真っ直ぐに見ながら、嬉しそうにそう言った。

「宗治殿に会えて、良かったでござる」

 まったく、こいつはなんて、なんていい顔で笑うんだろう。つらい話をしていたのに、どうしてこんな風に笑えるんだろう。

 俺もつられて笑ってしまうじゃないか。同じように、胸が、苦しいのに。

「……本当に、偶然じゃないのかも」

 笑ってごまかしながら言うんではなくて、自然と笑ったまま、俺は言った。

「俺も、今日、捨てられたんだ。……ずっと好きだった女の子に」

 とうとう自分で認めてしまって、胸がつぶれそうだったけれど、笑ったまま言えた。

 二年の間ずっと一緒にいて、春も夏も秋も冬も一緒に過ごして、最後の最後、俺に別れを告げる時まで俺の目を真っ直ぐ見ていた子の顔がくっきりと思い出されたけど、ちゃんと笑えた。

「でも、いじけてる場合じゃないな。吾一の話聞いてたら、また頑張れそうな気がしてきたよ」

 それは嘘ではなかったし、強がりでもなかった。

 きっと、誰にだって寂しい時はあるのだろう。寂しさはいつも唐突にやってきて、俺たちを潰そうとして、叩きのめそうとして、すっぽりと包み込んでしまう。でも俺たちは、いつだって、それを乗り越えていかなきゃいけないんだ。辛かった時間を、これからの糧にして。誰かと別れた後に、また誰かに会うために。

「サンキュ、吾一」
「……さんきゅ?」
「ありがとうってことだよ」

 吾一は納得したように頷くと、少し照れたように笑った。「こちらこそ、かたじけないでござる」

 それから俺たちは、他愛もない話を続けた。俺の通っている大学に悪代官顔の教授がいることとか、吾一の一番の大好物は煮干しであることとか、俺が料理人を目指しているのは実は結構本気であることとか、吾一は人間にしたらだいたい俺と同じくらいの歳であることとか。俺の別れた彼女と吾一の翁の話はしなかった。その方がいいと思った。たぶん、お互いに、そう思っていた。どれだけ明るく話したとしても、どちらもきっと、悲しい結末が待っているだろうから。

 その日はふたりで眠った。吾一も俺も、何だか楽しくて嬉しかった。そして吾一のからだは温かくて、俺はついきれいな毛並みに顔を埋めて、ちょっとだけ泣いてしまった。



 朝になって目が覚めて、俺の気分は予想以上によかった。カーテンを開けると抜けるような晴天が広がっていて、陽を浴びて伸びをする吾一の姿がのどかだった。

「絶好の出発日和でござるな」

 吾一はそう呟き、俺の方に向き直るとはっきりと言った。

「世話をかけたでござるな、宗治殿」

 その言葉に、俺は自分でも意外なくらいに驚いた。吾一とはずっと一緒にいるような気がしていたから。

「……行っちゃうのか?」

 ついそんな言葉が口をついて出た。

「この手の住居は、拙者がいてはまずいでござろう。宗治殿にこれ以上の迷惑はかけられぬでござるよ」

 俺がそんなことはないと引き止めるより先に、吾一は言った。

「それに、拙者は色々な場所を巡り、色々なものを見、聞き、感じたいのでござる。どうやら拙者は野良が性に合っているらしい」

 吾一の意志は固いようだった。俺は引き止めるのを止めた。ひどく残念だったけれど、それは隠してしまうことにした。

 もう少しここにいたって構わないんだぞ、という台詞を飲み込む。

「……もしこの辺りに来ることがあったら、寄れよ。煮干し、用意しておくからさ」
「おお、それは嬉しいでござるな」

 何だか悲しさが戻ってきてしまった俺は笑うことに徹した。

「……それでは、行くでござるよ」
「……うん」

 吾一を送ろうと玄関に立つ。吾一の背中を見ていると、不意に洗い流す前の毛並みが思い出された。拾ってから、まだ、たったの一日も経っていやしない。

「……ああ、言い忘れるところでござった」

 ふと何かを思い出したように吾一が振り向く。

「拙者は、今はもう人間が嫌いではござらんよ」

 ……このヤロウ。

「聞こえてたんじゃねえか」

 そうやってわざと憎まれ口を叩くと、吾一は意味ありげに含み笑いをした。まったく、人が悪い。いや、猫か。

「それともう一つ」
「今度は何だよ」

 半ば呆れたようにそう返してやると、吾一はここに来て最高の笑顔で言った。

「さんきゅ、でござる」

 そして吾一は俺の返事も待たずに潔く背を向けた。

「いざ、さらば!」

 そして吾一は風のように去った。まるで、時代劇に出てくる英雄みたいに、格好よく。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 初めてこの宝物を語ってみせた相手は、いつもくりくりとした大きな目をより一層輝かせて、にこにこと聞き入ってくれた。

「だから、パパはいっつも煮干しを切らさないようにしてるのね」

 母親をそっくり真似たような言い草に、ついにやけながら、そうだよ、と返事をして頭を撫でてやる。残念ながら父親に似たとは思えないけれど、頭のいい子だと誇らしく思う。

「これはおつまみじゃなくて、いつ吾一が来てもいいように用意してるんだ。けど、賞味期限があるから、ずっと取っておくわけにもいかない。となると、食べなきゃもったいない」
「おいしい?」
「うん」

 特別に分けてあげよう、と差し出すと、娘は一度うーんと頭をひねってから、深々と頭を下げて受け取った。

「かたじけない」

 その仕草が可愛らしく見えて仕方がないのは、きっと親馬鹿のせいだけでもないだろう。ママと吾一には内緒だぞ、と言いながら、たまには宝物を誰かに見せるのも悪くはないと思っていた。







  了










*サイトアクセス2020hits リクエスト作品
  御題 「猫」

やでお様、2020ヒット報告ならびに御題提供ありがとうございました。
御題、というよりも旧作の掲載の御希望に近かったわけですが、
完全新作とはいかないまでも改稿してみました。
これを機に猫じゃない方の主人公も気に入ってもらえるといいなあと思いつつ。






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