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ひとりぼっちの夜


 蛹の皮を破って外界に出た蝶が初めて見たのは、天高く晧晧と冴える銀色のものだった。蝶は一目で焦がれた。羽ばたくことを覚えるのに長い時間はかからなかった。夜を迎えて星が輝く頃には、もう蝶はひとつだけを目指して飛んでいた。

 目に見えるもので手の届かないものがあるなどとは、蝶は露ほども考えなかった。

 野を越え山を越え、街の外れに着く頃には近付くだろうと思っていたものは、それでも彼方にあった。蝶が気紛れを起こして背を向けると、それは追ってきた。どこまでもどこまでも、追ってきた。かと思って近付こうとすると、また離れた。蝶は更に焦がれた。蜜を吸えない時も、風に煽られた時も、蜘蛛の巣に掛かりそうになってさえ、ただひたすらにそれを追った。

 生命の息吹を感ぜられない世界の果てまで辿り来て、蝶は目前に広がる鉄条網の上に止まり、羽根を休めた。道程はまだ長かった。果てしなく遠いようにも限りなく近いようにも思えるそれが、月と呼ばれていることすら、蝶は知らなかった。

 その夜の月は顔をすべて見せていて、強い光は月と蝶とを繋ぐ道を照らし出すようだった。吸い寄せられるように、蝶は羽ばたいた。自分が今どこに止まっていたのかは、もう忘れていた。

 鉄条網の鉤爪が、蝶の羽根を裂いた。蝶はぽとりと地に落ちた。月は冷ややかに見下ろしていた。

 月を目指す羽ばたきは止み、蝶はそのまま動けなくなった。漂う鱗粉だけが月明かりに照らされてちらちらと瞬いていた。

 それを見届けたのは、いつまでもひとりぼっちの月だけだった。







  了









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