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とっておきの


「すいぶんボロボロになったわねえ。新しいの買ったげようか?」

 俺の姿を見て、この家の主婦はことあるごとにそう言う。それに返す、俺の主の返事もいつも同じだった。

「まだ履けっし。新しいのとか別にいらねー」

 そして主は慣れた仕草で、踵を潰して颯爽と家を出る。年季の入った工務店の脇を抜けて、小さな田んぼを横切り、踏み切りを越えて高校へと向かう。昨夜から残る水溜りは、ひとつ残らず避けながら。

 俺を履き始めた頃の主はまだ中学生だったが、近頃ますます歩幅が広がった気がする。元々主は健康優良児で、中学で大人サイズの靴を履ける体格ではあったが(でなければ、俺のようなきちんとしたスポーツメーカー製の靴など履けるはずもない)それにしても、だ。長々と近くにいた身としては感慨深いものがある。

 正直なところ、この主が誕生日だかで背伸びをして高級な靴を欲しがっているのを見たときには、こんなに丁寧に履いてくれるとは思わなかったものだ。いや、多少乱暴であったり雑な扱いがないとは言わないが、どうせもっと早くに履き潰されるものだと思っていたのだから僥倖だ。いい主である、と今となっては誇らしく思う。俺がこいつの足を守ってやらんとな、と親心めいたものさえ最近は覚えるのだから、我ながら少々呆れるとこではあるが。

「おまえなあ、靴を潰して履くんじゃないって何度言ったらわかるんだ」

 学校に着き、主をつかまえて教師が言う。それにしてもいい年の大人が同じことばかり言うというのは、言う方に学習能力がないのか、ただ主が頑固なのか、判断に困るところではある。

「うっせーよ。俺の勝手だろ、別に誰にも迷惑かけてねーし」
「迷惑とかじゃないんだよ、規律を乱すなって言ってるんだ。第一みっともないだろうが」

 校則だか何だか知らないが、俺を履く主を認めないと言うのだからこの教師、たかが知れている。もっとも、踵を潰して履くのは決して感心できたことではないが。

「ちょうどいい、今日の放課後ちょっと残れ。前々からお前の態度には一家言あったんだ」

 主は悪態で返事をしたが、教師は意に介さず教室に向かってしまった。下駄箱で俺を脱ぎ、粗末な上履きに履き替えると、主は不機嫌をそのままにざっと地を蹴った。それを俺でやらない辺り、主に落ち度があるとは思えなかった。



 結局主が下駄箱に戻ったのは夕暮れ過ぎになってからだった。隣には教師も連れて。大分釘を刺されたのだろう、俺の踵を伸ばすと、爪先から足を押し込んできっちり紐を結んで履き直した。教師が満足気に頷くのは主から見えただろうか。ともかく無罪放免、無事に帰路につくことはできた。

 反骨精神剥き出しの主のことだ、どうせ教師の姿が見えなくなったところでまた踵を潰すのだろうと思っていたが、どうやらそうもいかないらしい。そもそも履くのも苦労していたのだ、立ったまま片手間に脱げるほど簡単ではなさそうだった。やや歩きづらそうな、遅い足取り。もう主の足は俺に収まる大きさではないのだと痛感する。

 踏切を渡るのに邪魔があった。大振りな丸太だ。近所の工務店のトラックでも落としていったのかもしれない。それはどう見ても、危険と言って差し支えない大きさだった。

「ったく、めんどくせー」

 誰もいない周りにぼやきながら、主は丸太に足を乗せた。見過ごせる性格ではないのだ。

「バカじゃねーの、こんなでかいの気付かねえとか……」

 言いながら足で、ささくれ立った丸太を押していく。線路のくぼみを乗り越える、その直前で主の足は止まった。

 何が起こったのか、主よりも先に俺にはわかった。靴紐が丸太のささくれにがっちりと食い込んでしまったのだ。幸い俺には痛覚なんてないので構わないが、主の足に固く食い込む紐の感触はきっと痛かろうと察しがついた。

「ウソだろ……マジかよ」

 主は屈み込み、丸太から紐をはずそうと手を伸ばす。しかしそれは主の力でもどうにも取れないようだった。紐の方もだいぶ傷んでいたせいだろう、細いささくれと複雑に絡まってしまっていたのだ。己のふがいなさが情けない。

 そこで、主はぎくりと体を固めた。カンカンカンと甲高い警報が鳴り出したのだ。容赦なく遮断機は下り、主を踏切に閉じこめる。

「冗談じゃねえぞ……!」

 足に込める力が強くなるが、それでも俺は外れない。丸太を動かそうとした手のひらは、乾いた木片で浅く破れただけで、遮断機を越える力はなかった。

 焦るほどに主の動きは荒ぶり、しかしそれに反して俺は主の足から離れない。離れられない。己が自分の意志で動けないことをこれほど恨んだことはなかった。

 警報は鳴り止まない。主の足は動けない。逃げ道を塞いでいるのは、他でもない、俺なのだ。こんなに呪わしいことがあるだろうか。俺は他の誰よりも何よりも、主を守らなくてはならないのに。

 聞き取れない声で呻きながら暴れる主の動きがギクリと止む。線路の向こう、遠くに、鉄の塊が見えた。やばい、ともれた主の声は震えていた。

 懸命に、必死に、もがいても、俺がそれの邪魔をする。さっさと俺なんか捨てれば良かったのに。もっと新しい、足に合ったサイズの靴を買えば良かったのに。後生大事に、こんなぼろぼろの俺を、履き続けることなんかなかったのに。

 切れろ!

 切れろ!

 切れろ!

 不意に軽くなった主の体は、前につんのめったが、どうにか転ぶ前に踏みとどまった。そして靴紐がちぎれた拍子に脱げた俺をその場に、遮断機を、駆け越えた。

 それでいい。

 そして誰もいなくなった、丸太とボロ靴だけが残る線路の上を、高速の電車が走り抜けた。



 手のひらの傷も、足にできた派手な痣も消えるより先に、俺は新しい靴を買うことにした。さすがにサンダルで登校したらまずいことくらいはわかる。また説教食らうよりはましだ、と自分に言い聞かせる。

 丸太と俺の靴をひいた電車は緊急停止したことでそれなりにニュースになり、逃げ延びた俺のことも取り上げられた。学校の連中は武勇伝扱いするか笑い話にするかで半々、親には案外心配された。とりあえずまあ、無事で良かったとか何とかいう意見が大半だった。俺は、緊急停止するならもっと先にしやがれ、と返事をして話を終わらせた。たぶん、真意は誰にも伝わってない。どんな気持ちで片足だけの靴を履いて帰ったかなんて、誰にもわからない。

 片方だけ生き残った靴は、母親からこいつが元凶だとばかりに恨まれた挙げ句、あっさり捨てられた。それを引き止めるそれらしい理由は、俺の頭では思いつかなかった。せいぜい捨てられる直前にちょっと触ることができた程度だ。

 別に大切な贈り物だったとか、すげえレアものだったとか、そういう特別な理由があるわけじゃない。普通の靴屋で売ってる、ちょっと高くていいだけの、スニーカー。

 けど。

 宝物だった。



 そして主はサンダルをひっかけると、ぼろぼろの靴紐一本持って、それに似合う靴を買いに出掛けた。







  了








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