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彼女は俺に手を振り笑う


 俺の目の前には一本の道が続いていた。長い長い、どこまで伸びているのかも定かでない、真っ直ぐな道だ。胸を締めつけるような直線だ。

 俺は、自分の後ろに橋があることを知っている。その暗い橋の向こうに一人の女が立っていることも、その女が笑っていることも、知っている。

 知っているから、俺は振り向くことができない。

 彼女は俺に手を振り笑うのだ。

 俺は立ち尽くす。橋と道の境で、振り返ることも前に進むこともできずに、ただただ立ち通すしかないのだ。

 決心がつかずに固まり続けた体が、耐え切れずにぴくりと動いた時――俺の目の前が明るく開けた。


 俺の目に一番に飛び込んできたのは、天井の木目だった。自分の浅い呼吸音だけが狭いアパートの部屋に満ちている。俺は額の汗を拭った。手が震えていた。

 固まりかけの泥のような体を無理矢理に起こし、俺は乱暴にカーテンを開けた。汗でへばりつくTシャツを脱ぎ、タオル代わりに体を拭いて、ベッドの上に投げ捨てる。ベッドの縁に腰を降ろすと、自然と溜め息が出た。

 もう、覚えるほど見た夢だ。何度見ても慣れない、苦しい夢だ。夢の中で、俺はいつも決断を下せない。棒切れのように、声を上げることさえかなわないのだ。

 俺はもう一度溜め息を吐き、着替えようと疲れの残る体を立たせた。気分はひどいものだったが、俺は早々に部屋を出なければならないと思った。また眠ってしまいそうだったから。


 晩春の匂いのする道路を一人で歩いているうちに俺は落ち着きを取り戻し、ずいぶんと歩いてきたことに気付いた。見慣れない並木と住宅地。俺以外の人間は見当たらなかった。そこまでの道程をどうやって辿ってきたのか、すっぽりと頭から抜け落ちていた。知らない間に誰かに連れて来られて捨てられたような、そんな薄ら寒さを覚えた。

 まるで夢遊病だ。笑うに笑えない。

 一体、いつになったらあの夢は終わるのだろう。いつから見ている夢なのか、俺はもう思い出せなくなっている。

 不意に、目の端に小さな公園が映った。俺は引き寄せられるようにその中へ入り、塗装の剥げかけたベンチに腰を降ろした。全身をあずけると、ベンチはギシギシと小さな悲鳴を上げた。体が重い。自分で思っているよりも、俺は疲れているのかもしれない。

 目をつぶり、背もたれに頭を乗せる。静かな風が心地好かった。深呼吸をすると、若葉の匂いで胸が一杯になった。


 俺の目の前には一本の道が続いていた。長い長い、どこまで伸びているのかも定かでない、胸を締めつける直線。

 ああ、また眠ってしまった。また、彼女に会ってしまう。

 彼女が俺の背中を見て、笑っている。

 息が詰まった。俺は今にも振り向いてしまいそうだった。そしてきっと、俺は彼女を見たら橋を渡ってしまうだろう。全てを橋の前に置き去りにして。

 目を固くつぶり、拳をきつく握る。爪が掌に食い込んだが、本当の痛みはこんなものではないことを、俺は知っていた。

 大きく息を吸い込んで、俺は、振り向いた。

 彼女はそこにいた。こんなに悲しそうでこんなに優しい笑顔を、俺は見たことがなかった。

 俺を、連れて行ってくれ。

 言葉は喉の奥で刺々しく留まっている。声にすると喉を裂きそうで、飲み込むこともままならなかった。

 俺も、連れて行ってくれ。

 彼女は一心に俺を見つめている。もう二度と見ることも叶わないと思っていた、彼女の顔。彼女はいつも、目に映るもの全てを愛しているような微笑みをたたえていた。

 俺がずっしりと重い体を進めるよりも先に、彼女は動いた。か細い手を、俺に向けて振った。

 彼女の元へ行きたい衝動が、柔らかく薄まるのを感じた。悲しみだけが浮き残るのを感じた。

 一度だけ、彼女の名前を呼んだ。

 俺は振り返り、真っ直ぐに伸びる道を進んだ。再び振り返ることは、なかった。


 目を覚ました時、陽は更に高くなって木の隙間から光を漏らしていた。薄緑の木漏れ日があまりに眩しくて、俺は目を細めた。

 そして俺は不意に思い出した。ここに、俺は来たことがある。

 冬に、彼女と、二人で立ち寄った場所だ。

 あの時は雪が降り積もっていた。ベンチの上の雪をはらって、温かい缶コーヒーを持って、並んで座ってこの木を見上げた。寒くはなかった。温かいくらいだった。誰も足を踏み入れていない公園の白さに、二人ではしゃいだ。雪をまとって薄らと光る木がとても美しくて、二人で溜め息を吐いた。

 ここは、春でもこんなにきれいなのか。

 早く彼女に知らせたい衝動を抑え切れずに、俺はベンチから跳ねるように立った。家までの道の記憶を呼び起こすのももどかしく、小走りで公園から出る。

 そして唐突に、絶望が襲ってきた。立つのがやっとなほど力が失せ、いくら空気を吸っても息苦しさは治まらなかった。

 俺は、どこへ行こうというんだ。

 どこへ行っても、彼女はもういないのに。

 体がよろめき、目の奥が熱くなるのを感じた。彼女はもういない。いない。どこにも。

 彼女の最期の顔が脳裏に浮かんだ。白いベッドの上で、覚悟を決めた笑顔を見せた彼女。俺は必死で彼女に笑いかけた。自分に向けた刃をひた隠しにして、俺は笑った。笑っただけ身をえぐった。彼女をこんなにした俺が、何を笑って彼女を励ますのか。産む、と言わせた俺が。

 母親に似たのか、産まれてきた子供はひどく小さくて弱かった。保育器の中で何本ものチューブが繋がれた赤ん坊の隣で、医者は難しい顔をした。

 俺は目を手で覆って、大きく深呼吸をした。

 わかってる。わかってるよ。

 だからおまえは、最期のベッドの上でも橋の向こうでも、俺に手を振って笑ったんだろう?

 俺の足の向く先は一箇所しかなかった。目の前には一本の道しかない。

 俺は、彼女が命を賭してまで守ろうとした小さな小さな命をこの腕に抱きに、彼女が最期を迎えた病院へ向かった。







  了









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