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secondhand book


 その古書店はバス通りに面している割りに小ぢんまりとしていて、それでいて陽光を浴びて誠実な佇まいを見せていたので、生前の祖父の姿が思い出されてしまった。

 この店を訪れるのは何度目になるか、物心のつく頃合に幾度か来た覚えはあるものの、記憶がはっきりしないので、僕はあまり良い孫ではなかったのだろう。事実、祖父のことを思い出す回数が増えたのは、亡くなってからこっちのことである。葬儀が一通り済み、親戚が一同に会した場で皆が気にしたのは、祖父が一人で切り盛りしていた古書店のことだった。父の実家であり、祖父が最期を迎えた場所でもある。祖父は店のことに関して「好きにしろ」としか遺していなかった。特に流行っているわけでもない小さな店は順当に売りに出される方向に話が固まって、その下見を任されたのが暇を持て余した内孫――つまり僕だった。

 無事に大学を卒業して、無難な就職こそしたものの、まあ色々あって今の僕はフリーターというやつである。就職活動中に見かけた資料にあった通りの三ヶ月での退職だった。今思えば、下手な鉄砲を数打って当てたような就職先が天職、なんて上手い話があるはずもなかった。ともあれ、勝手気ままな生活に訪れたこのイベントを、僕は倦怠感と好奇心で受け止めた。割合としては、大体、七対三くらいで。

 そうは言っても本は嫌いな方ではないので、いざ店内に足を踏み入れると壁中が見たこともないような本で埋め尽くされている様にちょっと感動した。敷地こそ小さいが、品揃えは相当なものだ。それに、手入れが行き届いている。古書店、というくたびれたイメージを払拭するだけの清潔感があった。そう、そういえば祖父はいつもモップを持って棚の隙間やら本の革表紙やらを優しく拭いていた気がする。めったに笑うことのない人だったが、折り目正しい印象は残っていた。背が高く、眼鏡の奥から覗き込まれると少し怖かった。でも、たまに撫でてくれる大きな手は凄く好きだった。

 一気に押し寄せてきた懐かしさに、僕は一息つこうと店内を奥に進んだ。店主の定位置と思われる席に着いてみる。元は文机だったのだろうか、使い込まれた艶が木目に浮かんでいる。顔を上げると、ちゃんと店内が一望できるような位置付けになっていた。目の前には古びたレジスターがあり、置き忘れられたままの文庫本も載っている。値札がついていないので、祖父自身が読んでいたのかもしれない。そっと本の表紙を撫でてみる。客が一人来るたびに静かに出迎えていた「いらっしゃい」と言う祖父の声が耳によみがえるようだった。

 文庫本から手を離して、机の中を探ってみる。祖父は寝床で冷たくなっていたというから、最後の最後までここで働いていたのだろう。少し膨らんできた好奇心に任せて引き出しを開けて視線を巡らせていた僕は、手で削られた鉛筆や使い古されたモップの中から、もう一冊の本に目を留めた。

 一目見て、祖父のものだとわかった。本には題も何も書いていなかったからだ。ぱらぱらとめくってみると、思った通りの手書きの文字がきれいに並んでいた。丈夫な表紙はしっかりと保たれているように見えるが、どれだけ繰り返し開かれたのかわからないくらいの癖がついている。手帳や雑記帳にしては立派過ぎると思いつつ、書かれている文字に目を走らせてみた。

「**月**日 晴れ 友人と書店へ出掛ける。目当ての小説は見当たらず。書店員に確かめたところ、売り切れと言われたので、注文だけ済ませて立ち読み。つい、煙たがられるまで居座ってしまった。気付くと日が傾いているのだから、立ち読みは恐ろしい。が、懐を思うとやめるにやめられぬのがまた悩ましい。」

 なるほど、これはどうやら祖父の日記らしい。万年筆でも使っていたのだろうか、古びたインクがどれだけの時間を経ているのか思わせた。一日分の文章が簡潔であまり長くないからだろう、一年できっかり一冊にするには少々厚かったらしく、中途半端な月から始まっていた。何十年も書き溜めていたうちの一冊なのだろうと思う。とりあえず一番初めの頁に何年からのものであるか書いてあったのでざっと計算してみたら、祖父が今の僕と同じくらいの年の頃だとわかって、少し気が遠くなった。僕にとっては遥か昔、ちょっとしたタイムスリップだ。

 興味本位でぱらぱらとめくってみる。ほとんどは、その日に何を食べただの何を買っただの、ごくありふれた日常がつづられているだけだった。やたら長い日とそうでない日があるのは、その日がどれだけ大事だったかをそのまま表しているかのようにも見える。気に入った本を見つけた日の日記が一頁に渡っていて、思わず笑みがもれた。いかにも本の虫らしい日記である。

 かと思えば、必ずしも、本が関わっている日だけが長いわけではなかった。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

**月**日 小雨

 帰宅時に傘を差そうか差すまいか悩みながら歩いていて、結局本を濡らすのが嫌で駅前で雨宿りをしようと軒下に入ったら、先客が見知った顔だったので驚いた。昔、隣家に住んでいた少女であるとはっきり思い出すまで少しかかった(向こうは直ぐ様気付いたようだったが)。たしか芙美と書いて、ふみ、と読む名であったはずと思い、そう呼んだら華やかに微笑まれた。さて、こんなに淑やかだったかしらと小首を傾げたが、何のことはない、口を開けば昔と同じ御転婆であった。

 聞けば、父親の仕事の都合で越したのを、近頃戻って来たと言う。今でもピアノは弾いているのかと問うと、勿論、と今度は弾ける様に笑った。やはり幾らか年頃らしくなった風に見受けた。少なくとも見た目は。

 私が紐で括った本を抱えているのを見て、本なんて殆ど読んだことがないと言う。信じられぬと思い、如何に書物が豊かなものであるかを熱弁してしまった。彼女は彼女で、音楽に勝る芸術は無いと言い切った。全く、昔ながらの啖呵を切ってくれるものである。

 結局私たちは、後日にそれぞれが傑作だと思う本とレコードを持ち寄る約束を取り付けて、別れた。雨は何時の間にか上がっていた。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 芙美、というのは、僕の祖母の名と同じだった。祖母の記憶は、正直なところ、あまりない。僕が小学校に上がる前に他界してしまったからだ。それでも日記に目を通していると、快活に笑っていた顔が脳裏に鮮やかに浮かび上がった。そうだ、たしかに御転婆と言われればそういった風情があった。溌剌としていて、祖父を照らし出すように隣にいた気がする。祖父が寡黙な分、祖母がどんどん話し掛けてくれて、子供ながらに二人で一人なんだと思ったりもした。

 それにしても祖父と祖母が幼馴染だったなんて、普通だったら知る機会もなかっただろうに。祖母がピアノをやっていたことはかろうじて聞きかじってはいたけれど、そのことでこんな風に言い合ってたなんて、ちょっと笑ってしまう。

 僕はページをめくる手を早めて、約束の日を探した。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

**月**日 快晴

 駅前の喫茶店にて待ち合わせ。時間通りにやってきた芙美は、開口一番、間違っていたわ、と満面の笑みで言ってきた。何事かと思って聞いてみると、どうやら私の貸し出した本に感銘を受けたらしかった。今まで勿体無いことをしていた、とさえ言った。

 一先ず貸したのは漱石の『こころ』だったのだが、彼女はその中でもKの手紙を見つける件を一等気に入ったようだった。曰く、衝撃的で揺さ振られた、とのこと。綺麗事だけではないのが良かったそうだ。やはり、肝の据わった女である。

 余りに勢い込んでくるもので、レコードの方の話を切り出すまで大分かかった。先に言いまくられてしまうと、褒め返す言葉は口にし難いものである。

 音楽も悪くなかった、と捻くれた物言いしかできぬ自分の性格を恨めしく思う。しかし向こうは知れたもののようで、満足気に次のレコードをどれにするか持ち掛けてきた。ついでに次の本の催促も忘れずに。

 敵わない、と感じ入る。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 暗くなってきたことに気付いて、僕は一旦日記を置いて部屋の灯りをつけに立ち上がった。スイッチがかちりと音を立てて、白熱灯の柔らかい光が浮き上がる。フィラメントのじじっという手応えを感じて、うっかり僕の内側がじんわりしてしまった。まったく、この店は懐かしい部分をくすぐってくれる。

 自分が生まれた時から祖父はおじいちゃんだったわけで、その祖父にも若い頃があったんだと目の当たりにするのは不思議な感じがするというか、違和感があった。それはそれで面白くもあったし、興味もあった。ちょっとした恋愛小説を読んでいるかのような好奇心が、身内びいきの分を上乗せされた状態でむくむく膨れ上がる。祖父の文章は僕には魅力的だったが、そんな思い出話を祖父の口から直接聞くことができなかったことを、僕は少し悔いた。

 改めて文机に戻り、僕は再び日記を開いた。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

**月**日 薄曇り

 賢治の詩集がきっかけだった。『春と修羅』の一節である。

『じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛 といふ』

 いつもの喫茶店に二人でいる時にその話になり、つい「気持ちはわかる」と言いこぼしてしまった。当然、芙美はにやついたからかい顔をこちらへ向けて、良い人でもいるのかしらと尋ねてきた。その顔があんまり憎らしかったもので、目の前にいる小生意気なじゃじゃ馬がそうだと言ってやった。否、言ってしまった。

 そんな返しが来るとは思ってもいなかったのだろう、彼女は呆けたように目を見開いて固まっていた。殊の外透き通った目を見ていたら、やはり黙っていれば淑やかな女だと思った。尤も、淑やかなだけの女にさしたる興味はないのだが。

 しばらく、二人とも黙っていた。黙ったまま、頼んだコーヒーカップが冷めていき、そんな情景を詩的だなどと無駄に思いを馳せては自分に嫌気が差し、とにかくこの時の私は自己嫌悪の塊だった。元より、こういった色事には疎いのだ。それなりの言い方というものがあるだろうに、まるでいじけた子どものように、うっかり口を滑らしてしまった。無粋に過ぎる。

 先程まで気ままにカップを繰っていた芙美の手がテーブルの上に置き去られているのを見つけ、私はままよとばかりにそれに手を重ねた。思いの外細身で柔らかく、強く握っては潰しかねないと思い、乗せるだけにした。

 直接何と言ったのかは、よく覚えていない。余裕など欠片もなく、浮付いた気持ちではないだの大事にしたいと思っているだの、とにかくそのようなことを言ったと思う。礼儀と思い彼女を見て言うだけで精一杯であった。もはや友人には戻れぬと気が据わっていたのが唯一の救いだった。

 少しして、細い指が私の手を握り返した。

 芙美は、照れくさいわ、と今までで一番美しく笑った。

 私は、きっと、今日のことを死ぬまで忘れない。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 恥ずかしながら胸が騒いで、僕は本から目を離した。単純にどきどきしてしまったのもあるけれど、何より僕は罪悪感を覚えてしまっていた。もう死んでしまった二人のことを、二人しか知らない二人だけのことを、こんなふうに覗き見てしまって良いものだろうか。孝行な孫だったわけでもないのに。

 そうは思ったものの、二人の寄り添う姿がいっそ羨ましいくらいに微笑ましく思えて、つい読み進めてしまう。初めて手が触れた時の胸の高鳴り、言葉にできない切なさ、喜び、寂しさ、安らぎ。何てことない日々に潜むかけがえのない瞬間を掬い上げるのが、祖父は抜群に上手かった。どの頁を見ても、些細な出来事であっても鮮やかに綴られていた。それは自分のことのように僕の胸を苦しめ、あるいはどこかに置き忘れてしまったと思い出させてくれる。祖父の日記は簡潔で、雄弁だった。

 気付けば、僕は最後の頁まで辿り着いていた。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

**月**日 晴天

 古本屋を開こうと考えている、と言うと、芙美は黙って私を見返した。馬鹿だと罵られるかもしれないと、覚悟はしていた。三流ながらも大学まで出ようというのに、何故そんな職を選ぶのだ、と言われても仕方ないと。

 以前、辞書を繰っていた時に、古本のことを英語で「secondhand book」と言うのだと知ったのだと、そこから話を始めた。一人目の持ち主から、次の持ち主へと渡される本。そうやって繋がり、広がり、染み込んでいくものがあるのだと語るような言葉ではないか。私はそんなふうに、持ち主を繋げていくことを生業にしたいのだと語った。その繋ぎ手が本であるなど、こんなに素晴らしいことはない。私が無類の本狂いであると彼女は既に知っていたので、話は早かった。

 すっかり聞き終えてから、彼女はふうと息を吐いた。改まって何を言うかと思えば、といつもの調子で事も無げに笑い飛ばした。

 そんな素敵な理由で説得しなくとも、本が好きだからでいいじゃないですか、と笑った。

 なら、古本屋の女房に君が欲しいと思うのも同じ理由でいいか、と返したら、それはきちんと言ってくださらないと、と叱られた。

 やはり、私は彼女には敵わないようである。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 日記はそこで終わっていた。読み終えて、本を閉じる。なるたけ丁寧に本を文机に戻す時に、うっかり、溜め息を吐いてしまった。

 数あるだろう日記の中からこの一冊だけが文机に入れられていた理由だとか、店のことを「好きにしろ」の一言で父に託した祖父の気持ちだとか、色々なことが脳裏を巡る。最後に残ったのは、何というか、まあ僕の溜め息のわけだった。

 まずは、親戚を納得させるのが先か。売りに出す方向に話が進んでいたとは言え、葬式に集まった面々はさして興味がなかったように記憶している。相続したのは父だから、父にさえ話を通せばどうにかなりそうだ。話の内容が照れくさいのは、この際目をつぶろう。勉強しなくてはいけないことが続々出てきそうだし、僕一人だけでどうにかできる問題でもない。

 引き出しを閉める前に、僕は面倒になるだろうこれからを案じて、日記をちらりとにらんだ。こんなものを見てしまったら、店を閉じるわけにはいかないではないか。まったく、困ってしまう。

 ともあれ、祖父から手渡されてしまった今となっては手放すわけにいかない。僕は日記を一撫でして、引き出しを閉めた。受け取りましたよ、おじいちゃん。改めて見てみると、この文机を愛用するのは、なかなか素敵なことのように思えた。







  了




*サイトアクセス1000hits リクエスト作品
  御題 「本屋」

神無し様、記念すべき1000ヒット報告ならびに御題提供ありがとうございました。
またしても勝手に神無し様との縁を鑑みて、古書店にしてみました。
自分も本好きの端くれですんで、書いていて楽しかったです。
愛される物語が書きたいなあと、改めて実感致しました。






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