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理想の人


 その人の髪がしなやかに揺れるのに、僕の目は奪われた。

「指が長いんだ。とてもきれい」

 そう言って、何もかもを見透かすような大きな目でじっと見つめてくる。指の先まで神経が昂り、熱くなった。僕が瞼にくちづけると、彼女の睫毛が震えた。彼女の上に乗った時、僕は掌で彼女の両目を覆った。彼女は笑いながらその手を外そうとしたが、僕も笑いながら抗った。指の隙間から覗く彼女の瞳の漆黒は僕の奥の奥までを見抜くようで、胸を締めつける。僕らは互いの目を隠したり相手を見抜いたりしながら、責め合った。シーツの上に広がった黒髪が指に絡みついて、それがなお僕を煽った。

 朝日に照らされて寝ぼけた目を開けると、僕は一人だった。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 その人のうなじに顔を埋めると、温かくて、柔らかな匂いがした。

「髪が、くすぐったいわ。柔らかくて、滑らかで」

 そう言って、僕に擦り寄ってくる。抱き締め合っていると体に馴染んだ毛布にくるまれている心地がした。初めて会ったとは思えない、ほっとする匂い、懐かしい温かさ。服を脱ぐと、匂いは更に甘さを増した。落ち着きよりも熱を帯び、咲き誇る花のように肌が馨った。汗の匂いが僕らをとろけさせ、包み込み、ひとつに繋げる。胸が潰れるほど、僕らは互いに呼吸を荒げ、息を交わらせた。理性を失わせるほど立ち上る熱さは匂いを強めこそすれ、何の邪魔にもならなかった。

 朝が来て起きた僕を待っていたのは、枕に香る残り香だけだった。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 その人と舌を絡めると、とろけるような甘さに襲われた。

「あなたって、肩にほくろがあるのね。気付かなかった」

 そう言って彼女はそれにふくよかな唇をあてた。僕の肌に彼女の胸が直に触れていたが、その時の僕の神経は肩の一点に集中していたように思う。彼女の唇は少し荒れていて、それでも温かい弾力に富んでいて、僕の脳髄を痺れさせた。そして僕は半ば強引に彼女を掻き抱いた。彼女は驚いたように身を固めたが、すぐに脚を開いて僕を受け入れてくれた。僕は彼女の唇を求め、噛んだり、吸ったり、舐めたりした。最後に果てる時に彼女は僕にしがみついたまま肩口に歯を立てた。

 朝になって目が覚めたら、肩に見たことのない形の傷だけが残っていた。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 その人の触れ方は、僕の劣情を煽った。

「こんなふうに、他の人も抱いたんでしょう」

 そう言って彼女は伸し掛かった僕の首筋に指を這わせた。僕は一瞬にして全身に血が巡ったのを感じて、彼女の手首を掴んだ。彼女の手首は驚くほど華奢で、それは首や腰も同じだった。きめ細やかな肌は僕を吸いつけるように誘った。彼女の爪は短く切り揃えられていて、桜の花びらのような淡紅色をしていた。僕は裸の爪を見つめ、撫で、咥えた。僕が指で辿った跡を唇や息や舌や歯でなぞると、彼女は壊れるほど僕を求めた。僕に触れる彼女の指遣いは、他のどんな誘惑も敵わなかった。

 朝起きて広い寝床で寝返りを打つと、背中で爪を立てたような跡がひりついた。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 その人が僕の名を呼ぶと、それはいつまでも耳にこそばゆく残った。

「ねえ、もっと私の名前を呼んで。何度でも」

 そう言われるまま、僕は何度も彼女の名を呼んだ。呼んだだけ彼女は僕を呼び返したからだ。僕の芯を通り抜けて衝動を起こさせる、憂いをたたえた透き通った声。僕の手で、唇で、舌で口を塞がれた彼女の鼻孔から微かに漏れ聞こえる声は震えと悦びを含んでいて、僕の鼓動を速めた。肺が熱情で埋め尽くされ、声は言葉にならない。彼女は背骨の線がとてもきれいだった。あの声はここを真っ直ぐに通り抜けて出てくるのだと思った。背骨に添って舌を這わせた時に、一際通る声が上がったから。

 愛おしい声が最後に何と言ったのか、一人で目覚めた僕には思い出せなかった。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 何度目の朝を迎えたのか、僕は一人で横たわっていた。隣を見ても誰もいない。匂いも温度も何も残っていない。

「どこに行ってしまったんだろう」

 そう言いながら、それが誰を指しているのか僕自身わからなかった。ぼんやりと天井を見つめていると、今までの恋人たちがそこに浮かび上がっては消えた。眩しくて、温かで、痛み、狂おしく、切ない。それはどれも断片的で、ひとつの形には定まらない。一体、僕は誰を抱いていたんだろう。誰を求めていたんだろう。あんなにも求めていた人が、わからない。また会えるだろうかと思いを馳せると、はがゆく、恐ろしかった。

 また会ったとして、僕にはそれが彼女だとわかるのだろうか。

  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 昔馴染みの友人からこんな相談をされたんだと全てを聞き終えると、女は静かに頷いた。

「そう、それは私です。彼は私を、『私』だとはわかっていないみたいですけど」

 女は大きな目を伏目がちにし、細長い指を揃えた膝の上で組んでいた。

「初めて会った時からそう。彼が私を覚えていてくれるのは、一日だけ。大丈夫、治らないのも知ってます」

 何もかも承知した様子で、それでもどことなく物憂げにそうこぼす。長い黒髪が荒れた唇にかかっていたが、女は気にかけた風ではなかった。ただ長い睫毛が微かに震えていた。

 それでも、彼は、私を見つけてくれるから。

 誰にも聞こえないように口の中でそう呟くと、目が潤むのも堪えることができた。そうして女は透き通る声ではっきりと言った。

「私は、それでもいいんです。彼が好きだから、傍にいたいんです」

 そう言って、女は指先の桜色の爪に似合いの温かな笑顔を見せた。







  了








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