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ピンク・ソファ


 朝、目が覚めて一番にコーヒーメーカーのスイッチを入れる。煎られたコーヒーのけぶる匂いをかがないと、一日が始まった気がしなかった。

 朝にゆとりのある時間を作ると一日が豊かになると言ってこのコーヒーメーカーを贈ってくれたのは、彼だった。はじめに聞いた時は胡散臭いと思ったが、今ではこの有り様だ。思えば彼のくれたもので私のつぼにはまらなかったものはない。例えば居間に陣取るソファも、朝一番のコーヒーを飲む定位置になっている。淡いピンクの革張りになっているそこそこ立派なソファは、時に私と彼のベッドになったりして、今ではすっかり市民権を得ていた。

 ソファに腰を落ち着け、気に入りのカップから香ばしい湯気をくゆらせる。今日も、いい朝だ。



 昼、大学の中庭で食事をとっていると友人に声を掛けられた。

「調子どう?」
「悪くないよ」
 つまり、良くもなかった。何故なら今ここに彼はいないからだ。辺りは女子大ならではの甲高い喧騒に包まれている。

 他愛ない話を繰り返し、授業を受け、歩いたり考えたりしているうちに一日は過ぎていく。気怠いほど穏やかに。


 夜、再会したソファに身を埋める。部屋はとても静かで、静か過ぎて、耳が痛い。

 私は私の腹部に触れた。その自分の手が彼の手ではないことがたまらなく恨めしくて、私は音を立てずに泣いた。

 最近のお定まり。声も上げず、表情も変えず、ぼんやりと涙を流す。熱い頬の、涙の通った筋だけが冷たくて、そこから身体が凍り付くような気になる。それでも体の奥の方だけはいつも焦げるように熱くて、泣くのはしばらく止まらない。自分の内の、真ん中辺りに、ほのかに温かいものがあることに気付くまで、止まらない。

 でも、もう泣くのはやめようと思う。今ここに彼はいないけれど。



 そしてまた朝が来て、私はコーヒーメーカーのスイッチを入れる。それが私一人の日課になってから、随分な時間が過ぎてしまった。それはとても恐ろしいことで、私は目を瞑り続けていた。

 でも、彼がいなくとも時間は確実に過ぎていく。

 もうここに彼はいない。どこにも、いない。でも私はここにいるし、一人ではない。そう、独りではないのだ。

 私は膨れてきたお腹を抱えてもう一人と一緒にソファに座った。温かな鼓動と、彼の頬のようなピンクのソファに抱き締められて、私は目を閉じた。







  了








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