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道化者


 どうか、どうかお願いです。私のこの、狂おしいまでの願望を聞き届けてはくださいませんか。

 この世界は、あまりに退屈なのです。この世のどんな刺激も、私の目には色褪せて見えるのです。それゆえに私は指一本として動かしたいとは思えず、ただ息をするばかりの人形でございました。

 私は五体満足ですし、帰る家もあります。家族もあります。それでも、なのです。

 私の日々は退屈の日々でした。

 あらゆる娯楽に触れてみようと考えたこともあります。比較的、映画や演劇の類が私の退屈の雲を揺らすことがありましたが、結局は元の木阿弥でありました。雲は揺れることはあっても、退くことは決してなかったのです。奇抜と評判の映像も、五分もあれば目が慣れます。心に響くと評判の音響も、三分で醒めるのです。

 運動の方は、私は見てくれからしてこの有様ですから、まずもって行うこと自体にまるで興味がございませんでした。どこぞの人間がやれ球が来た打ち返せとするのを見るのも、まるで楽しくございません。ただただ、わらわらと動き回る人間の塊が奇妙に見えるばかりなのです。

 対人関係は、煩わしいばかりです。人に合わせるのはそう難しいことではありませんが、鈍い苦痛が私を取り巻くのに耐えられず、ある日から自分を偽ることをふっつりとやめてしまいました。そうしましたらば、自然と辺りは静かになりました。世間から忘却されることは、なかなかに心地好かったのですが、それもまた一時のものでした。人がいようといまいと、どちらもやはり退屈でした。

 美食にも、飽きました。そもそも私は食欲に乏しいのです。時には白米が粘土か何ぞかのように思われるほどで、それもまた退屈でした。今では一日一食とれば良い方です。食事は、私には億劫なことに過ぎません。

 今晩で、酒もやめるつもりでした。私はちいとも酔えない性質でして、ただ体温の上がったり下がったりするのだけを目当てに飲んでおりました。しかし、やはり酒気は抜けるものです。ですから、初めての店で、初めての酒を飲み、それでも御同様ならいっそやめてしまおうと思っておりました。

 そこで、嗚呼、私は貴方にまみえたのです。実に久方振りに胸が騒いだのです。酒にそんな力はありません。貴方の目、ただそれだけが私の退屈の雲を揺さ振ったのです。今は、その刺激さえも醒めてしまうかもしれないと、焦りながら諦めてしまいそうなのです。

 どうか、どうかお願いです。私の退屈を、消し去ってはくださいませんか。貴方ならばできるのではないかと、そんな予感がするのです。このままでは、私はただの木偶の坊になってしまいます。どうか私に、退屈を退ける術を授けてはくださいませんか。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「平和な人生を送られてきたのですね」

 目前の席に座る、骨と皮ばかりの客に、酒場の店主はごく穏やかな声で応えた。痩身の客は潤んだ目を見張って、その言葉に聞き入っていた。堰を切ったように喋った後だったので、その肩が上下しているのが見て取れた。

「あなたは、死んでいるも同然だ」

 店にいるほかの客は、それぞれに酔いを楽しんでいた。ただこの痩せぎすの客だけは、店主の言葉に病み付いた相槌を打っていた。

「そうです、そうなんです」
「蘇る必要が、あるでしょうね」

 客は壊れた繰り人形のように、首をがくがくと振り返すばかりだった。熱く湿った息が吐かれ、客の鼻先にぐるぐると溜まる。嗚呼、嗚呼と、声になり切らない吐息だった。

 それもいつしか、手元の作業を坦々と進めるばかりで言葉の続きを紡ごうとしない店主に焦らされて、調子を変えた。嘆息の律動は速まり、店主に縋り付かんばかりになってから、言葉はようやく続けられた。

「退屈を破るのは、そう難しいことではありませんよ」

 その声があまりに呆気なかったものだから、痩せぎすの客は一瞬、まるきり停止した。

「人間も、動物ですから」
「……どういうこと、ですか? 私にも、理解できることでしょうか」
「できますとも。本能に訊けば、誰にだってわかることです」

 店主はつと目を上げ、客に視線を流した。客は大仰過ぎるほど肩を震わせた。

「生物にとっての最大の刺激は、何だと思いますか」

 客は店主の眼差しに吸い込まれていたので、答えを考えるどころではなかった。それでもどうにか留まって、考えようと努めた。あんまり瞬くものだから、それもまた壊れた人形を思わせた。結局、その口から答えは出なかった。

「……最も強い本能がわかれば、それを逆さにするだけで済みます。食欲と、性欲と、睡眠欲と……突き詰めれば、生存への欲求です。それを脅かされるのが、最大の刺激になる」

 店主は使っていた布巾を置くと、別の道具を取った。

「貴方はたしか、食欲が大分失せてらっしゃる。それを満たしてもどうということはない。性欲が満たされないのが不満なら、この店の裏通りにでも入るでしょう。あそこには一通りの店がありますから。睡眠欲の不満の刺激は、刺激と呼ぶには緩慢過ぎる。と、すれば」

 手の中に包丁を出した店主は、冷ややかに言葉を吐き出した。

「もっと、直接的な方法をとるしかない」

 鈍い光が刃の肌をぬめりと嘗めた。痩せぎすの客の背をぞくりとしたものが走り抜けたが、店主はそれを無視して他の客のための料理を始めた。とんとんとんとん……という包丁の刻む音が、どこからか何者かが背後に迫ってくる足音のようだった。

「どうです」

 は、と客の口から空気の塊が転がり出た。

「何か、良い方法は思い浮かびましたか」

 そこで店主は初めて手を止め、痩せぎすの客を正面から見据えた。

「蘇るための方法です。起きるために、眠る方法です。……良い案がおありでしたら、お手伝いしますよ」

 店主の声が客の脳裏に入り込み、いいいいいいと真っ赤に埋め尽くした。

「是非」

 その時、どこかの席でやけに浮かれた声が上がった。それと同時に痩せぎすの客は跳び上がって席を立った。宴はそれを気に掛けることもなく、むしろ取り巻いて囃し立てるように、更に声高にはしゃいだ。嬌声は渦を巻いて痩せぎすの客を飲み込んだ。

 店主が唇の両角を吊り上げ、にっこりと笑った。

 椅子の倒れる音が店内に鳴り響いた。ほんの一瞬だけ店内が鎮まり、痩せぎすの客はその隙を突くように一目散に走った。何を振り払おうとしているのか両手を大きく振り回し、体中を壁や机に打ち付けながら店の外へと走り出た。残された他の客たちは、またすぐに調子を取り戻して談笑を始めた。

「……ああ、しまったな」

 店主もまた元の作業に戻っていたが、ふと一人ごちた。その視線の先には、空のグラスがぽつねんと取り残されていた。

「代金を貰い損ねた」

 そしてさっさとグラスを取り上げると、ささやかな苦笑と共に、他の客のための酒をいつものように作り始めた。







  了









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