return to contents...


far-other


 母が死んでから初めての六月が終わる頃、私は他人と取り残されて、立ち尽くしている。

「今日は学校?」
「午後から講義。その後はバイトが入ってる」
「わかった。それじゃあ夕飯は買ってこようかな。先週食べたお弁当と同じ店でいい? 気に入ってたと思うんだけど」
「うん。まかせる」
「よし。それじゃあ、行ってきます」
「あ、ちょっと待って」

 私は自分の胸元を指差して言う。

「ネクタイ、曲がってる」

 直してあげようと手を伸ばしたら、

「いい、いい、自分でやるよ」

 穏やかな笑顔で丁重に、丁寧に断られた。この人の締めるネクタイは今日もくたびれたストライプで、それも私を不安定にする。ネクタイを直す手つきは慣れたものだった。

「大丈夫?」
「うん。きれい」
「よしよし。じゃあ今度こそ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、おとうさん」

 玄関で背中を見送ると、私の口から大きく息がもれた。一人でいる方がよっぽど楽だ。器用に自分の顔を作ることさえ下手な私には、二人きりの会話は荷が重い。

 静かに繰り返される授業と、淡々と作業を積み上げるアルバイト。そんな気だるいくらいの日常が私には心地よい。それでも、毎日帰る場所はこの家で、そのこと自体に不満はないが、あの人の笑顔だとかよれよれのネクタイを見る度に深いため息がもれそうになるのをこらえるのは、正直しんどい。



 バイト帰りに、気まぐれでデザートを買ってきた。ちょっと上等なプリンを三つ。

「やあ、これおいしいよね!」

 我が家で一番甘いもの好きなおとうさんは全力で喜んだ。そりゃ何より、とお弁当の隣に並べる。一つは母の写真の前に。こっちはそんなに喜ばないかもしれないが、仲間外れにされるとへそを曲げるから置かないわけにはいかないだろう。後でおとうさんが食べればいい。

「注ごうか」

 部屋着に着替えてすっかりリラックスしたおとうさんが手酌で晩酌をしようとするところに割り入り、ビール缶を取る。

「お、ありがとう」

 グラスに注がれたビールはきれいな泡を浮かべて、おとうさんを微笑ませた。

「相変わらずうまいなあ」
「慣れてるから。お母さん、ザルだったからね」
「そういえば注ぐの下手だったね……あれは注いでくれる人がいたからか」
「うまいもんでしょ」
「うんうん、注ぎ方でおいしさが違うよねえ」

 そう言いながらぐびぐびと喉を鳴らし、子どもみたいに頬を染めて笑う。

「あー、うまいっ!」

 もちろん実際はおっさんなんではあるけど。それでもまあ、歳よりは若く見える方だろう。

「はい、もう一杯」
「うん、ありがとう」

 好き嫌いはちょっとあるけど、好きなものを食べるときの笑い方がいいのよ、慣れない料理をがんばっちゃおうかなーって思うくらいにね。

 そう言っていた母の声が耳の奥に聞こえる。気持ちはわかる。そういう母の料理は、あまり、そうでもない、出来ではあったけど。家のことを娘に任せてバリバリ仕事をこなしていた母だから仕方のないことではある。

 その結果職場で見つけてつれてきたこの人は、尻に敷かれています、と顔に書いてあるなというのが第一印象だった。上昇志向にあふれているタイプではない。それが、母にとっては息をつくのにちょうど良かったのではないかとにらんでいる。

「ザルっていうのは似なかったんだねえ」

 私はいっさい酒を飲まない。そもそもおいしいと思えないものだから手も伸びない。

「もう一人の親の方が下戸だったらしいですよ」

 まったく、心底かわいげのない言い方をしている自覚はあった。けれど、最近の私はそれを抑えることができない。

「いただきます」

 目も見ないで話を切り上げて、お弁当の包みを開ける。おとうさんがどんな顔をしているかは見ないでもわかった。理不尽に駄々をこねる子どもを前にした、困り切って、けれど叱ることもできずに泣き止むのを待つしかできない苦笑。この家で一緒に暮らすようになって以来、その顔を何度見たかわからない。

「おいしい」

 嫌ってるわけではないし、空気を悪くして申し訳ない気持ちもある。親しくなろうと、理解しようと接してくれていることも知っている。

「食べないの? 冷めちゃうよ」
「ああ、うん。いただきます」

 嫌いではない、嫌いたいわけでもない。少なくとも私は。



 お弁当とプリンのゴミを捨てて、グラスを洗って、写真の前のプリンを冷蔵庫に仕舞って、私たちは居間で何とはなしにテレビを見ている。自室に戻る気にもなれない。気まずい空気はその日のうちに晴らすのが我が家の慣例なのだ。とはいえ、どう打開していいものか計りかねて、バラエティ番組の空々しい笑い声にかろうじて救われているだけだった。気まずさを打開するのは母が抜群にうまかったけれど、残念ながら受け継げなかった。

 テレビの中で、能天気な声が今年の水着の流行りだの夏バテ防止法だの、夏真っ盛りな話題で盛り上がっている。今日で六月が終わる。梅雨はもう少し居座るらしいが、近頃の日差しの強さときたら、スーツを着てネクタイなんぞ締めて戦うサラリーマンたちを尊敬してしまうほどだ。敬意を込めて、せめて色だけでも涼しげにと、数日前に選んだことを思い出す。入ったこともないお店で、買ったこともないものを、自分で稼いだお金で買ったのだ。それなのに。

「ねえ」

 せめてイベントのときくらいは親子らしくしよう。たとえ血のつながりがなくても、家族であることに間違いはないのだから。そう思ったのに。

「どうして、ネクタイ、締めてくれないの」

 父の日に贈った、きれいな織り柄の入ったシンプルなネクタイを締めた姿を、私は一度も見たことがない。

「ありがとうって言ったよね、大事にするって。それって、箱に仕舞ったまま積んでおくって意味なの?」

 こんなふうに、直球に文句をつけたのは初めてだった。元より声を荒げる性格でもない。

 テレビから無意味な視線を外し、おとうさんに顔を向ける。想像通りの、眉を下げきった表情を浮かべていた。きっと隠しごとなんかできやしないんだろう。誠実で、正直で、うそつきなおとうさん。どうせ嘘にするなら、始めから期待させるようなことを言わなければいいのに。

「ごめん」

 真っ直ぐに私を見て、礼儀正しく頭を下げてそう言うおとうさんは、やはり赤の他人にしか見えない。

「君のくれたネクタイをつけたくないわけじゃないんだ」

 体ごとこちらに向けて、きちんと、おとうさんは言う。

「今使ってるネクタイを外したくなかっただけなんだよ」

 私は知っている。それが、母からの初めてのプレゼントだということを。一緒に買いに行ったのだ、間違いない。結婚もせずに私を産んだ母は、男性向けのプレゼントなんてひとりで選べないと私を駆り出したのだ。少しだけ年下の恋人のために何時間もかけて一本のネクタイを選んだ母は、初々しい女の子のようにはにかんだ。これならきっと似合うわ、喜んでくれるといいんだけど、と。

「籍を入れて、一緒に暮らすようになって、すぐに逝ってしまったから……」

 結局そのネクタイは、母からおとうさんへの、最初で最後のプレゼントになった。いい加減傷んだネクタイを新調しないとね、と言っていた母は、もういない。今度は無地もいいね、なんて返したおとうさんも、一緒に連れ去られてしまった。

 そんなことを思い出していたらうっかり私は泣いてしまって、久し振りなものだから止めようもなくて、しょうがないので顔をうつむけた。

 ああ、やっぱり。

 私はやっぱり、この人を父親とは思えない。父親ではなくて、母の恋人なのだ。私の気持ちなんてかないっこない。いなくなってしまった人に勝てるわけがない。

 けど。

 ぐしゃぐしゃの顔のまま口を開いても、うまく言葉が出てこない。おとうさんは気長に、辛抱強く待ってくれた。

「……ありがとう」

 母には到底勝てない。けど、勝つ必要なんて何もないのだ、きっと。

「お母さんは幸せだったと思う」

 私には与えられない類の幸せだった。私にとって母は大黒柱で、かわいい女の子ではなかったから。

「だから、ありがとう。お母さんを大事にしてくれて」

 みっともない顔をぐしぐしと手で拭い、顔を上げると、おとうさんは照れくさそうに笑っていた。いかにも面映い、今まで見た中で一二を争う嬉しそうな顔だ。

「もうつけないよ、あのネクタイは。君からもらった方を使うようにする」
「いいって。納得したから」
「いやいや、言われたからってだけじゃないんだ。元から考えてはいたんだよ」

 テーブルを挟んで斜向かいに座るおとうさんが、大きな手を伸ばしてくる。

「忘れ形見の方が、大事だからね」

 そう言って、おとうさんは、私の頭を撫でた。母と違って子どもを持ったことがなかったおとうさんの手はぎこちない。それでも、大層優しかった。

 私は父を知らない。そういう意味では、私とおとうさんは似ているかもしれない。母が大好きで、いなくなってから死ぬほど泣いて、母のいない家ですごしているとひとりぼっちになったようでつらいのも、似ているのかもしれない。

 いつかちゃんと親子になれたら、パパ、なんて呼んでみようか。きっと目を丸くして、それから笑ってくれるに違いない。そんなことを考えたら、涙も乾く気がした。







  了








return to contents...