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七夕逢瀬


 今年も七夕がやってきて、商店街はいつにないほどの賑わいで浮き足立っていた。毎年恒例の夏祭りは七夕の夜が山場で、規模こそ小さいけれど地元では大事なイベントだ。うちも普段はのんびりとした酒屋だが、祭りの最中は表に大型のクーラーボックスを置いて、氷水を満たした中にジュースやらビールやらの缶を浮かべて参加する。冷えた飲み物は飛ぶように売れ、皆が一気に飲み下し、それが汗となって流れ落ちて、また売れていく。参加しないわけにはいかないほどの貴重な書き入れ時であって、だからというだけでなく、混ざらずにいると落ち着かないくらいの活気だった。

 喧騒にも似た人の笑い声と、出店からの食欲をそそる匂い。やかましいほどにすっかり慌しく時間は過ぎていって、勘定をしながら近くの屋台の焼きそばを食べたのが唯一の休憩だった。仕事は好きだ、だから苦にはならない。今年の夏は特に暑いから、うちの飲み物は大いに役立ったことだろう。

 日が傾き空が赤く燃え始めても暑さはまだ残り、飲み物片手に人の波は移動を始めていた。祭りの最後は打ち上げ花火で締めくくられるのが通例で、それを見るために会場の公園に集まっているのだ。商店街から人が引くと、多少暑さも和らいだような気がした。

 そんな中、引き波に逆らうようにしてやってくる一人の少女がいたのが目に留まった。

「こんばんは」

 片手に金魚すくいの小袋を提げ、もう片方の手に持ったフランクフルトを食べきった少女は、串をゴミ箱に捨てて店の前で微かに笑った。見覚えのある、しかしこの辺りの学校のものではない制服を着ている。

「いらっしゃい。君、去年も来てたでしょう。覚えてるよ」

 去年見たときは確か長い髪を一つにくくっていた気がするが、焦げ茶の髪は顎にかかるくらいの短さに切りそろえられていた。少し大人びたような気もする。少女はちょっと驚いたように目を大きくした後、髪を揺らして頷いた。

「ねえ、そこ、座っていい?」

 クーラーボックスのこちら側にある丸椅子を指して少女が言う。置くだけ置いていたがほとんど使わなかったやつだ。

「いいよ」

 椅子をボックスの脇に出してやると、少女はきちんとお礼を言ってから座った。学校指定なのか、この暑さの中でローファーを履いている。おもむろにそれを脱ぐと、素足を投げ出すようにばたつかせた。よっぽど暑かったらしい。しかし、今時の子らしくスカートの丈を短くしているのにいかがなものか。

「はしたないよ、女の子が」
「あっついんだもん」
「いや、でも」
「大丈夫だよ。おじさん、年上にしか興味ないんでしょ」

 今度はこっちが驚く番だった。

「誰に聞いたの、そんな話」

 はたとして見ると、にっかと笑うだけで少女は答えない。口元に八重歯が覗いた。

「奥さん、一回り年上でバツイチで整形してたってほんと?」

 全く、本当に誰から聞いたのだろう。年の頃と離婚歴まではいいとして、通院歴なんてそうもれるもんでもないだろうに。

「よく知ってるなあ」
「一年かけて調べたんだよ。なんて」

 ほんの少し冗談めかしてそう言う少女の笑顔はどこかぎこちなかった。

 椅子に座ったまま背を伸ばしてクーラーボックスを覗くと、ちょうだい、と少女はオレンジジュースの缶を指した。ポケットから取り出した小銭と交換で缶ジュースを渡す。すぐに、プルタブが涼しい音を上げた。

「何でも知ってるよ」

 喉を鳴らしてジュースを飲み下した口が、何てことない風に言う。一口飲むごとに言葉を重ねて。

「二人に子供はいない」
「お店はおじさんが一人でやってる」
「奥さんは一昨年亡くなった」
「一昨年の、今日」

 そこで缶は空になったらしい。手持ち無沙汰にくるくるとさせながら、少女は問いかけた。

「つらい?」

 それは聞かないとわからないのか、と思うと少しほっとしたような気になった。楽しい祭りの最中、辛気臭い顔をしてはいなかったのだと言ってもらえたようで。

「働くのはつらくないよ」

 できるだけ正直に、嘘はつきたくないと思った。

「好きな仕事だからね」

 少し風が出てきたな、と気付く。汗水たらして働いた体に、夕風は涼しく心地良かった。

「奥さんがいないのはつらいよ」

 いつの間にか空の赤みは消え、代わりに電灯が点いていた。花火もそろそろだろう。顔を上げると、空の片隅に星がちらついていた。

「好きだったから?」

 夏らしい厚みのある雲が風に流れていくのを見上げながら、うん、と頷いた。ああ、会いたいな。こんな日には特に会いたくなってしまう。祭りが好きで、夏の夜が好きで、歯並びを気にして小さく笑う人。どれだけ歳が上でも、かつて知らない顔をしていたとしても、世界で一番かわいい人だった。

 不意に空で閃光が炸裂した。立て続けに響く破裂音。そうだ、彼女は何よりも花火が大好きだった。毎年ここから花火を見て、子供のようにはしゃぐ彼女を見ていた。何度も、いつだって、最期まで。

 夜空に華やかに散る無数の花びらの隙間を縫って、燃える匂いをはらんだ風が頬を撫でる。ひやりとした感触。耳には子どもたちのはしゃぐ声。大人も喜んでそれに続き、顔を上げた皆が気持ちを同じくしているように見えた。

「おじさん」

 呼ばれて振り向くと、はずみで顎を伝ってひとしずくこぼれたのがわかった。

「これ」

 少女はそっけなく、持っていた金魚を差し出した。

「あげるよ。お店のじゃまになんないし、ちょっとは寂しくなくなるでしょ」

 腕で頬をぐいと拭う。腕をぬらしたのはきっとほとんど汗だったろう。金魚は押し付けられるようにして受け取った。

「一年飼ってみて。そいで、やっぱりじゃまだってなったら引き取りにくるから」

 小さな袋の中で、金魚は揺れるように泳いでいる。金魚すくいで取ったにしては立派な金魚だった。一年と言わず、長く生きてくれそうなくらいには。

「一年飼ってくれたら、お礼に、おじさんの知らないこと教えてあげる。大好きだった人のこと、教えてあげるよ。おじさんと会う前の話だけど」

 丸椅子から下りて靴を履き直し、少女は夜空を見上げる。揺れる髪が頬にくすぐったそうだ。その横顔は、まだ幼さが残っていた。

「じゃあ、また来年ね」

 そして少女は、あの人に似た八重歯を覗かせて笑い、駆け出した。軽い軽い、まるで星にもなりそうな足取りで。





  了








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