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銀兎の夜


 およそ日が落ちたとは思えないほど見事な満月に照らされた夜だった。行灯も提灯も使えない身としてはありがたいと思いつつ、克一はちらと上げた視線を戻した。その先は米蔵、克一の雇い主である、ここらの地主の持ち蔵である。この明るさならば賊も仕事がしやすかろう、そこを打つ。克一は物陰に身を潜めたまま、腰の二本差しが音を立てないよう、じっと待った。

 夜風は近頃冷たさを帯びてきたが、賑やかな虫の鳴き声に彩られて寒々しさは感じない。待ち伏せをするには悪くない夜だった。

 程無くして、米蔵の側に影が差した。影は手近な樹木に手足をかけ、するりと登っていく。その枝端を重みでしならせると、丁度空気取りの小窓に側近くなり、いつの間にか手にしていた太めの棒切れで窓枠を器用に外すと、影はそこから蔵の中へと飲み込まれるように消えた。滞りない仕事振りに、いっそ感嘆しながら、克一は立ち上がり、蔵に寄った。

 うるさい音を立てぬようにそっと閂を外して扉を開けると、月明りが蔵の中を両断した。背を明るく照らされた盗人は、直ぐ様身を翻したが、暗がりに逃げ込むより一瞬前に克一の腕に捕まり収まった。両腕に収まる大きさだったのである。

「おまえ、どこの童だ」

 腕を振り払おうと暴れるのを押さえ込み、克一は問うた。すると、

「童ではない! 失敬なことを申すな!」

 そう叫び、勢い込んで振り向いたのは、七五三も終わらぬと見える女子だった。とはいえ、その姿はいかにもみすぼらしく、克一の手に伝わる着物の手触りもざらりとしてごわついていた。ただの一枚布を麻紐でくくり付けただけのようで、端々も擦り切れ、全く女子らしからぬ様相であった。

「……けったいな口聞きをする童だ」
「童でないと言っておろうに! ほれ、頭を見てみい! 角があるじゃろが!」

 克一の前にぬっと頭が突き出される。手入れなど無縁な、暴れ回る髪の塊だ。そのぼさぼさ頭を掻き分けると、確かに瘤のような低い角がある。固いがしかし鋭利ではない。獣の子どもの耳のような二本角だった。

「儂は泣く子も黙る鬼じゃ」

 克一が角を認めたのを見て、童女は不敵にそう言うと、そのまま頭を克一の顔目掛けて突き出した。頭突きが鼻面に入り、うっと呻いて手が緩む。童女はその隙をついて再び身を翻した。が、克一が力を込め直す方が僅かに早く、結局童女が逃げ切ることはかなわなかった。

「このところ蔵を荒らしていたのはおまえの仕業か、鬼子」

 痛みのためか幾分語気を荒げ、克一は問うた。しかし鬼子は顔をぷいと背け、むつけて見せるばかりで返事をしようとはしない。

 克一は鬼子の体をひょいと抱え直し、尻叩きをする格好にして、手を構えて、再び口を開けた。

「いつも蔵を荒らすのはおまえかと聞いている。今白状すれば仕置も軽いぞ」
「…………」

 克一はひゅっと音を立てて手を振り上げた。

「まっ、待たんか! 何をする気じゃ!」
「猿のような尻になりたいのなら黙っていればいい」
「待てと言うに!」

 手はそのままに、克一は鬼子の顔の方を向いた。まるきり不愉快満面な、眉根を寄せて唇を固く尖らせた顔をしている。

「……鬼とて腹も減る。いいじゃろう、これだけあるのだし」
「山程あるなら盗んで善いと、そう父母に教わったか」

 不意に、鬼子のしかめ面が更に歪んだ。

「父母など知らぬ。儂は儂だけで生きてきた。誰にも文句など言わせぬぞ、儂は儂の生きたいように生きるのじゃ」

 無理繰り体をねじり、克一を睨み付けた鬼子の顔は、やはりただの童女のように見えた。少なくとも克一はそう思ったし、人であれ鬼であれ童女であることに違いはないようだった。

「おまえ、名は何と言う」
「おぬしなぞに名乗る名は持ち合わせてはおらぬわ。名を呼ぶは、支配するに等しいのじゃぞ」
「……なら別にいい」

 面倒臭そうに首を振ると、克一は振り上げたままだった手を振り下ろし、尻を張った。んぎゃっという短い叫びが蔵の中に響く。

「何をするか! 儂はちゃんと答えたろうが!」
「盗みは、してはならんことだ。一度で済むなど軽い仕置だろう」

 そう言いながら鬼子を抱え上げて、さっさと蔵を出、閂を下ろす。米は手付かずであったし、言われなければ盗人が出たとはわからないだろう。

「ええい、離せ! 離さんか!」
「いいから黙って運ばれろ。腹が減っているんだろう」

 抱え上げられていてはどうにもできずに、それでも大分暴れはしたが、鬼子は運ばれるままに蔵を離れる羽目になったのだった。



 辿り着いたのは、小ぢんまりとした長屋だった。無造作に引き戸を開けると、そこにはただ静寂だけがあり、薄らと埃を被った畳が毛羽立っているのが見て取れた。

「おとなしくしていろよ」

 克一は鬼子を畳に下ろし、ひらべったい座布団に座らせた。鬼子は小さく胡坐をかき、物珍しそうに首をぐるぐると回している。

「座敷童のようだな」

 克一がそう呟くと、鬼子は苦笑で返した。

「笑わせるでないぞ、このぼろ長屋のどこに座敷がある」

 遠慮など微塵もない。克一は呆れたように、あるいは感心したように、肩をすくめてみせた。

「確かにこの長屋はぼろいが、おまえには負ける」

 克一はそう言い捨て、押し入れの襖を開けた。奥から行李を引き出し、着物を一揃い取り出す。

「……おぬし、随分と貧相なものを着ている割に、なかなか立派なべべを持っているんじゃな」

 差し出された着物を見て、鬼子は素直に呟いた。

「いいから早く着替えろ。着物の着方もわからんのか」
「失敬な!」

 そうは言うものの、着物を広げる鬼子の手付きは全く覚束無く、ただ羽織って腰に帯をぐるぐると巻き付けるばかりであった。見兼ねて、克一が手を出す。肌が乾いた泥と砂に塗れていたので、一度赤裸に剥き、濡らした手拭いで体を拭いてやってから、きちんと着せてやった。その間、鬼子はすっかりおとなしくしていた。顔だけがしきりに歪んだ。

「……落ち着かんのう」

 もぞもぞと体を揺らして鬼子が言う。克一はわずかに目を細めた。

「そのうち着慣れるだろう、それはおまえの着物だ」
「……まあ、悪い気はせんのう」
「そんな着物でも売れば食い扶持にはなる、いい子にしていろよ」

 続けて克一は箪笥の引出しを引き、そこから飴色の櫛を取り出した。鬼子を手招き、再び座布団に座らせる。その後ろに着いて、髪を梳いてやると、やはり鬼子はおとなしくいうことを聞いた。

「……おぬしは変な奴じゃ。どうしてこんな、鼈甲の櫛なんぞ持っておるんじゃ?」
「女房のもんだ」
「……ずいぶんと掃除の下手な女房じゃな」

 長屋をきょろきょろと見ながら呟く。弾みで髪が引かれるのに鬼子が呻くと、克一は溜め息混じりにその頭を正面に向かせた。

「もういない」

 或いは、溜め息はそのせいかもしれなかった。

「娘は?」

 何の気なしに鬼子が続けて問う。

「この着物、娘のものではないのか」
「もういない」

 振り返ろうとする鬼子の頭を押さえ、克一は繰り返す。言い慣れたふうに、繰り返すことに飽いたふうですらある。

「言ったろう、それはもうおまえの着物だと。この話は終いだ」

 そうこうしているうちにすっかり梳き終えた鬼子の髪を、克一もさすがに結うのまでは長けておらずにひとつに括ると、遠巻きに見るにはそこらの童女となんら変わらない出で立ちとなった。

「ようやく見られる格好になったな、鬼子よ」

 自分の出で立ちを、綺麗に揃った着物の裾や揺れる袖を、まじまじと見つめている鬼子をそのままに、克一は水場に立った。釜から粟混じりの冷えた飯を掴み取り、大雑把に握る。背丈に阻まれて何をしているのか見えなかった鬼子は、たまらず克一の横へと跳んだ。

「飯か」
「夕餉にしては遅いがな。俺も腹が減った。ろくなものはないが、生米よりはいくらか増しだろう」

 鼻をひくつかせた鬼子が克一の手元を見ようと背を伸ばす。

「心配せんでも二人分だ」

 減らず口が返ってくるかと思いきや、鬼子はむつけたように押し黙った。それを横目に大ぶりのと小ぶりのとふたつの塩握りをこさえると、ぼそりともれる声が聞こえた。

「何故儂を匿う? 捕らえて突き出すがおぬしの仕事じゃろうに」
「なんだ、突き出されたいのか」

 鬼子は咄嗟に首をぷるぷると振る。拗ねた子どものそれのように、口を尖らせ、うつむいて、沈んだ顔を見せた。

「なら構わんだろう。気にするな、ただの気紛れだ」

 そうと言われてもすぐに機嫌が直るわけでもなし、鬼子は着物の裾を握り締めて克一に挑むような目を向けた。

「気になるなら、これを洗ってくれ」

 視線を断ち切り差し出されたのは、一本の見事な胡瓜だった。

「味噌をつけて食う。うまいぞ。手伝いに褒美をやるなら、施されても構わんだろう」

 言いながら、水を張った桶を童の届く高さに置いてやる。鬼子は暫時胡瓜をにらみつけていたが、観念して掴み取ると、桶に放り込んでざぶざぶと洗い出した。

「胡瓜が好きなのは河童だったか」
「……おぬし、いい性格をしておるの」

 ふてくされながらも手は素直に胡瓜を洗っている。その頭に手を乗せ、撫でるように叩いてやると、ようやく諦めた様子でおとなしくなった。

「おぬしのこと、何と呼んだらいい」
「好きなように」
「名を教えろと言っておるのじゃ」
「それは支配を意味するんじゃなかったか」
「つべこべ言わずに教えんか!」

 もうすっかり慣れた調子でのやり取りに、少なからず、克一の機嫌も良くなりつつあった。

「克一だ」

 それを聞いて鬼子は、ふむ、と不敵に笑った。

「克の字じゃな」

 桶から胡瓜をざんぶと取り出す。飛沫が辺りに散ったが、それを気にかける必要のあるような整った水場ではなかった。

「ここに住んでやっても構わんぞ、克の字。ただ黙って居るだけの座敷童なんぞより、おぬしも嬉しかろう?」

 そう言う手の中で、すっかりきれいになった胡瓜が、透き通った雫を誇らしげに滴らせていた。



 鬼子との暮らしは、順風満帆だった。克一は元より辺りの人々と繁く交わる質ではなかったし、鬼子の方も騒ぎ回るでもなし、克一以外にちょっかいを出すこともなかった。おとなしくしていれば、角がある以外、特別鬼らしいことはない。

 自然、二人でいることが増えた。

「なかなかの業物じゃな」

 刀の手入れをしている時に限った話ではなかったが、鬼子はよく克一の動きに目を留めた。

「刀の良し悪しがわかるのか。だがこれはさして上等の拵えでもないぞ」

 それが謙遜だという程の刀ではなかった。事実、それなりの店へ出向けば手に入れられる程度で、良いところを挙げるとすれば克一の手に体の一部の如くしっくりと馴染んでいることくらいだった。

「それだから駄目なのじゃ、刀の良し悪しを決めるのは何も刃の輝きだけではないのじゃぞ。打った者の魂、使う者の魂が、如何に込められておるかじゃ。じゃから、業物と褒めてやったというに」
「そうか、褒めていたか」
「褒めていたとも。その二本、大事にするが良い」

 内心、克一はあながち的外れではないと思った。父から受け継いだこの刀を腰に差していると、振るうと振るわないとに関わらず気は引き締まるし、鋭気も萎れずに済んでいるように感ぜられたからだった。

「おぬしには、ちと勿体無いような気もするがのう」
「おまえ、一言多いぞ」

 克一が不機嫌に眉をしかめると、鬼子はけらけらと笑った。

「まったく、これだけの刀を持ちながら浪人風情とは、よくわからん」

 刀の手入れを切り上げると、克一は二本を腰に戻し、すっと立ち上がった。

「仕事に行ってくる」
「仕事? 克の字、おぬし、暇を言い渡されたんではなかったか?」
「おまえの件とは別口だ。奴さんは溜め込んでるだけあって用心深いし、小心なんでな。用心棒だけでも色々とある。そも、米蔵に出る盗人もまだ捕まっていないんだ、疑心にもなる」

 そう言って何の気なしに鬼子の方に目を戻すと、当の鬼子は眉根をきつく寄せて克一を睨んだ。

「儂は食っておらんぞ!」
「別におまえがやったとは思ってない。そうならないためにここに住まわせているんだしな」

 顔にいくらか不機嫌を残したままの鬼子は、ふんと鼻を鳴らし、もっともらしく腕を組んでみせた。

「あれだけ溜め込んでおれば、儂以外にも馳走になろうとする輩の一人や二人おるじゃろうて」
「存外、間の抜けたところがあるしな。蔵に鍵を掛け忘れたり、そこらの童でも簡単に忍び込める時がある」
「ああ、あったあった。あれじゃあ守る方も難儀じゃろうに」
「全くだ」

 相も変らぬ仏頂面の克一に対して、鬼子は機嫌を取り戻して破顔した。

「いい加減捕まらんのでな、何でも妖術使いの類を呼び寄せたらしいぞ。米がなくなるのは呪いやら妖怪やらの類のせいだと言ってな」
「妖術使い? また異なものを」
「そうか? 俺はなかなかに目が高いと感心したがな」
「妖術使いなんぞ、眉唾じゃ。ただの人間風情に何ができるわけでもないのじゃからな」
「まあ、そうだな。俺が見たのも蒼白いただの坊さんだった」

 克一が土間に下りると、鬼子は足を鳴らして後ろに着いた。克一が家を出ようという時、鬼子はいつもこうした。見送りのつもりであるらしい。

「いい子にしていろよ」
「何もせずとも儂は良く出来ておる」

 こんな減らず口に、頭を軽く叩いて応えるのも、常だった。



 鬼子が家の中を物色し尽し、表も粗方見回って暇を持て余し始めた頃合に、克一は戻ってきた。夕暮れに差し掛かる中、鬼子は玄関の前で克一を出迎え、その手にある橙色をした塊に目を留めた。

「土産だ」

 玄関をくぐりつつ、後ろに着いた鬼子の方に手を伸ばす。克一は手の中に丸い実を残したまま、もうひとつ持っていた方の、紙風船のような皮に包まれている実を鬼子にやった。眩しいほど鮮やかな橙色。強く握れば潰れてしまうだろうそれを、鬼子はそっと受け取った。

「なんじゃ、これは」
「鬼灯を知らんのか、鬼のくせに」
「ほおずき?」
「その袋の中に実が入っている」

 言うと、克一は持っていた実を見せた。道中ずっと指でゆるゆると潰していたのだろう、実はすっかり柔らかくなっていた。鬼子は手元の橙の風船を指で破いた。中には、しっかりと張った丸い実がある。

「その実を潰して、中身を抜くんだ。それから、こうする」

 実の中身を捨てて空にすると、克一はおもむろにそれを口に含んだ。鬼子は何が始まるのやらわからず、ただその様子を見つめている。

 と、克一の口からぶいっと鈍い音が響いた。すぐ後に続いて、鬼子のきゃっという小さい叫び声が上がる。続け様にぶいぶいと鬼灯の実を鳴らしてみせると、鬼子はぽかんと口を開けて、それからすぐに目を輝かせた。

「この実が鳴っておるのか? なんじゃ、どうやっておるんじゃ?」

 そこらの童子と変わらぬ熱心さで、鬼子は克一にせがんだ。二人で暮らし始めてからこっち、一番のはしゃぎ様だった。空の実を舌で押し潰すと鳴るのだと、克一が口を開いたり閉じたりしながら説明するのにも、逐一頷きながら見入った。

「すごいのう、すごいのう」

 鬼子も克一に習って鬼灯の実を握る。が、どうにもうまく柔らかくできず、結局せがまれるまま克一が潰すことになった。別に嫌な顔もせずに実をぎゅうぎゅうと潰す克一を、鬼子はにこにこしたまま見つめていた。

「克の字、おぬしはやっぱり変な奴じゃの。なんでこんなことを知っておるのじゃ? 子どもの遊びじゃろうに」

 途端、克一の顔に影が差した。見たことのない、冷たいほどに暗い目だった。それを見て取った鬼子は、負けず顔を曇らせた。口をつぐみ、目を泳がせ、余計なことを聞いたのだと後悔した。その反応に驚いたのは、克一も勿論であったが、誰よりも鬼子本人が驚いた。

 鬼灯の実が潰れていく。張っていた皮は緩まり、繋がったままだった乾いた外皮を引き抜くと、潰れた中身がずるりと出てきた。薄く潰れた実に楊枝を差し入れ、残っている種やらを取り出していく。

「おまえと似た年頃の娘がいた」

 ようやく口を開いたのは克一の方だった。

「……わしをそこらの小娘と同じくするでない。童ではないと何度言わせるのじゃ」

 鬼子も返してみせたが、いつも通りの調子なのは言い草だけで、まるで気の抜けた仄暗い声だった。

「見た目は似たようなものだ。母親に似て器量良しだった」

 視線は手元、鬼灯に向いている。まるで手慰みだった。

 克一の物言いは、全てが昔語りだった。

「……その娘、今はどうしておるのじゃ」

 聞き返した鬼子の声は、やはり薄暗く、先程までの目の輝きも消えてしまった。

「どうもこうも、もういない。死んだ」

 克一はこの辺りの生まれではなかった。昔はもっと遠い街で、きちんと仕える主がいた。その屋敷で勤めている最中、家が物取りに入られた。全くあずかり知らぬうちに家は荒らされ、克一が帰った時には、女房と娘は既に息がなかった。物言わぬ亡骸がふたつと、荒らされた家屋があるだけだった。驚くほど手荒で、呆れるほど雑な仕業だった。克一の目に帳が下りて、見える景色が真っ暗になった。血の赤さえわからぬほどに。

 克一はそう、淡々とした口調で語った。平坦に、感情を込めず、出来得る限り他人事のように語った。

「下手人は捕まえた。すぐお縄になって、打ち首さらされた。それもしっかり目に焼き付いてはいるんだがな、俺は憤りをどこに向けていいのかわからんのだ。余所を守っている最中に我が家が襲われる、そんな間の抜けた話があるか?」

 鬼灯はすっかり虚ろになり、克一は楊枝を折った。水場に立って手桶に水を張ると、皮だけになった鬼灯を丁寧に洗った。口に入れても苦くないよう、慣れた手付きで。

「……娘の、名前は?」

 辛うじて出た声が、背に問う。

「おりん」

 最後にそう呼び掛けたのがいつだったか、克一は思い出せない。

 きれいに仕上がった鬼灯の笛を、克一は鬼子に渡した。鬼子は先程までの克一をどうにか思い出し、見様見真似で実を口に含んで舌で押し潰してみたが、上手く音は鳴らなかった。



 それからまたしばらくが経ち、二人は変わらず二人のままで、戸の外はすっかり秋を深めていた。長屋で克一が刀の手入れをしていても、鬼子はもう傍でじっと見たりはしない。ただ邪魔にならないよう、程遠くで一人遊びに興じていた。近頃克一に字を習ったので、半紙を相手に文字のようなものを書き付けていた。とはいえ手習いは退屈で、鬼子はすぐにぐしゃぐしゃとした絵で文字を塗り潰してしまうのが常であった。

 ぱらぱらと屋根を打つ雨音に、鬼子は素早く反応した。手元の半紙は既に真黒く塗り潰されていた。体を起こして玄関まで走ったので、克一も顔を上げた。上げた時にはもう外に飛び出した後であった。

「鬼は風邪を引かんのか、夜は冷えるぞ」

 外にはまだ幾分明るさも残っているが、日が落ちるのもまもなくだろう。弱い秋雨は空を余計に暗くしていた。

「うるさいのう、儂はおぬしのように柔ではないわ」

 二人の調子は元に戻りつつあった。あれから鬼子が克一に妻子の話を尋ねることはなかったし、克一の方も聞かれもしない話の種を取り上げることはなかった。鬼子は雨粒を浴びながら駆け回っている。克一は刀を腰に戻し、その様子を三和土まで下りて眺めていた。

「せめて合羽くらい着たらどうだ」
「おぬしが今直ぐ取り出して見せたら考えるとしようかのう」

 言うが早いかさっさと駆け出す。

「ほれ、捕まえてみい。捕まえられたら合羽を着てやるぞ」

 一人遊びに飽いていた鬼子にとっては、突然の雨は僥倖だった。それに克一まで巻き込めればしめたものである。はしゃいだ声を上げながら、鬼子は姿が見えなくなるまで駆け行ってしまった。

「鬼はおまえの方だろうに……」

 そう呟いて、克一はふっと相好を崩す。本人はそれと気付きはしなかったが、笑ったのは実に久方振りであった。気持ちもいつの間にか穏やかに落ち着いている。それが鬼子のおかげだと認めるのは、さほど難しいことではなかった。

 結局克一が鬼となり、鬼ごっこが始まった。否、隠れん坊に近かったかもしれない。鬼子は逃げ切り、どこへ行ってしまったか見当もつかなかった。

 適当に長屋の近くを見て回っていると、程無くして雨は止んだ。通り雨だったらしい。地面はしっかり濡れているが、鬼子には物足りなかったろう。放って置けば帰ってくるかとも思ったが、興に乗っていることをこれ幸いと、克一は最後まで鬼子に付き合うことにした。そう遠くには行ってはいまい。そろそろ腹も減ったし、辺りも暗くなってきた。捕まえる方が早いだろう。

「雨はやんだぞ、合羽はもう要らんな」

 わざとらしく、誰へとはなしにそう言うと、近くの樹がざわめいた。後ろだと思い、振り向きかけた時、正面から見慣れない坊主が歩んでくるのが見えた。見慣れない、しかしどこかで見た様相であった。

「御前さん、悪しきものに憑かれておるな」

 坊主は不躾に、克一にそう言い放った。黙ったまま、目だけを克一は返した。その手は大刀の柄に触れている。

「人ならぬあやかしか、とんだものに好かれたものよの」
「わかるのか、俺の姿も見えんようだが」

 坊主は目をほとんど瞑っていた。その下で薄い唇が仄かに笑うように歪む。

「見えるともさ。あやかしを見るのに人の目は要らぬ」

 半眼が微かに開き、克一に向く。その人ならぬ目付きに、克一の記憶は引き上げられた。米蔵の用心棒の馘を言い渡された後、他用で使わされた時に見た、あの蒼白い顔をした坊主と重なった。

「ふむ、餓鬼の類と見える」

 克一から目を外し、再び瞼が下りる。偽りや当てずっぽうを言っているわけではないのは、鬼子がいるだろう木に向いて言っているのでわかった。克一は刀から手を離さず、眉間に皺を寄せたまま視線も坊主から離さなかった。坊主は意にも介さず続けた。

「生まれてすぐ、口減らしで親に殺された、名付けて貰うことすらできなかった赤ん坊の成れの果て。憐れなものだ」

 木の枝ががさがさと派手に鳴るのを、克一は背で聞いた。

「知らぬ! わしは鬼じゃ! そんな憐れな赤子ではない!」
「……ほう、短慮極まるな、子鬼よ。そうもおめおめと姿を現してくれるとは思わなんだ」

 静止せねばと振り返った克一は、目を見張った。己の背後に現れ、しかし克一の姿を目に写してはいない鬼子の姿は、見慣れた童女の様子とは異なるものだったのである。

 鬼子の目は兎のそれのように赤く染まり、噛み締められた犬歯の隙間からは荒々しい息遣いが漏れ聞こえる。威嚇する獣の如く身を低く構え、鋭く伸びた爪が直ぐにでも獲物を切り裂かんばかりに鈍く光っている。それは正しく鬼の姿だった。

「それ、見てみろ、足元の水溜りを。見事な鬼だ」

 坊主の言葉を気にしてか、それとも顔を出し始めた月が足元でちらついたのが目に入ったか、鬼子は水溜りに映る己の姿をしかと見た。そして更に息を荒げ、低く低く唸った。

 坊主の口元が、今度ははっきりと笑みを作った。それは恐ろしいほどの余裕に満ちていた。

「憐れな鬼だ」

 咆哮が暗がりを引き裂き、鬼は、跳んだ。肉を食む獣の動きで。

 しかしその牙が坊主を食い破ることも、爪が袈裟を切り裂くことも、なかった。坊主の手が鬼子を仕留めることも。

「……手のかかる、小娘だ」

 鬼子は、始め、己が何に飛び付いたのか理解できなかった。ただわかるのは爪が皮膚を刺す感触と、口に広がる血の味だけだった。だが、坊主は手の届かない遠くにいる。身をよじると、二本差しが互いにぶつかる音が涼しく鳴った。それから、頬に髪の感触。身に覚えのある、抱き止める温かさ。

 鬼子はがたがたと震え出した。震えるままに牙を抜くと、克一の肩に濃い赤が滲んだ。

 獣のものではない、それでも悲痛な叫びがまたしても闇夜に鳴り響くより先に、克一はもう一度鬼子を腕に抱いた。鬼子の慟哭が古びた着物に塞がれる。

 克一は、黙って、ただ鬼子の頭を撫ぜた。赤子をあやすように、静かに、ゆっくりと。

 鬼子の震えは止んだ。代わりに、童女の泣き声が着物の隙間から漏れ聞こえた。その小さな手は克一の着物を破かんばかりに必死に縋りついている。

「帰れ、坊主よ。こいつは鬼ではない」

 背を向けたまま、克一は言った。もし坊主が何がしかの攻撃を仕掛けてきたとしても、己が盾になれるのなら問題は無いと思った。それならそれで一矢を報いることはできるだろう。腰に下がっている二本は飾りではない。振るうべき時を知らぬわけでもない。

 坊主は黙っていた。

「こいつはただの娘だ。俺の、娘だ」

 首だけを向け、腰に差した二本よりも鋭く冴えた目が坊主に迫る。坊主はそれに動じもせず、涼しい顔のまま口を開いた。

「そこな侍よ、娘の名は何と言う?」

 克一は鬼子を抱く腕に力を込めた。

「おさよ」

 腕の中で、鬼子がぱちりと目を開く。その目は、泣き腫らしてはいるが、童女のものに相違ない。

「おさよ、か」

 そう繰り返した坊主は、足音もなく、坊主は克一たちの近くまで来ていた。持っていた錫杖を真っ直ぐに鬼子に向ける。さらりと高い音が微かに鳴る。

「名があるのなら、鬼ではないな」

 もう一度、今度はいくらか大きく錫杖が鳴る。と、克一の腕の中で、鬼子の角が、燃え尽きた線香のようにほろほろと崩れ去った。

「鬼でないのなら、私に勤めはないな。このところの騒ぎは、大方、鼠か何かの仕業だろう」

 自分に何が起きたのか、わけがわからない様子で小さな手が己の頭を撫で回す。長い髪にしか触れなかった。克一もまた、目を見開いたまま角があった部分を見つめていたが、やはりそこは平らなだけだった。

 次に振り返った時には、坊主はもう姿を消していた。

「……おさよ?」

 腕の中から小さな声がして、顔を戻す。すっかり潤った瞳がくりくりと克一を見上げていた。月明かりを写し込んで、玻璃の玉のようだと、克一は思った。

「小さな夜で、さよ、だ。おまえを見つけた時、見事な月夜だった」

 そう言うこの夜も大きな月が出て、克一の顔が柔らかな笑みをたたえているのを照らしていた。

「おまえの名だ」

 それを聞いてすぐ、角をなくした鬼子は、たまらずわあわあと泣き出し、克一にしがみついた。克一はそれをしかと抱き留めた。小夜の体からは子どもらしい甘い匂いがした。それは懐かしく、温かな匂いだった。







  了










*サイトアクセス2000hits リクエスト作品
  御題 「鬼」

うなぎ様、2000ヒット報告ならびに御題提供ありがとうございました。
明るい話を御希望だったと思うのですが、これで大丈夫でしょうか……
意識した通りの雰囲気に書くのは難しいことと再認識致しました。要精進です。
ともあれ、良い勉強をさせて頂きました。ありがとうございます。






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