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モノクロームの部屋


 その部屋の中は何もかもが真っ白で、まるで部屋全体が発光しているようだった。そこに惹かれたという実感はまったくなかったが、私は入ってすぐにその部屋に住むことに決めた。迷いはなかった。今までの人生になかったほどに。

 安いアパートだった。駅まではそれなりの距離があるし、狭い。近所にはコンビニが一軒あるだけで、あとは民家しかない。アパート内の部屋はほとんどが一般的な内装であり、外装も至って普通である。ただ私の住む部屋だけが、白い。私の前の先住者がそうしたのだと、大家は私に説明した。

「いえね、迷惑はかけないから内装を変えさせてくれって言われたんですよ。模様替えなんて珍しいことじゃあないし、わざわざ断わったあたり丁寧な人だなと思ったくらいで、ええいいですよって、気軽に言っちゃったら、まあ、こうなってたんです。そりゃ驚きましたよ。だって、これじゃあ、ねえ、病院でもないんだし。でもね、感じのいい人だったんですよ。少し暗いところのある人だったけど、挨拶はするし、ゴミもきれいに出すし、もめごとなんて起こすような人じゃなかったし。まあ部屋はこんなふうにしちゃったわけだけど、ここを出る時には何とかするって言ってくれたし……え? ああ、そう、白いままなんですけどね。正式に出たわけじゃなくて……あ、自殺とかじゃないですよ。最初にね、入居してきた時に、もし長い間帰ってこないようなことがあったら人を入れてしまって構わないからって、ええ変わった話なんですけど、でもちゃんとそういった書類も作って、契約書って言いますかね、三ヶ月戻ってこなかったら家具も譲っていいからって、そういうのもちゃんと残してたわけですよ。それで、入居してすぐに部屋を白くしたんですけど、それから丁度一年くらい経った頃に、ふらっといなくなって、三ヶ月が過ぎちゃったんですよ。そりゃすぐに人を入れるのは気がひけましたけど、戻ってくる様子もなかったし、はじめは元に戻してからにしようかとも思ったんですけど、ほら、ここまでされてると結構かかっちゃうんですよ。だからこのままで、まあそういうことなんですけど、あ、契約書見ます?」

 喋ることに生き甲斐でも感じているような大家は私の相槌を見事に飲み込んでそこまで言うと、契約書を私に押し付けたのだった。流し読みして紙を返すと、彼女は満足そうに去った。悪い人でないことはわかるのだが、彼女と話すのはどうにも疲れる。

 白い部屋で暮らし始めて、もうすぐ半月になる。住み心地は思いの他よかった。私は在宅でパソコンを使った仕事をしているが、以前いた場所よりもこの部屋の方が集中できた。余計なものが目に入らないのがいいらしい。そう考えると、理由は何であれ、この部屋に自分の荷物をほとんど持ち込まなかったこともよかったのかもしれない。

 真っ白い部屋に慣れるまで、長い時間は要らなかった。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 その日は小雨が降っていた。仄かに灰色がかった部屋の中で、私は一人パソコンのモニターに向かっていた。

 雨の音はごく微かなものだったので、ドアホンの音は難なく聞こえた。来客の予定はなかったので何かの勧誘かと溜め息を吐きつつ、私は重い腰を上げた。雨の日にまでご苦労なことである。

 ドアノブをひねり、押す。

 外に立っていたのは若い女性だった。黒く真っ直ぐな髪に、黒い開襟シャツに、黒い細身のパンツ。私は驚いた。服装が私と酷似していたからだ。

「……あの」

 彼女の方も驚いているようだった。前髪から雨粒が垂れ落ちるのを気にする様子もない。

「白井は、いませんか?」

 低めのハスキーボイスだった。どうやら勧誘ではないらしい。

「白井とは、白井正明さんのことでしょうか」

 黒い女性は頷いた。「ご存知ですか?」

 私は曖昧に頷いた。知り合いではない。白井氏は他でもないこの部屋を白くした張本人である。私は人の名前を覚えるのは苦手だが、名前まで白かったので、白井氏は容易く覚えることが出来ていた。

「白井さんは、もうここにはいらっしゃいませんよ。私は半月ほど前に入居した者です」

 黒い女性はつと立ち尽くし、表情を固めた。

「引っ越したのですか、白井は」

 そうではなく姿の消したのであるが、ともかく私は言った。

「とりあえずお入り下さい。そこでは雨に当たりますし」

 黒い女性の肌は白く、ともすれば気を失いそうですらあった。遠慮がちに部屋に上がった彼女にバスタオルを渡すと、小さく礼を言った。その目は部屋中を目まぐるしく見つめていた。

「本当に、白井はいないのですか?」
「何故です?」
「部屋の中が、同じです」

 説明すると長くなるので大家にでも役を回そうかとも思ったが、それでは長いで済まなくなる気がしたので、止めた。

「部屋の中は、白井さんが住んでいた頃のままです。パソコンがあったり、タンスの中身が変わったりはしていますが」

 そこで彼女は初めて見知らぬパソコンの存在に気付いたようだった。私の体が隠していたらしい。

「ですが、白井さんはいません」

 私は白井氏が契約書を残して三ヶ月以上姿を消したという話をした。いざ話してみると短時間で終わった。

「そうですか」

 説明を終えると、黒い女性はそう呟いた。血色はよくなってきつつあったが、黒い服のせいでそう見えるのか元々なのか、肌は変わらず白い。

「白井は、何か、書き置きのようなものは残してはいないでしょうか」

 そう私に尋ねると、わからないと答えるよりも先に黒い女性は吹き出した。自嘲めいた笑いだった。

「どうなさいました」
「いえ、白井に限ってそんなことはしないと思いまして」

 長い付き合いを感じさせる台詞だった。それなのに彼女は白井氏がこの部屋を出たことを知らなかった。白井氏も黒い女性も、いまいち掴み難い。二人の関係は、俗っぽい想像がつくが。

「白井がここにいないことは、承知しました。お手数を掛けて、すみません」
「いえ、まあ、別に」

 黒い女性の胸中を思うと、如何ともし難い。が、私にはどうしても気になることがあった。

「ひとつだけ、お聞きしてもいいでしょうか」

 私が言うのに、黒い女性は頷いた。「どうぞ」

「白井さんは、何故部屋をこうも白くしたのでしょうか」
「気になりますか、やっぱり」
「興味本位で恐縮ですが」

 黒い女性は、初めて、楽しげに微笑んだ。

「変わり者なんです、白井は」

 聞くまでもない答えだった。

 黒い女性は「多分有り得ないでしょうけど」と付け加えた上で、白井氏のことで何か進展があったら教えてくれと連絡先を記したメモを残して去った。見ると彼女の名前は「黒澤綾乃」というらしく、そのきな臭さに私はつい笑ってしまった。

―――――【黒い女の回想】―――――

 「変わり者」、か。確かに彼を表すにはその一言で足りるかも知れない。けれどそれなら私も同じだ。だからこそ私たちは、確かに、惹かれ合っていた。

 長い間会わないのは、珍しいことではなかった。私たちは常に顔を合わせていなければならないような仲ではなかったら。彼は私たちの関係に美的なものを求め、私はそれに応えようと努めた。しかし私は独りの時に彼の姿を細部に至るまで、例えば胸板の滑らかさや足首の細さ、指の骨ばった感じや髪の柔らかさを思い出し、身体の奥の方を焦がすことがままあった。そして私は彼の指を、舌を、唇を求めてしまった。

 だから彼は去ってしまったのだろう。私を置いて、何も言わずに。そういう人だ。多分私は、悲しいことに、彼以上に彼のことがわかるようになってしまった。

 あの白い部屋は彼によく似合っていた。白い服を着なくとも、似合っていた。似合い過ぎて、私は嫌だった。白い服なんか着ないで裸でいる時が、一番だったのに。どうして私はそれを彼に告げることが出来なかったのだろう。何も飾らない、何にも隠されない彼が、一番誠実だったのに。

 いつだってわからないのは、自分のことばかりだ。

 彼の住んでいた部屋に行って、私は何をしたかったのだろう。長い連絡の途絶えを責めに? 別れを告げるために? いや違う、私はただ彼に会うためにあそこに行ったんだ。会って何をしたかったのかはわからない。ただ、彼の望む私でいられる間に彼と話がしたくて、行ったんだ。

 私は彼と別れたかったのだろうか。正実であろうとする彼には、女を捨てるなんてことは出来ないと思っていたから。私はもう、正実ではいられなかったのに。

 ああ、何を考えているのかわからなくなってきた。彼ほどではないにせよ、考え過ぎるのは私の悪い癖だ。

 私は再び降り出した雨に身を委ねることにした。さっきまで降っていた小雨とは違い音を立てて降る雨は、私の身体を重くしていた。

 そうだ、いっそすべてが鈍くなってしまえばいい。肉体も、精神も、すべて。そうすれば、考えることを止められるかもしれない。

 ここにいる私も、どこかにいる彼も。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 今日は久方振りの快晴である。長雨もようやく終わりらしい。私は食料を調達しに外へ出ることにした。

 戸を開ける。私はいつもこの瞬間、世界の彩りの鮮やかさに驚いてしまう。空の青、街路樹の緑、赤い乗用車が走っているし、大家は黄色い服を着ていた。この動悸が緩慢な日々の唯一の刺激だった。

 気怠さに包まれ、コンビニの袋を下げながら歩く。そよぐ風にも、私たちに見えないだけで、実は色があるのかもしれない、などと柄にもないことを考える。だがそれが何色であるのか特定するよりも先に、私の意識は他のものへと向けられた。

 アパートの前に、黒い女性が立っている。

 向こうもこちらに気付き、黒澤氏は私に軽く頭を下げた。

「大家さんのところへ行ったんですね」
「ええ」
「大変だったでしょう」
「ええ」

 私たちは笑った。「この間伺った話を七割増しで聞かせて頂きました」

「悪い人ではないんですがね」
「ええ、悪気はないんですよね」
「でもまず、あの蛍光色のジャンパーは脱いで頂きたい」
「同感です。あの黄色は、ちょっと」

 二人で含み笑いをする。不思議と黒澤氏には自分と同じ匂いを感じた。白井氏に残された彼女の境遇に、同調してしまったのかもしれない。

「……よかったら、白井さんの話を聞かせてもらえませんか」
「白井の、ですか?」

 黒澤氏は意外そうに、しかし不快ではないように、首を傾げた。私は無言で頷き、待った。

「……構いませんよ」

 そう答えた黒澤氏の目は、覚悟を決めたように光っていた。私はそれに気付かない振りをした。

「場所、変えませんか。外で話すようなことでもありませんし」
「ああ、そうですね」

 どうしようかと辺りを見回す。一番に思い浮かんだ場所に即決するのは少々躊躇われた。

「お宅にお邪魔しても構いませんか?」

 先立ってそう言った黒澤氏の目は私の部屋の入口を見ていた。「ご迷惑じゃなければ」

「……構いませんよ」

 黒澤氏がふと笑う。私は何事もない顔をして彼女を部屋へ連れた。黒澤氏は礼儀正しく上がった。予防線を張ったようだった。

「コーヒーでいいですか?」

 買物袋を床に降ろし、中身を冷蔵庫に移しながら私は尋ねた。

「お構いなく」

 この部屋にはインスタントコーヒーしかない。私は白いカップを棚から二客出して粗茶の用意をした。白井氏の残したものを黒澤氏に使うのはいささか無神経である気もしたが、他にカップがなかった。

「どうぞ」

 ミルクと砂糖を添えて、湯気の立つカップをテーブルに乗せる。一礼した黒澤氏は、案の定というか、カップを見つめて手をつけようとはしなかった。

「家具類は、全部残っているんですよね」

 私は、おそらく、と頷きながら向かいの席に着いた。

「その中に、灰色のシャツはありませんでしたか?」
「ああ、ありましたね」

 洋服は、基本的に何も残っていなかった。ここを出る時に持っていったのだろう。そのおかげで行方不明といえども騒ぎにならなかったのだと思うが、何故かシャツが一着だけ例外的に残されていたのだった。真っ白な部屋に残された灰色のシャツは、まるで何かの影か残滓のように思えたのを覚えている。

「あれ、捨ててしまって下さい」
「え?」
「私が贈ったものなんです。残していったということは、もう要らないのでしょう」

 そう言い切り、黒澤氏は颯爽とコーヒーを飲んだ。ミルクと砂糖は寂しく転がったままである。そして、

「捨てて下さい」

と念を押してカップを置いた。黒澤氏は少し笑っていた。うつむくその長い睫毛が湯気に湿り光っているように見えてしまったので、私は訊かずにはおられなかった。

「本当に、私が捨ててしまって構わないのでしょうか」

 黒澤氏は黙した。私はカップを口に運び、黙って待った。私は、待つことにも沈黙にも慣れている。

 黒澤氏は決断の早い人らしかった。カップの中身が半分も減らないうちに、彼女の顔は上がった。 「持ってきて頂けないでしょうか」

 その目は射るように鋭く、そして悲しげなものだったが、口元には笑みをたたえていた。

「私が処分します」

 逞しい人だと思った。

 その凛然とした態度はシャツを目前にしても変わらず、黒澤氏はシャツを手に取ると口の端に笑みを残したまま一見し、すぐさま鞄の中にしまった。

「お手数を掛けてすみません」

 丁寧にそう言い、黒澤氏は再びカップを取った。

「白井が部屋を白くした理由、まだ気になりますか」

 コーヒーの湯気が立たなくなり始めた頃、黒澤氏はそう訊いてきた。私は、ええ、と答えたが、そうしなくても続きは聞けるだろうと思った。

「白井は潔癖症なんです」

 私は聞き役に徹することにした。

「常に正実であろうとする人なんです。理由は知りません。自分の汚い部分や弱い部分は決して他人に見せない人でしたから。それが強さだと思っていたようです。そして強くあろうとする人でした。優しく、正しく、潔くあろうとするんです。この部屋は、そのせいだと思います。部屋を白くして、自分を保とうとしていたのだと思います。……繊細で、弱い人でしたから」

 黒澤氏はコーヒーで一呼吸を入れた。これ以上聞いてもいいものかと私は思ったが、止めるのも促すのもしなかった。

「白井は正しくないことが嫌いだったんです。許せなかったと言ってもいい。自分が歪むのが許せなかったんです。付き合うのも、正実な人が好きだったようです。けれど他人に正しくあることを強要するような人ではありませんでした。しなかったというか、出来なかったんです。それは、自分が不実なことになってしまうから。……だから、ここを去ったのでしょう。ここにいれば、私が会いに来るから」

 黒澤氏は深く呼吸した。「正実でない私を捨てるのに、言葉が思い浮かばなかったんでしょうね」

 私はコーヒーを飲み干した。真っ白なカップの底には、わずかに余った褐色が染みのように浮かんでいる。

「私は元々正実ではなかったんですけどね。ですが、彼に合わせようと無駄骨を折りました。……本当は、私は、誰でもいいような女なんです」

 私はカップを空中に残したまま黒澤氏を見た。彼女はいつの間にか真っ直ぐに私を見ていた。

 ひどく親密な空気が流れた。視線が交わったのはせいぜい数秒だったが、長い間見つめ合ったような気分だった。予防線が、消えたのだ。

 空気を破ったのは無機質な電子音だった。私の携帯電話だった。

「失礼」

 私はカップを置き、席を立った。私は安堵した。残念だとは思わないようにした。

―――――【黒い女の感想】―――――

 胸が痛んだ。気分が悪い。最低な気分だ。

 こんな女、捨てられて当然だ。

 誰でもいいような女?

 違う。違う違う違う。

 私は彼がよかった。彼が、彼だけが欲しくて、だからあんなに求めたんだ。過度に、求めてしまったんだ。過ぎたるは猶及ばざるが如し――昔の人は巧いことを言う。結局私は、彼に及ばなかったのだから。

 それなのに。

 それなのに、今、私はどうした?

 彼じゃない男を、今、自分から誘ったじゃないか。

 彼の嘆く顔が頭に浮かぶ。私は泣きそうになり、吐きそうになった。

 誰だって、自分のことはマシな人間だと思いたがる。彼はそうあろうとして自分を傷つけてしまうような人だった。私は自分がそうでないなんて元より信じてなかった。

 私と彼は違う。それがわかったから私は彼から離れようと決めて、あの日この白い部屋へ来たんだ。私は彼の求めるような、清らかな人間じゃなかったから。

 私は、別れの悲劇にひたって、そんな自分の慰めに代役を立てるような人間だった。

 やっぱり、正明、貴方は正しかった。いつだって正しくあろうとした貴方が、正しかった。

 けれどきっと、彼はわかっていない。彼の正義を貫く様が、どれだけ私を苛立たせたかを。極力他人の深みに触れないようにしていた彼に、わかるわけがない。正しいことが必ずしも優しいわけではないと、私が思っていたことなんて。

 そう、私はずっと苛々していた。腹が立って、悲しくて、悔しくて、あの灰色のシャツを贈った時だって、いつだっていつだっていつだって――。

 …………。

 こんなに感情的になったのは、どれくらいぶりだろう。そう言えば私は、最後まで彼の前では泣かなかった。それは、正しいことだったのだろうか。優しいことだったのだろうか。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 電話は会社からだった。気持ちが落ち着いたところで切り上げ、黒澤氏の方へ直る。

 ――――。

 私はテーブルの上から二つのカップを取り、二杯目を淹れに黒澤氏に背を向けた。その方が、彼女も楽だろうと思ったからだった。

 たっぷりと時間をかけ、コーヒーを淹れる。湯気は温かかった。温かいものは落ち着く。私は落ち着きたいと思った。深呼吸をして湯気を吸い込む。窓から外が見えた。いつの間にか雲が出ている。雨が降るな、と思った。

 戻った時、黒澤氏は泣くのを止めていた。私はカップを置き、砂糖とミルクを並べ直した。こんな時にブラックはお勧めしたくない。

 黒澤氏は動かなかった。涙していた時と同じように。そして何も言わず、カップにも手をつけなかった。

「私がここで一人暮らしを始めた理由なんですが」

 黒澤氏が顔を上げたのが、気配でわかった。私はテーブルの上で組んだ手を見つめながら、続けた。

「先月、離婚したんです」

 このことを自分から他人に話すのは初めてだった。自分にあまりにも近しいことは、話題にするには重過ぎる。けれど、構わないと、この時は思った。

「妻は浮気をしていました。私はそれを知っていたけれど、黙っていた。……妻にはそれが、許せなかったのだそうです」

 目を上げると黒澤氏が私を見ていた。痛々しい目である。私は少しだけ笑って見せた。

「おかしな話だと思いますか」

 黒澤氏は答えなかった。

「私も、はじめはそう思いました」

 言いながらカップにミルクを落とす。ティースプーンを回す音は耳に優しい。

「ですが結局別れました。そして家財の一切を妻に渡して、仕事道具と身のまわりのものだけを持って、ここに来たんです」

 湯気を吸い込み、コーヒーを喉に通す。黒澤氏も、温かいうちに飲んでくれるといいと思った。

 あの頃のことを思い出すと、疲労感と脱力感がよみがえる。向かい合った妻の顔、鏡で見た自分の顔、雨、涙、声、暗闇、沈黙。

 対人関係なんて、曖昧なものだ。そんな曖昧なものにすがり、依り、忘れようとしたり繋ぎ止めようとしたりする。でもそれでいいのかもしれない。大事なことは、目に見えないことの方が多い。それを無理に形にして、確実なものにしようとしたのが間違いだった。少なくとも、私たちにとっては。

 妻の、妻としての最後の言葉が頭に浮かぶ。「私は貴方を愛していたけれど、貴方は私ほど、私を愛してはくれなかったわ」。あの日からだ。あの日から、私の中で確かだったものたちが曖昧になった。彼女にああ言われるまで、私は感情の計り方なんて考えたこともなかった。

 この部屋は真っ白で、何もない。何も、だ。感情の波も、善悪も、優しさも痛みも、すべてが白に彩られ、等しく、埋没してしまう。だから私はこの部屋で暮らそうと思ったのだ。逃げ場所として、こんなに安穏なところは他になかったから。

 白井氏のことを思う。彼は何を思ってこの部屋を白く染めたのだろう。わかるのに、わからない。共感できるのに、どう言葉にしていいのかわからない。黒澤氏は、変わり者だったからだと言った。だとしたら、この部屋に共感する私も変わり者なのだ。そしてきっと、それぞれ、皆が変わり者なのだろう。思いを言葉にするのが少しばかり苦手な、愛すべき変わり者なのだ。

「――何が正しいかなんて、誰かと共有できることじゃないんだ」

 そういえば、こんなに感情的になったのは久し振りだ。離婚成立間際には私の感情は死んでしまっていたし、この部屋にいるとその安全さで感情は平坦になってしまう。

 でも、もう終わりにしよう。

「黒澤さん」

 前を向く。彼女も顔を上げた。その睫毛はまた湿り光っているように見えた。

「この部屋を、改装しようと思うんです」

 黒澤氏は何も言葉にしなかった。

「幸い、妻は私に不自由のないくらいの金は残してくれました。それを使って、私なりに、ここを改装しようと思うんです」

 私は言った。

「構いませんか?」

 彼女の返事を、私は待った。待つことには慣れている。だが、待つだけでいるのは、もうお終いだ。

「……ええ」

 黒澤氏の声は、消え入るような小さなものだった。だが何故か、私にははっきりと聞こえた。

―――――【黒澤綾乃の行動】―――――

 カフェオレは温かかった。ブラックで飲むよりも美味しいと言うと、白い部屋の新しい住人―― 一色禄郎氏は笑った。正明とはまったく違う、人間味に溢れた笑顔だった。

 私が部屋を出る時も、一色氏は微笑んで送ってくれた。私はどういうわけか、一色氏に自分と近しいものを感じた。私と同じ、黒い服を着ていたからかもしれない。でも私はもう自分を黒く固めることはしないと思ったし、一色氏もそうだろうと思った。

 今日も小雨が降っている。まるで涙だ。陳腐な喩えだが、この雨は誰かの涙のようだ。私の、正明の、ひょっとしたら一色氏の。そう思うと、陳腐なものも悪くない。結局人間の生き方なんて、みんな陳腐なものなのだろう。沢山の人間が嘆き、悲しみ、慈しみ、ずっと繰り返してきた生き方。そしてそれは、愛すべき弱さなのだ。

 涙は静かに降っていた。車の走る音も、人の歩く音も、風の吹く音も、柔らかく、ゆるやかに包まれている。私も、アスファルトの上に横たわる猫も。

 猫。ああ、暗い道路に、薄汚れてしまった猫が横たわっている。気に留めている人は誰もいなかった。車も止まらなかった。

 ……そうだ。

 私は鞄の中から灰色のシャツを取り出した。車の走る音に間が出来たのを見計らって道路に出る。猫は動かなかった。

 弔ってやろう。この猫も、私の想いも、弔ってやろう。誰にも見取られず、認められずに朽ちていくなんて、可哀想だから。

 私はシャツで猫を包み込み、歩き出した。温かい、気がした。







  了









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