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有識の街


 そこは見知らぬ、ごくありふれた、何の変哲もない街だった。どこをどう通って来たのか、私はくたびれた足を引きずって歩いていた。規則正しい足音に追い抜かれても急ぐ気にはなれない。どうにも頭がぼんやりし、どこへ向かっているのかもはっきりしなかった。とにかく、終着点があることを祈って私は歩き続けた。仕事が残っているのだ、早く戻らなくてはならない。

 交差点に差し掛かり、横断歩道を渡る。と、信号が点滅を始めた。やけに早いと思いつつ、それでもくたびれた体は走ろうとはしなかった。渡り切る一歩前で、信号は赤く染まった。

 その瞬間、まさに瞬く間に激烈なサイレンが耳を劈いた。騒音なんて生易しいものではない、生き物を滅多打ちにする攻撃だった。私は反射的に耳を押さえ、その場にうずくまった。目の端に、高いスーツの膝が汚れるのが映る。気が遠くなるまで時間はいらなかった。



 微かにささめく声が聞こえて、私は重い瞼を上げた。やけに眩しい。鈍く痛む頭を持ち上げると、さっと静寂が走った。私は椅子に座っていた。周囲を取り囲むような壁と、その上には人影が見えるが逆光になっていてよくわからない。小さな舞台に据えられた椅子に座っている私に向けて、スポットライトが当てられているような。ただし、舞台よりも客席の方が高い。

「被告人が目覚めましたので、これより、裁判を開廷します!」

 正面からそんな声が降り注ぎ、私は首を向ける。横に並ぶ黒い人影が、一斉に全て、私に向いたのがわかった。スポットライトは若干弱まり、皆が皆、揃いの黒い衣装に身を包んでいるのが見えた。能面のような無機質な表情がずらりと並んでいる。

「被告人、あなたは道路横断に関する罪に問われている。身に覚えは?」

 は、と私の口から気の抜けた声が漏れた。被告人? 私が?

「被告人! 身に覚えは!」

 降り注ぐ怒号は、紛うことなく私に向けられたものだった。私と同じ高さには誰もいない。

「み、身に覚えと言われましても……」
「では、罪を犯した覚えはないと? そう言うのですね?」
「はあ……」

 ぎろり、という音が聞こえてきそうなほど強い視線が返ってきた。一体、何なのだろう。まだ薄らぼんやりとした頭を巡らせて自分の置かれた境遇を把握しようと努めたが、どうも無理そうだった。そもそもここがどこなのかすらわからない。

「裁判員の皆さん、これを御覧ください!」

 中央に座る男はどうやら進行役らしい。彼が言い終えると同時に、周囲の壁がぐにゃりと歪んだ。私を囲む多角形の壁の一面ずつに横断歩道の映像が映し出されていた。

「今、被告人が横断歩道を渡り始めました」

 これは、さっきまでの私だ。固定カメラか何かで映した映像なのだろうか、両岸の信号機を含めて、切り取られたように横断歩道が見渡せる構図になっている。

「ここで、信号が点滅します。しかし、彼は走ろうとはしなかった!」

 ざわざわと言葉にならない声が起こる。何なのだ、これは。

 映像の中の信号が赤に変わり、私がうずくまる。音声は切ってあるのか、私が不格好にのた打ち回るだけの静かな映像だった。ただし、現実のざわめきが、それこそサイレンのように渦巻いているようだった。

「これで、君は罪を重ねたわけだ」

 進行役の隣に座る、いかにも重鎮、といった風貌の男性が静かに告げた。場のざわめきがすうっと収まる。

「信号機に設置されているカメラは、ご存じの通り行政で設置しているものだ。疑う余地はない。したがって、この時点で君は交通信号機無視罪を犯し、かつ虚偽申告罪を重ねたことになる」
「それは、その、罪でしょうけれども……」
「わかっていたのだね?」
「そりゃあ、まあ……しかし、車も来ていませんでしたし、渡り始めた時は青でしたし……」
「故意犯だと認めるのだね?」
「は?」
「罪と知っていて法を犯したと、そう認めるのだね?」

 どうかしているとしか思えなかった。私は思わず、呆れたような声を漏らしてしまった。

「……罪に、なるんですか」

 ざわつきが、様子を変えたように思えた。

「どういう意味かね」
「いや、その……」
「はっきり言いたまえ。ここは、君の考えを聞く場だ」

 正直なところ、こんなやり取りに付き合う気すら起きなかった。だってそうだろう、こんな馬鹿げたやり取りに付き合う必要が、どこにあるというのだ。

「そりゃあ、私は信号が赤の時に横断歩道の上にいましたよ。それはわかってます。だが、それがどうしたっていうんです? 事故を引き起こしたわけでもないし、誰かが傷付いたわけでもない。たかだか信号が変わる前に横断歩道を一歩だけ渡りきれなかった、それだけのことでどうして私がここまで……」

 悪い冗談だ、こんなもの。ひどく重い頭を振ると、鈍い痛みがあった。

「自分の行いは罪に値しないと、そう言うのかね」
「そりゃだって……信号無視は駄目でしょうけど、私が渡り始めた時は確かに青信号だったし……」
「知らなかったと?」
「え?」
「赤信号の時に横断歩道を踏んでいる、その時点で罪になると、知らなかったというのかね?」

 声はあらゆる方向から聞こえ、もはや誰が発言しているのかよくわからない。私が曖昧に頷くと、またささめきが聞こえて黒い影たちがうごめいた。

「知らない? 本当かね。もしそうならば、裁判のやり直しも考えなくては」

 誰かが発したその言葉は、私にとっては一条の光としか思えなかった。私は必死で、なりふり構わず訴えた。

「ほ、本当です。信じてくださいよ、私はここがどこかもわからないんだ!」
「そうか……ならば、この罪状は適当ではないな」

 ほっと、息が漏れた。そうだ、こんなのは間違っている。期待を込めて首を巡らすと、影たちの意思がまとまったのだろう、ささめきが止んだ。

「改めて、君をモウマイ罪に問わねば」

 モウマイ? 一体何を言っているのか、私は彼らの迷いのない声を聞くことしかできなかった。

「無知蒙昧の蒙昧だよ。まさか、それも知らないのかね?」

 それは呆れるような、哀れむような声音だった。

「この街において、無知は何より重い罪だ。悪いことと知らなかった、だから助けてくれ。そんな理屈がまかり通る社会に、光り射す未来があるかね?」

 口を挟む間もなく、再び強い明かりが私を差した。

「君を地下謹慎処分に処す」

 大きく機械的な音が鳴り響き、黒ずくめの裁判官たちが上昇していく。いや、違う、私のいる一角だけが下がり始めていた。

「非常に残念だよ。君のような、ものを知らない人間がいるなんて」

 思わず椅子から立ち上がり、壁に駆け寄ろうとしたところで、私の足は何かに引き止められた。見ると、椅子の足と私の足が鎖で繋がれていた。椅子は動かそうとしてもびくともせず、そうしている間にも地面は下がり続けている。

「おい、やめろ、止めてくれ! これを外してくれ!」

 ゆっくりと、しかし確実に私は下り続け、もう裁判官たちの姿は判別がつかない。

「命まではとらない、暗闇の中で己の罪を学びなさい」

 彼らの声はひとつの意志となって、光の中から落ちてくる。ただの光の塊だけしか見えなくなってもまだ下降は止まらない。

「やめろ! こんな、こんなの、裁判でも何でもないじゃないか! 私は何もやってない! 何も知らない!」

 鎖は鋭い音で鳴き、高い高い壁に囲まれた中で反響している。扉も窓もない壁に、私は近づくことすらできない。どれだけ力を込めても椅子の足が浮かぶことはなく、鎖もちぎれず足に食い込むばかりだった。

「我々は寛大だ、いつまでも待とうじゃないか。時間の許す限り、ずっと」

 ずっと、ずっと、と声は響き続け、それが遠ざかっていくのが恐ろしくて私は叫び続けた。鎖の音も自分の叫びも、耳が痛くなるほどの騒音だった。息が切れて動きを止めると、何も、聞こえなかった。そして光の塊もやがて点となり、消えた。



 汗だくで目が覚めると、もう仕事に出掛けなければならない時間だった。カーテンを開けて外の明るさに安堵の息をつく暇がかろうじてある程度だ。悪い夢だ、仕事に行くまでの間にさっさと忘れるに限る。

 職場で、私はまた同じ物言いを繰り返すのだろう。

 どうしてこんなことがわからないんだ、わかりませんじゃ済まないんだぞ、受験はもうすぐなんだ、試験にわかりませんが通用するわけがないだろう……。

 私は間違っていない、私は間違っていない……そう何度も繰り返し呟いた。

 私の胃に、穴が空いた。








  了









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