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ある日、春の日


 隣に会釈してから自分の座席に着くと、思っていたよりも座り心地が良くて安心した。一番安いバスをと探して懐には優しくできたものの、安かろう悪かろうではこれからの五時間が堪える。コンビニで仕入れた朝食を入れた袋をフックにぶら下げて、背もたれに身を預けると、窓から差し込む朝日が目に染みた。

「この度は当バスをご利用いただきましてありがとうございます……」

   乗務員のアナウンスが流れると、程なくバスはビル街から走り出した。外に見える早朝の街並みはいつもと違って見える。白っぽく光って、あまり人気がない。見慣れない様子に多少気もそぞろになる。考えてみれば長距離バスでこの街を離れるのは初めてのことだった。

 アナウンスは最低限で、走るバスの中は静かなものだった。隣の乗客は早々に座席を倒して寝入っていたので、僕はできるだけうるさくないように袋から朝食を取り出した。ついでに鞄から音楽プレイヤーも。BGM程度に適当な曲を聴きながらコンビニおにぎりの包みを破る。内容自体は質素だが、冷たいウーロン茶の喉越しも良くおいしく感じられた。そういえば新しく買ったCDを聞き込む絶好のチャンスだと思い、おにぎりをくわえたままプレイヤーを操作する。浮き足立っている、と思わなくもない。

 一度目の休憩で馴染みのないサービスエリアに降りて、ソフトクリームを食べた。家族旅行なのだろう、父親に手を引かれた男の子が口の周りをべちゃべちゃにしながら食べているのを見ていたらうまそうに見えたのだ。太陽も上がってきていて、実際うまかった。車内は少々暑かったので、朝食のごみを捨てるついでに飲み物も買い足した。大きく伸びをすると座席で縮こまった体がほぐれるようだった。

 残り二時間を切った辺りで、景色が変わった。少し前から山と木々が続いていたが、ここに来てその合間に雪が残っているのが見えたのだ。もう彼岸も近いし最近降ったばかりではないようだったが、溶け残った白い化粧が所々に施されている。遠くへ来た実感が急に襲ってきて、しかしそれもおかしなものだと思い直す。来たのではなく、戻ったと言うのが正しいはずなのに。

 最後の休憩で覗いたサービスエリアでごみを全て捨て、身軽になる。再び走り出すと、少しして見覚えのある景色に入った。電車や新幹線で来るのとは違い、ゆっくりと、近づいている。不思議と気持ちは落ち着いてきて、僕は音楽プレイヤーを止めた。タイヤの回る規則正しい音が心地良かった。

「この度は当バスをご利用いただきましてありがとうございました……」 

 バスを降りると、昼下がりだった。その割に冷たい風が吹いていて、少ない荷物を受け取った僕はさっさと駅に向かった。寄り道する気分でもない。ホームに入ると運良く電車が止まっていたのでそのまま乗った。電車は前に乗った時と何も変わっていなかったので懐かしいばかりだ。

 三駅乗って、最寄り駅で降りる。何も変わらない景色。相変わらずこの辺りには何もない。鞄を背負い直して坂を下ると、体は自然と通り慣れた道を進んだ。

「あら、こんにちは」

 住宅街に入り、あと少しというところで顔見知りにつかまった。お隣の奥さんだ。

「ご無沙汰してます」

 昔から知っている人に出くわすのは、この歳になると気恥ずかしいものがある。自分と四つしか違わないはずだが、もうすっかり奥さん然としていた。

「今帰ったところ? 遠くからご苦労様ね」
「ええ、まあ。お彼岸なんで」
「あの子、引き取るんでしょう? 名前とか考えた?」
「いいえ、まだ。会ってから決めようと思って」
「それもそっか。かわいいわよ、すごく。お母さん似でね」

 言いながら奥さんは顔をほころばせている。たぶん、僕も同じような顔をすることになるんだろう。

「そっちは決めたんですか、名前」

 奥さんの大きなお腹を見ながらそう返すと、奥さんはもっと相好を崩した。お腹も幸せも両手にあふれている。

「うちもまだ。難しいわよね、一生のものだもの」

 季節の変わり目だから体に気をつけて、なんて挨拶をして別れて、僕は隣の我が家に入った。久し振り、とは言っても前の夏に帰ったばかりだから特に目新しいものもないし、懐かしいというほどでもない。

「ただいま」

 とはいえ、普段は一人で暮らしているから、おかえり、の返事があるだけでも新鮮ではある。

 と思っていたのに、玄関に現れた母親は口の前に人差し指を立てて一言も発しない。久方振りに帰った息子に黙れというのもあんまりな話だが、居間に入るとその理由にも頷けた。

 居間の一角にあるケージの傍に、寄り添う寝顔がふたつあった。

 僕は静かにしゃがむと、大きな方の背を撫でた。子犬の時から知っているのに、もう子どもを産むくらいになったのかと思うとより大きく見える。お隣に住むお相手の雄とは前から仲が良かったからそれは良かったと思うが、五歳なんていうのは高齢出産らしいから、きっと大変だったんだろう。ご苦労さん、と軽くたたく。

 小さい方はせわしない寝息を立てて母親にくっついている。時折鼻がぴすぴすと動いていて、寝ていてもやんちゃな感じがする。頭を撫でると耳が指をくすぐって、お腹の辺りがじんわりするような気分になった。そうだ、母親の方もこんな感じだった。確かに似ているかもしれない。名前も母親からあやかろうか、決めるのは起きてからにしよう。長い付き合いになるし、気に入ってもらえる名前をつけたい。

 大事なお子さんを一匹、お預かりしますよ。僕はまだ社会に出たばかりのひよっこで心配かけるかもしれないけど、安心できるようにがんばるから、おまえもゆっくり休むといい。

「お昼、もうできてるわよ。まだ食べてないんでしょ?」

 後ろから小さく声を掛けられて振り向くと、母親がテーブルに食事の用意をしていた。僕の好物ばかりが並んでいる。

「腹減ったあ」

 そう返事をすると、同時に腹も盛大に鳴った。







  了








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