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殺人記


 雨が降っていた。土砂降りでもなく、小雨でもない、普通の雨だ。そんな雨に降られながら、男は歩いていた。自らに、何故、と問いながら。

‐1‐

 高校の同窓会。久しぶり、変わったな、と当たり前の会話が繰り返される。十年も経てば、何も変わらない人間などいない。その中でも、一人の男は大きく変わっていた。

 高校時代はいつもクラスメートと適度な距離を置き、男女を問わない人気があった男、カワダが今は居酒屋の隅の方で一人ビールを飲んでいる。そのギャップは、十年という時間を周りの人間に感じさせずにはいられなかった。

 特に、平凡な一人の男、サカグチはショックにも似た印象を受けていた。

 高校時代、出席番号の関係でカワダと話す事が多かったサカグチは、カワダを慕っていた。互いが互いを認め合う、親友だと思っていた。

 親友といっても、サカグチはカワダの全てを知っているわけではない。カワダはよく音信不通になる男で、誰にも連絡せずにふらりとどこかへ行くことが多々あった。もちろんサカグチにも何も言わない。それでも数日後にはまたしてもふらりと戻ってきて、何事もなかったかのように学校へ来た。サカグチは、そんなカワダに憧れすら抱いていた。型破りなことができない自分に嫌気がさした頃、カワダは出掛ける。その自由気ままな、何物にも縛られないところが、サカグチには羨ましかった。

 それがどうだろう。今のカワダには生きる気力さえないように見える。今のカワダは、まるであの頃のカワダが飛び去って残された抜け殻のようだった。

 サカグチは、ビールを片手にカワダの横へ座った。

「よう……久しぶりだな」

 実際、会うのは十年振りだった。電話や手紙で連絡を取っていた時期こそあったものの、やはり音信不通のカワダに会うのは容易ではなかった。よくこの場へ彼を呼べたものだとサカグチは思っていた。

「最近、調子は?」
「まあまあ、だな。サカグチはどうなんだ?」
「こっちもまあまあってところだな。何しろ不景気だから」

 他愛もない会話の中で、サカグチは昔のカワダを探していた。

「あ、そう言えばさ、何年か前……三年くらい前かな、一度、街でおまえ見かけたんだよ」
「え?」
「ほら、駅前から東口の方に少し入った、裏通りのアパートみたいなところでさ。カワダ、あの辺りに住んでるのか?」
「……あれは……」
「……女、か?」

 カワダにこの手の話が尽きることはなかった。目鼻立ちが整っていて、自由奔放なカワダには、必ず誰かがいた。その誰かが一人でないこともよくあった。

 カワダは苦笑混じりに首を振った。

「それより……おまえ、結婚したんだな」
「ああ、これか?」

 サカグチが左手を広げる。その薬指には質素な指輪があった。

「五年前に、な。今じゃもう二人のパパだよ。連絡したかったんだけどな、どうにも繋がらなくて」
「そうか……幸せにやってるんだな」
「うん。やっぱり、子供は可愛いよ」

 サカグチが笑う。カワダはまたビールをあおった。

「おまえ、飲んでばっかりじゃないか。後でつらくなるぞ」
「大丈夫だよ。俺は酔わないから」

 カワダの目が変わる。

「……なあ、サカグチ」
「うん?」
「後で、抜けないか」
「え?」
「……二人で話したいんだ」

 カワダのその真剣な目が意外で、サカグチは戸惑った。が、断わる理由はどこにもなかったのでサカグチはカワダの誘いを受けた。

‐2‐

 カワダとサカグチは二次会を抜けて小さなバーに入っていた。客の少ない、物静かなバーである。

「それで、話って?」

 カワダの手にはウイスキーの入ったグラスがあった。サカグチの前にも同じものがあったが、飲む気はなかった。カワダはグラスに口をつけた後、口を開いた。

「おまえ、死体って見たことあるか」
「……え?」
「葬式なんかのじゃない、死んだばかりの死体だ。見たことあるか?」
「ちょっと待てよ、何の話だ?」

 構わずカワダは続けた。

「知ってるか? 死んですぐの死体はまだ温かいんだ。最初は死んだなんて信じられない。でもそのうち、冷たくなる」

 サカグチは圧倒されていた。とてもついていけないような話の内容と、それを話すカワダの真剣さに。

「なあ、サカグチ……人、殺したことあるか?」

 サカグチは自分の耳を疑った。

「……俺はあるよ。人を殺したんだ。あいつを、この手で、殺したんだ」

 サカグチは、文字の羅列がこんなにも重苦しいものになる事を知らなかった。

「何、言ってる」
「……信じられないか?」
「信じるも何も、何のつもりだよ」
「俺が、からかってるとでも思ってるのか?」
「だって……冗談だろ?」
「冗談なんかじゃないさ。俺は、本当に、殺したんだ」

 サカグチは混乱していた。もちろんそれはカワダがこういう類の悪趣味な冗談を言わない人間だとわかっているからである。

「本当にって……だったら、なんで、俺に話すんだ? そんな必要ないだろ?」

 サカグチはカワダの冷静さにいっそ腹の立つ思いだった。

「なあ、なんでだよ。答えろよ」

 カワダの口が動く。

「話したかったんだ、誰かに。聞いて欲しかった」

 今のカワダに、昔のような明るい面影は塵一つとして残っていない。

「一人じゃ、耐えられない」

 殺人云々よりも、むしろサカグチはカワダの弱さが信じられなかった。これがカワダか? これが、あのカワダなのか? そういう思いだけがサカグチの頭の中を巡る。

「……信じてくれるか?」

 カワダのその声とその目は、サカグチにとって初めて見るカワダの弱さだった。

「……わかった。信じるよ」

 殺人、という言葉に重みだけを残して、サカグチはそう言った。もちろん頭から信じられるはずがない。だが、こうでも言わないとカワダが壊れるような気がした。

 サカグチが、グラスに手を伸ばす。飲まずにはいられなかった。

「……一体、どういうことなんだ?」

 カワダもウイスキーを飲む。その手の中で氷のぶつかる音がした。

「あいつ……シズコは俺の女だった。俺みたいな馬鹿な奴の話でも真面目に聞いてくれて……いい女だった。もう、あんないい女には会えないよ」

 それらはすべて過去形だった。

「高校を卒業した後、バイト先で知り合ったんだ。コンビニの店員だったんだけど、時間帯が違かったから最初は入れ替えの時に会うだけだった。そのうち俺はまたどこかに行きたくなって、バイトやめて、適当にフラフラしてたんだ。それで……二週間くらい後かな」

 サカグチは、ただカワダの言うことを聞いていた。

「偶然会ったんだよ。街中で声かけられて、それがシズコだった。たかだか二、三ヶ月バイトであった事がある程度の俺に、声かけてきたんだ。どうして声かけたんだって聞いたら、『バイト急にやめたから気になってた』って言われて……後でまた聞いたら、『自分でもよくわからない』って言われたけど」

「どういうことだ?」

「気付いたら声かけてたんだってさ。俺も、シズコのことはよく覚えてたし……たぶん、お互い意識してたんだと思う。始めからさ」

 昔を思い出しながら話すカワダは、少し笑っていた。

「すぐ付き合い始めたよ。シズコは今まで俺のまわりにいた女とは全然違くて、純粋で、素直な奴だった。すごく繊細で……俺が守ってやるんだって思ってた」

 サカグチが頷いて相槌を打つ。

「それで?」
「シズコは……いつも不安だって言ってた。親戚が何人か精神病で逝ってて、自分もそうなるんじゃないかってよく言われたよ。俺はいつも否定してて、シズコは安心できるようになってたみたいだった。でも……おまえならわかるだろ? 俺は……やっぱり、一人になりたい時があったんだ」

 カワダはウイスキーを飲み干した。二杯目が注がれるのを見ながら、カワダが深く息をつく。

「……シズコとは、一緒に暮らしてた。籍は入れてなかったけどな。結婚も考えなかったわけじゃない。ただ、もう少しの間だけ、自由でいたかったんだ。だから、シズコと暮らし始めてからも俺はちょくちょく家を出てふらふらしてたんだ。それが、シズコの負担になるなんて考えもしなかった」

 苦渋に満ちた顔で、カワダがウイスキーをあおる。

「睡眠薬を飲んで、病院に運ばれたよ。自殺未遂だった。俺が病院に行ったら、シズコはぐったりしてた。話しかけても答えないで……おかしかったんだ。もう、シズコじゃ、なかった」

 カワダは明らかに辛そうだった。しかし、慙愧の念からか話を止めようとはしなかった。

「シズコの不安が、的中したんだ」
「精神病ってことか」
「ああ。俺のせいでそうなった。俺がもっとちゃんとしてれば良かったんだ」

 カワダのグラスが空になる。サカグチもグラスに口をつけた。

「医者に治るのかと聞いたら、期待できないと言われた。でも俺は諦める気はなかった。いつか治って、前のシズコに戻るって、そうでも考えないとやってられなかった。でも……駄目だったよ」

 三杯目を、カワダは一気に飲み干した。

「シズコが苦しいって叫んでも、俺は抱き締めてやることくらいしかできなかった。あいつ、泣くんだ。殺してって、俺に頼むんだ。シズコはよく言ってた。おかしくなって死ぬくらいなら、俺に殺されるのがいいって……本気だなんて思ってなかったけどな。泣きながら、何回も何回も、死にたい、殺してって……」
「おまえ……まさか……」

 サカグチはカワダとよく似た、しかし全く違う目でカワダを見た。

「……首を、絞めた。この手で、思い切り……」

 カワダは自分の手を見た。まるで汚れきったものを見るような目で、愛する者に決断を下した手をじっと見た。

「あいつ、笑ってた。声なんか出っこないのにな、ありがとうありがとうって口動かして……」

 カワダの頬を、涙が伝う。カワダは、それを覆い隠すように両手を顔に当てた。

「……愛してた……本当に…俺は、シズコを愛してたんだ……愛してたんだよ……」

 悲痛な叫びを聞きながら、サカグチはグラスを見つめた。カワダにかける言葉は、見つからなかった。



 帰ろうと言い出したのはカワダだった。二人でバーを出る。静かだった。

「……やっぱり、来て良かったよ」
「え?」
「同窓会。おまえに会えた」

 涙の止まったカワダが、小さく笑った。話を聞くだけでカワダを救えるとは思っていないが、カワダが笑ったことでサカグチは密かにほっとした。

「……カワダ、大丈夫か?」

 再び、カワダが微笑む。

「今日は、ありがとな」
「いや……」

 サカグチ自身はあまり役に立てたようには思えなかった。だから、礼を言われても釈然としない気持ちが残るだけだった。

「本当に、ありがとう」

 カワダはそう言ってサカグチを見た。真っ直ぐな、揺るぎ無い目だった。

「それじゃあな」

 カワダはサカグチに背を向け、歩き出した。

「あ……カワダ!」

 カワダが振り向く。 「あの……また、飲もうぜ。おまえと酒飲んだの、今日が初めてだったしさ」

 何故カワダを引き止めたのか、サカグチはよくわかっていなかった。

 カワダが笑う。

「……機会があったら、な」

 それが、最期だった。

‐3‐

 呼び鈴が鳴った。男の妻が玄関へ走る。その足音は、すぐに男の元へ戻ってきた。

「あなた、あの……警察だって人が……」

 予想だにしなかった言葉が妻の口から出てきて、男は驚いた。膝の上から娘を降ろし、玄関へ向かう。そこには、見知らぬ男が二人立っていた。

「坂口雅信さんですね?」
「え、ええ。そうですが……」

 坂口の前に、黒い警察手帳が出される。

「我々は警察の者です。……河田孝介という男をご存知だと思うのですが」

 河田孝介。もちろんあのカワダである。河田と警察。坂口に緊張が走る。

「……友人です」

 坂口はそうとだけ答えた。

「実は先日、河田さんが亡くなられまして……」

 坂口は聞き返す事もできなかった。言われていることの意味がわからなかった。

「その事で少々お話をお聞かせ願いたいのですが、お時間よろしいでしょうか」

 坂口は固まっている。

「坂口さん?」
「あ……すみません。少し……驚いてしまって……」

 少しではなかった。その思考回路が正常に働かなくなるほどだった。

「あの……河田が死んだって……本当、なんですか?」
「ええ」
「何が、あったんですか?」

 坂口の鼓動が早まる。

「……我々は、自殺と見ています」

 おそらくは、事故と言われても殺人と言われても坂口は驚いただろう。しかし、自殺はその中でも坂口に一番衝撃を与える答えだった。

「自宅のアパートで首を吊っているのを、管理人が発見しました。遺書も見つかっています」
「遺書……」

 非日常的な空気が流れる。坂口の娘は、母親の腕の中で眠っていた。

「……すみません、刑事さん。場所を、変えて頂けませんか」

 坂口の声が、静かに流れる。

「河田の家へ、連れて行ってもらいたいんです。私が知っていることは……全てお話ししますから」

 刑事は坂口の言った条件をのんで、その頼みを承諾した。



 坂口は、三年前に河田を見かけたアパートに到着していた。河田の部屋の様子は、皮肉にも河田が旅に出た時の様子によく似ていた。

「……刑事さん」

 坂口が、部屋中に巡らせていた視線を止めて言った。

「遺書を、見せて頂けませんか」
「それは……」
「……大体、わかります。シズコさんのことでしょう」

 刑事から二つ折りになった便箋を受け取った坂口は、何も言わずに文字を追った。

 内容は、坂口が考えていたものとほとんど同じだった。三年前同棲していた恋人を殺したこと、それを隠し続けたことに対する謝罪、それらの事実が淡々と綴られた遺書。ただ、最後の言葉が坂口を絞めつけた。

 まだ心があるうちに、静子のもとへ。

 言葉としては坂口の想像を超えるようなものではなかった。しかし、現存するものとなった時、その言葉の持つ重みは一気に増える。

「……ありがとうございます」

 遺書が、坂口の手から刑事の手へと渡される。重い溜息をもらすと、坂口はその目を固くつぶった。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 雨が降っていた。土砂降りでもなく、小雨でもない、普通の雨だ。そんな雨に降られながら、男は歩いていた。自らに、何故救えなかったと問いながら。

 彼は、三年前にも同じことを思いながら同じように歩いていた男がいたことを、知らない。







  了








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