return to contents...


海の手触り


 昨夜の雨がアスファルトの上に薄い水溜まりを残していて、全力で駆ける脚がそこに踏み込むと、跳ね上がった水玉が中空で弾けた。まだ海には届かない。カイは更に脚に力を込めた。その目に迷いはない。ただ一心に前を見据え、焦燥感に抗っている。

 海を、あの海をカオリに届けなくてはならない。それは使命だ。何よりも優先すべき、自らに課した使命。

 今朝、カオリは食事をとるために体を起こしたところで倒れた。馴染みの病院に運ばれ、それからまだ目覚めてはいない。海を運べばカオリは戻ってくるのだとカイは信じてやまなかった。たとえそれが間違いだとしても、せめて、海が傍にあった頃のことをカオリに思い出させなくてはならない。

 水平線を臨める高台の家で、カオリはいつも嘆いていた。体が弱く、日がな一日家で大人しく過ごす退屈と孤独に飲まれ、己の体を呪っていた。こんな体は捨ててしまえれば楽になるのにと、ひとりで膝を抱えていた。

 昔、本当に小さな頃、海の傍に住んでいたのだとカオリは語った。泳いだこともあると。潮の匂い、波の音、揺れる水面の眩しさ、浜辺を素足で歩いた時の感触。海に行けば、元気だった頃を思い出せるような気がする。そこまで言うと、カオリは蒼白い頬を押さえてうつむいた。今のカオリには、海まで出向くことすら叶わなかった。

 白いベッドに横たわるカオリは、カイが触れても応えはしない。気付けば、カイは海に駆け出していた。何も持っていなかったカイは初めて失うことへの恐怖を知った。

 ただひたすらに、闇雲に、カイは走る。カオリの隣で海を見て日々を過ごしていたが、カイが実際に海へ行ったことはなかった。どれだけ遠くにあるのかすら知らない。信号待ちで停車するバイクの横を駆け抜け、子どもたちの遊ぶ公園を突っ切り、真っ直ぐに海だけを目指す。爪が食い込まんばかりに地面を蹴り続け、巻き上げる砂埃が風に散って脚を汚す。曲がり角でも速度を緩めず、その身を塀にかすらせながら突き進む。息遣いが耳にうるさい。その中に聞き慣れない音、潮騒を聞きつけ、カイは更に気を急いた。息が切れて肺が軋もうと気にはならなかった。ただ考えの及ばないどこかで、自分が戻る前にカオリが呼吸すらも止めてしまうことを恐れていた。

 風がはらむ潮気が強い。海はもうすぐ近いとわかったが、高い石垣が前を阻む。いっそ突き破りたい衝動を抑え、身を翻して迂回に走る。その瞬間、車道へ乗り出してしまったからだが自動車にかすった。高いクラクションが耳を劈く。かろうじて轢かれはしなかったので、カイは踏み止まり、振り向きもせずに走り続けた。

 石垣の端が見え、全速力のまま踏み込むと、途端に視界が開けてカイは怯んだ。初めて見る砂浜が目の前に広がり、地面が終わったその先には揺らぐ水面が果てしなく続いている。それは恐ろしく広大で、うねる波は弾ける度にカイの胸を鷲掴みにした。

 鼻を刺す潮の匂い、波の割れる音は耳を打ち、時折砂浜を洗う高波は自分やカオリなど跡形もなく飲み込んでしまえるだろう。吠え出したくなる気持ちを、カイは必死に抑えた。自分が恐れていることを認めてしまってはならない。何のためにここへ来たのか、見失ってはならない。

 カイは浜辺を駆け出した。海を持ち帰る。カオリを戻すために。カオリの目を覚ますために。

 見つけたのは口の細い一本の透明な瓶だった。蓋はなく、波打ち際で揺られて、中で海水と砂が混ざり合っている。迷いはなかった。カイはその瓶を取り、帰路を駆け出した。カオリが待っている、そう思えば疲れなど忘れることができた。どこまででも走れるだろう、カオリが、待っていてくれるのなら。

 海へ向かう時よりも病院へ戻る時の方が神経を使った。瓶を落としてしまえばそれで全てが終わってしまいそうで、またそれを恐れれば重い泥にはまって脚が鈍りそうで、カイは無心に前だけを目指した。カオリの元へ戻る。海を持って。それ以外に何もいらない。

 日は既に傾き、赤く燃える空がカイの背中をなめていた。

 カイが病院に着くと、外灯が閉じた扉を照らしていた。そう大きな病院ではない、外からでもカオリがどこにいるかはわかる。カイは敷地内へ入り、真っ直ぐにカオリの眠る病室を目指した。

 明かりのもれる窓から中を覗くと、ベッドに横たわるカオリと、そのすぐ傍に椅子に腰掛ける男が見えた。男はカオリの寝顔を見つめていたが、すぐに窓の外のカイに気づき、席を立った。カイの知っている男だった。男に窓を開けてもらい、カイはそこから病室へ入った。

 カオリは依然、目を覚まさない。微かに胸を上下させ、静かに眠っている。男はカオリの手を取り、カイに差し出した。白くて細い指、頬を撫でるその温かさをカイは思い出す。優しくて穏やかな手付き。誰に対する時でも顔に影を差していたカオリは、カイの前でだけ、晴れやかに笑った。あなたの前でだけ素直になれるの、と。病気のことで八つ当たりしてばかりでちっとも可愛くない私のことなんて、誰も求めていないもの。あの海に沈んで、いなくなってしまえればいいのに。そう言って水平線を見つめていたカオリ。カイはどんな慰めの言葉をかけることもできず、ただ身を寄せて、役立たずな己を呪った。

 瓶が傾けられ、海がカオリの手に降り注ぐ。カイはカオリがひとりではないことを知っていた。カオリが海を求めていることを知っている人がカオリの傍にいるということを知っていた。一緒に住む家族も、足繁く通ってくれる友人も、カオリに手を差し伸べている。それを、カオリは知らなくてはならない。自分を救ってくれたように、カオリもまた救われなくてはならない。

 そう強く思うあまり瓶に込める力が滑ったのか、海水を半ば残した瓶は落ちた。床にぶつかり、高く鋭い音を響かせ、病室に潮の匂いが広がる。散らばったガラス片に映る自分に、カイは気を取られた。カオリが綺麗だと褒めてくれる、色の薄い目。初めてカイの目を見たカオリは、海の色をしていると言った。その頃のカイの姿はみすぼらしいものだったが、カオリは構わずカイに触れた。カイはその時の手の温かさを忘れることはないだろう。カオリが付けてくれた海という名を誇るのと同じ強さでそう思っている。きっと、この先何があろうとカオリへの思いが揺らぐことはない。

 耳に触れるくすぐったさに、カイは顔を上げた。目の前にあるカオリの手が、微かに、動いている。カイは思わず鼻先を寄せた。カオリの手は、確かに動いている。ゆっくりとだが確実に、カイを撫でている。カオリの瞼が揺れ、緩慢な動きで瞳に光をたたえていくさまを、すぐ隣に立つ男の顔が物語っていた。

「……むかし」

 カオリがかすれた声を上げた。それは鈴の音のようにカイの耳をくすぐった。おそらく、男の耳も。

「ふたりで、砂浜で、かけっこしたことあったよね?」

 カイの目の高さからではカオリの顔は窺えない。それでもきっと笑っているのだろうとわかった。男がシーツをきつく握り締め、何度も頷いているのが見える。

「カオリ」

 嗚呼、自分もそんなふうに彼女の名を呼ぶことができたら。

 それでも、いい。カオリはもっと自分が大切に思われていることを知るべきで、自分にはそれを言葉で伝えることはできないから。だから、この手の温もりがあればそれでいい。それだけで、充分に生きていける。

 いつかこのふたりと一緒にあの潮風を浴びられたら。その時はきっと、自分の気持ちを抑え切れずに思い切り吠えてしまうのだろう。その横で彼に支えられ、カオリが笑ってくれたら。それ以上に望むものはない。

 カオリの匂いに鼻を鳴らし、喜びに尻尾を揺らしながら、カイはそう思った。







  了








return to contents...