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Hungry noteそのバーには、ピアノ目当てで通っていた。とは言っても出すものの味が悪いとか、サービスがなっていないとか、雰囲気が合わないとかそういった理由はない。ただ、その店で聴くことのできるピアノが極上だったというだけの話だ。 仕事の終わった金曜日の夜、ハイヒールに疲れた足を踊らせてバー『ドゥエンデ』へと向かうのが私の習慣だった。毎週のように通る道はすっかり馴染んでいて、一歩進むごとに店の姿が頭の中にくっきりと浮かんでくる。ひっそりとある入口を抜ければそこはもう別の世界で、ほんの少し落とされた明かりにグラスの輝きが映えている。淡い酒気に包まれて席に着くと、羽毛のような音楽がそこにある。それはさながら樹木の香気のように私に染み込み馴染むのだ。この店の音楽に惚れ込んでいる客は少なくない。テーブル席の多い、どちらかといえば大衆的な雰囲気の店だと思うが、それでも店内に雑音はほとんどないのだから。 私は店の奥まったところにある小さな二人掛けのテーブル席を定位置にしていた。何度か通ううちに、そこが一番落ち着いてピアノに浸れるとわかったからだった。その日も私はいつもの席に着き、最初の一杯と決めているジン・トニックを片手に、ピアノと弦楽の織り成す妙なる調べに耳を傾けていた。聞き惚れるあまり、手の内のジン・トニックはなかなか減らない。一曲を弾き終えたピアノが静まり、私は思い出したようにグラスを傾けた。氷が溶け、少し薄くなってしまっている。デコレーションのライムを絞って皮を脇に置き、マドラーを回すと、澄んだ香りが鼻孔をくすぐった。ジン・トニックのいいところは、少しくらい薄まっても美味しく飲めることだった。 休憩に入るのか、ピアノ弾きは椅子を立ってカウンターの方へ向いた。初めて正面から見た顔はさっぱりと整っていて、珍しいほど美人な男性だと思わされた。 ひょっとしたら私は、その顔にも見惚れてしまったのかもしれない。 彼が私の席のすぐ横を過ぎる時、足元に立てていた鞄が外に出過ぎていたことに気付かなかった。当然、彼の爪先は鞄に引っ掛かった。 「あっ、ごめんなさい」 反射的にそう言い、私はかがんで鞄を直した。履き慣らされ、よく磨かれたピアノ弾きの靴が目に残った。 落ちた髪を耳に掻き上げながら体を起こすと、ピアノ弾きの漆黒の目が私を向いて見開かれていた。 「……どうかしました?」 ちょっと心配になってしまうくらい、彼は顔色をなくしていた。 「あの、大丈夫ですか?」 彼はそこで意識を取り戻し、はっとしたまま何度も瞬いた。驚きと入れ替わりに顔を出したのは、悲愴だとも言えるほどの、沈んだ目の色だった。 「……すみません」 そう言ってうつむき、こっそりと深呼吸をする。それは溜め息だったかもしれない。再び顔を上げた時、彼は笑顔を作っていた。 「あなたの声が、知り合いの声に、よく似ていたものだから」 苦笑を浮かべる彼の顔色はまだ青褪めていて、私は曖昧に頷くことしかできなかった。 「……いつも、その席に座ってらっしゃいますよね」 驚くべきことに、彼は私を見覚えていた。 「ええ、そうですね。最近はいつも、この席です。よく覚えてらっしゃいますね、こんなにお客さんがいるのに」 「あなたは、特徴的だから」 首を傾げて応えると、彼は小さく笑った。 「いつも、オーダーを頼んでから手をつけるまでが長いでしょう。癖のようなものなのかもしれないけれど」 私は少しの恥ずかしさを覚え、わけもなくマドラーを回した。 「……音楽に、聞き惚れてしまうんです。それで、いつも飲むのを忘れちゃって」 ピアノに、と限定するには恥ずかしさが邪魔をしていた。 「……もし良ければ、一緒に飲みませんか」 とはいえ、とっさにそう誘うくらいだから、私の慎ましさなんてたかが知れているのかもしれない。 「ええ、喜んで」 彼はそう答えて、一番の笑顔を見せた。それでもやはり、それはどこかしら陰影を帯びていた。 弦楽だけの演奏が始まり、私の席の向かいに彼は腰を下ろした。 「エル・ディアブロ、お願いします」 ウェイターにそう声をかけ、テーブルの上で手を組む。細い指が長く伸び、この一本一本があの音楽を紡ぎ出すのだと思うと何やら感動するような思いだった。 「いつもお一人ですよね。このお店は気に入って貰えていますか」 「ええ、とても。メニューも、音楽も」 「それは何よりです。ここのマスターは無愛想だから、誤解されていやしないかと心配で」 人懐こい笑顔だった。程無くして一杯のカクテルが運ばれてきて、そのタンブラーは彼の前に置かれた。 「そのカクテルは、初めて見ます。ええと、エル……?」 「エル・ディアブロ。悪魔、という意味の名前です」 言われてみれば、その色は血のように赤い。 「少し、怖い名前なんですね」 「僕はよく飲みますけど、味はさっぱりしたものですよ」 「じゃあ、次に来た時はそれを頼んでみます」 彼は薄らと笑うとタンブラーを傾け、深紅のカクテルを一口含んだ。 「マスターが誤解されていないかって、どういう意味です? 確かに、無愛想だけれど」 「ほら、彼は強面でしょう? 体付きもごついし、滅多に笑わない。けど、僕はあんなに懐が深くて気の利く人を知りません。カウンターで飲むと、きっとよくわかりますよ」 そこで彼はカウンターの方へちらと目をやった。つられて私もそちらを見ると、マスターは煙草をつける客の前に灰皿を差し出しているところだった。 「それでも、例えば恋人の男性に連れられて来た若い女性なんかにありがちなんですが、恐い恐いと言って話題にしてしまうんですよ。ヤクザなんじゃないか、とかね。そんな理由で足を向けなくなるには、もったいないくらいの店だと思うものですから」 「なんとなく、わかります。そういうことを言っている人、見たことがあるわ」 そういうような客は、元よりこの店に足を運ぶべきでないのかもしれない。私がそう言うと、彼はかぶりを振った。 「通ってもらえれば、きっと良さがわかりますよ。……なんて、これじゃ宣伝ですね」 「いえ、そんな。それだけこのお店が気に入ってらっしゃるんでしょう?」 「……そうですね。このお店は、来る人を誰も拒まないから」 そう言って伏せられた目は、いくらかの陰りを帯びていた。さっきの目に似ている。彼は笑う時、いつも同時に泣きそうになるようだった。それははっとするほど優美だった。 「何か、あったんですか?」 言ってから、なんて不躾な問い掛けだと思った。彼は切れ長な目を私に向け、大きくしていた。 「ごめんなさい、気にしないで。何聞いてるのかしら、私」 酔っているのかもしれないと言い訳をするには、手元のタンブラーはあまりに満ち足りていた。私は透き通ったカクテルをあおった。 「……聞いてもらえますか?」 ごく、と喉が鳴った。 「少し、変わった話ですけど」 タンブラーを下ろして彼の様子を窺う。その目を見ると、とても断わる気にはなれなかった。彼はやはり、静かに笑っていた。頷いて答えると、彼はエル・ディアブロをもう一口飲んだ。すぐ近くから聞こえる弦楽は、柔らかい曲調に変わっていた。 「――僕は、悪魔なんです」 セロの音とその声は、楽譜に書かれていたように美しく重なった。 きょとんとする私を意にも介さず、彼は続けた。 「僕は、正確には、人じゃない。それでもマスターは僕を働かせてくれる。いい音楽が弾けるならそれでいい、と言ってね。だからここは、僕にとって、とても居心地の良い場所なんですよ。ここ以外に僕の居場所はないんです」 どうやって返事をしたものか、私は言葉に詰まってしまった。彼はというとエル・ディアブロに目を落としたまま、その色に見惚れるように言葉を止めていた。 「……こんなに人の良さそうな悪魔なんて、聞いたことがないわ」 「だから、追い出されたんですよ。悪魔失格だってね」 「……はあ」 私の気のない答えはそのまま彼に伝わったらしく、苦笑するように、小さく吹き出した。 「信じられませんか」 「いえ、あの」 「いきなり信じると言う人よりも、信用できますよ」 しどろもどろになる私を横目に、彼は微笑んだままでグラスに口をつけた。動じた様子は全くない。むしろ飄々とした態度に、私はとりあえず安心することにした。 「……じゃあ、あなたのピアノが素敵なのは、悪魔だから?」 「そう、ですね。綺麗なものを作るのは悪魔の十八番ですから……自分で言うのも、何ですけど」 そう言うと彼は、やはり気の良いはにかみを浮かべた。整った曲線を描いた唇の隙間に、真っ白い歯が覗く。 「……わからなくは、ないかも」 確かに、彼の紡ぎ出す音楽であるとか雰囲気といったものは、悪魔的であると言えるかもしれない。それほど、惹きつける何かがあった。ほんのわずかの乱れもない髪の黒さも、吸い込まれそうに深い目の色も、囁かれる涼やかな声も、美しく切り揃えられた爪も、至上の音楽を織り成す指も、もちろん生み出される音楽の一つ一つの響きまでも、全てに引力があるのだ。 「あなたのピアノは、本当に綺麗だから」 私の答えに、彼は殊更明るく笑ってみせた。 「人の話をあまり簡単に信じると、悪いことが起きるかもしれませんよ」 「え?」 「正直な人は信用できるけれど、その分利用されやすかったりもする。だから、ええと、気を付けてください」 ウェイターを呼んで空のグラスを預けると、彼はそそくさと席を立った。 「とりあえず、店のメニューは保証します。これからも、ご贔屓に」 そのまま折目正しく頭を下げると、彼は元いた場所に向かって歩き出した。 私は氷の溶け切ったジン・トニックを抱えて、その姿を見送るだけだった。席を立った時には既にピアノ弾きの顔に戻っていた彼は、彼だけの指定席に着いて演奏を再開した。相変わらずの出来過ぎた演奏は、一種の自己防衛なのかもしれない、と漠然と思った。悪魔の皮をかぶった振りをするピアノ弾きはいつものように、あくまでもいつものように、ピアノを弾き続けた。 耐え切れず、私は押し殺した声で吹き出した。彼の横顔が、不自然に歪んでいたからだ。どうやら彼は嘘を吐くのが下手らしい。隠し切れない照れた表情は、私の席からも見て取れた。 私はまんまと、彼に対する興味を深めてしまっていた。 それから、演奏に一区切りついた彼に声を掛けるのが私の新しい習慣になった。いつになっても彼は私の呼び掛けに慣れることはなく、笑顔に重なって驚きが滲んで見えた。そのうちに驚きはすっかりごまかされ、笑顔だけが残った。彼の笑顔は、やはり整然としていた。 三度目に一緒に飲んだ時に、私は初めてのカクテルを頼んだ。 「ああ、シルバー・ブリットですか……」 彼は長い睫毛を伏せて、少しだけ困った顔をした。私は手元にある白銀のカクテルから目を離して彼を見た。 「シルバー・ブリット、駄目ですか?」 「いえ、そんな。……ただ、ちょっと、苦手なんですよ。銀の弾丸は魔を祓うから」 彼が言うには、吸血鬼を退治する時に銀の弾丸を使う国があるということだった。銀自体に浄化の力があるとされているらしい。 「まあ、僕は吸血鬼とは違うんですけど」 「悪魔にも、苦手なものがあるんですね」 「もちろんですよ。お腹が空けば、悪魔も死にます」 彼の話に付き合うのは、慣れてしまえば楽しいものだった。彼の口からは淀みなく応えが出されるし、物語として良く出来ていた。 「悪魔も人間と同じものを食べるんですか? お酒は飲むようだけれど」 「いえ、僕は音楽を食べるんです。他のものを食べたり飲んだりしても、お腹は膨れないんですよ」 「音楽……だから、ピアノを?」 「それもあります。雑音も食べられるけれど、ほとんど食事にはならないから。自分で食べるものを作れば、手っ取り早いでしょう?」 「あのピアノなら、美味しい食事になりそうですね」 私たちの会話の間には、いつも弦楽の揺らめきがあった。優しくたゆたう音は耳を心地良くくすぐって、私の口を軽快にした。 「カクテルに詳しいのは、やっぱり、こういうところで仕事をしているから?」 「とも、限らないですね。悪魔は細部にひそむなんて言いますけど、僕も細かいことが気になる性質なもので……カクテルのことは、マスターに聞くんです。あの人は、お酒のことで知らないことはないから」 「じゃあ、そのカクテルの由来は聞きました? 有名なカクテルですけど」 彼はいつものエル・ディアブロではなくマルガリータを飲んでいた。塩で縁をスノー・スタイルにしたグラスの中には私のカクテルに似た純白のカクテルが満たされていて、彼の目がそれを見つめた時、不意に私は自分の口軽を恨んだ。 「恋人の、名前ですね」 彼はそれ以上は言わなかった。初めて私を見た時の、あの目だった。 しかしそのことについて深く聞き出すには、彼の笑顔の防壁が邪魔をしていた。彼は嘘を吐くのは下手だが、嘘に触れさせないようにすることにかけては天才的だった。 「今、新しい曲を考えているんです。近いうちに、ここで弾けそうですよ」 テーブルの上で、彼の指が踊った。 「美味しい曲になりそうです」 彼の手にかかれば指でテーブルを弾く音さえも音楽になり得たが、それは私の内側に細波を立てるばかりだった。 「楽しみにしてます」 かろうじて、笑って応えることができた。彼はもうすっかり笑顔を取り戻していた。それを救いに、私は唇に寄せたカクテルグラスを傾けた。シルバー・ブリットは、私には少し強過ぎた。 「……実は、このお店を見つけたきっかけが、ピアノなんです」 そんな告白をしたのは、七度目に彼と席を共にした時のことだった。その時は、少し酔っていた覚えがある。だからこそこんなことが言えたのだった。 「仕事の帰りに、偶然このお店の外を通りかかって。その時はお店があることにも気付いていなかったんですけど、微かにピアノの音が漏れ聞こえたんです。それに誘われて、ふらりと入ったのが始まり」 「光栄ですね。少し、照れますけど」 その日もタンブラーは紅をたたえ、弦楽は柔らかく澄み渡っていた。 「でも、本当に、何て言うか、救われる思いだったんです。あの頃は仕事にも打ち込めなくて、何だかまいっていて……それでも、このお店で過ごして、さっぱりしたような気持ちになれたから」 「お役に立てたなら、良かった」 グラスの氷を微かに鳴らして、彼はそう呟いた。その声ははっとするほど冴えていて、私の内側を騒がせた。 「悪魔に救われるなんて、おかしな話ですけどね。……僕が救いたいのは、誰よりも僕自身ですから」 ひょっとしたら、彼も酔っていたのかもしれない。エル・ディアブロはまだ残っていたけれど、彼はさほどアルコールに強い性質ではなかった。酔っていないにしても、その日の彼はどこか浮世離れして見えた。 「僕がピアノを弾くのは、自分のためです。自分の音楽を食べるのが、一番良いんです。あらゆる意味でね。……でも、もしそんな僕のピアノで、誰かに何かを与えられるなら……もしそんなことができたなら、それ以上に嬉しいことなんて、きっと何もないんですよ」 そして彼は、こう続けた。 「もう、奪うのは、嫌です」 それはもう何度目になるかわからなかった。彼はいつだって不意にこの目をする。私は必死に自分の内を探って、吟味して、その目の色を拭える言葉を見つけ出そうとした。 「……少なくとも、私は救われました」 しかしどうしても、私が口にできるのは不器用な羅列ばかりだった。 「誰だって救われたいし、救いたい。私はそう思います。きっと、みんなそうです。……あなたのピアノには、本当に、救われたんです。私は本当に、あなたに救われたんです。だから……だから……」 それ以上、私の言葉は続かなかった。私の声は喉でつかえていたし、それを止める声があったから。 「ありがとう」 ごく優しい、静かな声だった。 私は、あなたを救いたいんです。 肝心な言葉は、いつも声にならない。彼との距離が縮まるほど、言葉を重ねるほど、本当は彼がとても遠くにいることに気付かされるような思いだった。 幾度彼と一緒に飲んだかもわからなくなったある日、私は取り戻した笑顔で彼の演奏を聞いていた。日が経てば取り戻せるものは、いくらでもある。特に私は彼から笑顔の作り方を学び取っていたから、平静にしていればそれは造作もなかった。喜ばしいことだとは思わないけれど、今は、それでいいと思った。彼に踏み込むのは、私にはまだ難しい。何より、彼がそれを望んでいないようにも思えた。 そして彼のピアノは、やはり私を癒してくれた。とても深いところに染み込んで、揺さ振って、純化して、汚れたものを洗い流してくれる。それは丁度、涙を流す時に似ていた。こんな力のある彼を、私は心から羨ましく思った。 「お疲れ様です」 特等席で彼を迎える時は、いつもそんな言葉を使った。 ところがその日の彼は、私の顔を見下ろして、立ったまま尋ねた。 「……喉、どうかしましたか?」 その声色は、顔色と同様に蒼白だった。 「いえ、別に……」 そう答えようとすると、咳に阻まれた。軽い、乾いた咳だった。一度出た咳は何度か連鎖して、どうにか落ち着くと喉に違和感が残っていた。 「風邪、ひいちゃったかもしれない」 苦笑して顔を戻すと、彼は青褪めた顔のままで立ち尽くしていた。いつも見られるような笑みは、完全に失われていた。いや、本当は、彼は私の前で笑ったことなどなかったのかもしれない。そう思わせるほどの欠落が、ぽっかりと浮かんでいた。 「あの、私、少し喉の調子が悪いだけで……」 言葉を続けようとする私を、彼は手で制した。 「喋らないで」 今までに聞いたことのない、かすれた声だった。もっとも、私の声の方がひどかったかもしれないが。 ゆっくりと席に着くと、彼は何もない中空を見つめて黙った。普段通りに響く弦楽が、妙に空々しく聞こえた。 彼はウェイターに、何の注文もしなかった。 「……昔話を、聞いてもらえますか」 私はやはり、拒むことはできなかった。彼の目は相変わらず暗く、それでいて私をしかと見据えている。逃げることなく、覚悟さえ携えて。私は目を離すことすらできず、黙って頷いた。 「僕が唯一愛した女性がいました」 私を見つめたまま、彼はそう言った。 「彼女の声はとても美しくて、どんな音楽も適わなかった。僕は彼女を求めたし、彼女も僕を求めてくれました。親しくなるのに、時間は必要じゃない。僕らはすぐに、一緒に過ごすようになったんです」 私の手の中にはいつものタンブラーがあったけれど、音も立てずにただそこにあるだけだった。 「彼女は僕のピアノを誉めてくれました。悪魔だって話もしたけれど、笑っていただけだった。だからピアノが上手なんだ、なんて言って。……いつか、あなたにも、そんなことを言われましたね。あの時は、本当に驚いた」 ようやく彼は少し笑ったが、それは陰を浮き彫りにするだけで、決して明るさを取り戻させはしなかった。私と彼の間で明るいものは、ジン・トニックの泡だけだった。弦楽さえも哀れを誘う調べを奏でていた。 「そして、彼女も咳をするようになりました。彼女はただの風邪だと笑っていたけれど、そうでないことはわかっていたんです。咳が出る以外には何もなかったし、咳だけはいつまでも治らなかったから。それでも僕らが一緒にいることに、変わりはなかった。理由に、気付いていなかったんです」 うつむきがちだった彼の顔が上がる。 「僕が悪魔だという話、覚えていますか? 僕が、音楽を食べる悪魔だという話です」 私は自分の鼓動が次第に重くなるのを感じていた。一体彼は何の話をしようというのだろう。悪魔なんて、こんな真剣な空気の中で出す話題じゃない。彼は察し良く私の顔を見て苦笑したが、話を止めるつもりはないようだった。 「……僕らは一緒に過ごすうちに、本当に、親しくなりました。二人でなら、何だってできました。どんな時も彼女の声は美しくて、悪魔の僕が嫉妬するくらい、嫉妬を通り越して感嘆するくらいだったんですよ。そしてそれは、声だけじゃなかった。鼓動も、息遣いも、全てが音楽だったんです。極上の、ね」 かつて聞いた音楽を内に呼び起こしたのか、彼は今日初めての笑顔を浮かべた。今日だけじゃない、今までで初めての、本当の笑顔だった。しかしそれはすぐに、一瞬で消えてしまった。笑みを塗り潰したのは、あの悲愴だった。 「そして何度目かの口付けを交わした時、彼女は倒れて、二度と起きることはありませんでした」 彼の微かな溜め息が、深く大きく聞こえた。結末を迎えたらしい物語は、私の気持ちをわだかまらせるだけだった。行き場を失った不審が胸の奥で飛び出す機会を窺っている。黙ったまま視線だけで反抗していた私に、彼は告げた。 「少し、喋ってもらえますか」 「……喋って、いいんですか」 「疑問があれば、何でも」 幾分いつもの表情を覗かせ、彼が言う。私の喉の違和感は、既に消えていた。 「疑問なんて、どこから聞いていいのかわかりません。悪魔とか、音楽を食べるとか、そんな話を今して、一体どうす……」 そこで彼は、大きく、息を吸い込んだ。途端に私の声は喉から消え、咳だけが吐き出された。咳はなかなか止まらず、さっきよりも苦しいくらいだった。 「……こんな試し方、すべきではないんですがね」 上げた顔が怪訝な表情になっていることは、自分でもわかった。彼に投げ掛けたい言葉はいくつもあったが、どうやっても私の声は出ないのだ。そのうちに咳さえ出なくなり、私は沈黙した。 「あなたの声は戻ります。僕が、食べさえしなければ」 そう言う彼は、ごく真剣に私を見ていた。その清閑さに、私は総毛立つ思いだった。 「……全部、本当の話だって言うんですか」 無理矢理に絞り出した私のひび割れた声に、彼は眉をひそめた。 「信じられませんか」 以前にも聞かれたその問いは、全く異なる響きで私の中に広がった。問いの答えは、何よりも私の声が明らかにしていた。 「普段は人前じゃ食べません。人の声を食べるなんて、絶対にしない。どうなるかは、わかったでしょう? 僕も知っているから、しないように努めているんです。……それでも、抑えられない時がある。自分ではどうしようもないところで、食べてしまうんです。とても、簡単に」 弦楽は曲調を変えていた。物静かで単調な背景音に、彼の声が重なる。 「……いつだって、奪おうなんて考えやしなかった」 その声は、やはり恐ろしいほど音楽だった。 「でも、僕は、奪ってしまった。僕が、彼女の全てを食べてしまったから」 彼の目が、両手に落ちる。最愛の人の最期を看取った手に。その手で、彼は、どんな音楽を紡ごうとしていたのだろう。 私は、思い知っていた。前に彼がマルガリータを飲んでいた時に、その名の由来を話した時のことを思い出していた。彼は決して「亡くした恋人の名」とは言わなかった。 言えなかったのだ。 私は彼のことを、これっぽっちもわかってなんかいなかったのだ。 「……あなたの声は、彼女に似過ぎている」 彼はそう呟くと、席を立った。止めようとする私の言葉は声にならなかった。 「あなたは、僕といちゃ、いけない」 伸ばした私の指をすり抜けた彼は席から離れ、ピアノへと戻っていった。弦楽の奏者たちと目配せを交わすこともなく、ピアノは鳴り始めた。今までに聞いたことのない、聞く人の胸を潰すような曲だった。剥き出しの悲傷が哀音となって店内に満ち、氷の溶ける音や椅子を引く音さえその彩りに聞こえてしまう。 そしてその演奏は唐突に止んだ。弦楽の奏者たちがピアノ弾きに目をやっている。見ると彼は思い詰めた表情で己の両手に目を落としていた。つい先程そうやったように手を見据え、睨み、そしてきつく目を閉じた。 その手で、ピアノの蓋が閉められた。訪れた静寂は、胃から体中を痛め付けるようだった。 私は、ピアノの鳴らないバーから逃げ出した。 一晩明けると、喉の調子はいくらかましになっていた。とはいえその声を聞くと気が滅入るので、私は極力喋らないようにして一日を過ごした。 かすれた文字の浮かぶ『ドゥエンデ』の看板の前で、私は足を止めた。不意にこの店名の由来を聞いた時のことが脳裏に浮かんだ。duende――これもまた「悪魔」のことだと語った彼は、嬉しそうに微笑んでいた。そして「魅力」のことを差すとも言っていた。確かに、悪魔には魔力がある。どうしようもなく惹かれて抗えない、魔力が。 店内に客は少なかった。ピアノは空いていて、弦楽の温かい音だけが漂っていた。私は誰もいないカウンター席へ着いた。 「……今日はピアノはないんですか」 かすかすな声でマスターに尋ねる。声が震えるのをごまかすには丁度良かった。マスターはグラスを磨く手を止め、真摯な態度で私に向いた。 「あのピアノ弾きなら、もうピアノを弾きません。店を辞めました」 その言葉はいとも簡単に私の体から力を抜き去り、目の前の色を無くした。 「これ以上ここにいては、また同じことを繰り返してしまうから、と」 昨夜の静寂を聞いたように、胸の辺りがぎゅうっと締め付けられた。わかっていたことだ、わかっていたことだと何度自分の中で繰り返してみても、何の効力もない。 彼はきっとまだ、いつか失った彼女を求めているのだろう。新しく出会う誰かを引き換えにすることもできずに、決して報われない思いを抱えて、悪魔はピアノを弾いていたのだ。ただその音だけを糧にして。 彼女の記憶は決して悪いものではない。昨夜の彼は、幸せそうだった。絶対に手放せない、大事な記憶――けれどそれは、とても、哀しいものだ。それだけにすがるには、あまりにも哀しいものだ。 そんな彼が私の声を聞いて、失われた音楽に似た声を聞いて、一体何を感じたのだろう。私は、彼にどんな思いをさせてしまったのだろう。自分では止めることもできないことで、私は彼にピアノすら手放させてしまったのだ。 「……彼の連絡先は、わかりますか」 黙ったままでいてくれたマスターは、私の問い掛けに静かに頷いた。 私を彼に会わせてください。 あのピアノを、彼の声を聞かせてください。 私は彼を、救いたいんです。 狭まった喉で、言葉が逡巡する。声にならない声は私を留めてくれた。 「……彼に伝えてください」 頬を伝った一滴はカウンターにこぼれ、弾けた。 「戻ってきて、またピアノを弾くように。……私はこの店に来るのをやめるから。そう伝えてください」 彼がここを去った理由を知っていて、どうしてまた会えるというのか。 「わかりました」 マスターのしわがれた声は、とても優しかった。涙を拭う私に構わず、仕事に戻ってくれた。ピアノを失った弦楽たちは、それでも澄み切った響きで私を濯いでくれた。 大丈夫。 私は声に出さずに何度もそう唱えた。 後悔は、ないのだから。 弦楽の隙間に微かな笑い声が聞こえる。乾きを潤すグラスの音に、誰かと誰かの幸せそうな談笑が重なる。私は耳に届く音の全てを刻み込もうと、目を閉じて黙した。 ふと、すぐ前の空気が揺らいだのがわかった。氷が鳴る軽やかな音が微かに聞こえ、私は薄らと目を開けた。 「サービスです」 カウンターに置かれたタンブラーの中には、あの深紅のカクテルがあった。マスターの手を離れたエル・ディアブロは、静かに佇んでいた。 私はもう一筋だけ、泣いた。 喉の調子が戻ったのは、それからすぐだった。一度戻った声は、もう二度とあの時のようにかすれることはなかった。 私は色々な店を巡るようになった。まだ数は少ないが、それぞれにある良いところを見つけるのは格段に上手くなっていた。それは新鮮な気持ちをもたらしてくれ、また新しい店を探すのも悪くないと思わせてくれた。 でも、あの店のピアノに勝るものにはまだ出会えていない。目を閉じれば蘇る、あの繊細な旋律に。 私は、あの悪魔がまたピアノを弾いているように、これからも弾き続けるように、ただそれだけを祈っている。 了 return to contents... |