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はやての星


 僕らは青空を知らない。

「ほら、ちゃんとレインコートの前を留めて。タオルは忘れてない?」
「うるさいなあ、わかってるよ。赤ん坊じゃないんだから」

 毎朝毎朝、母さんはリピートをプログラムされているんじゃないかと思うほど同じことを言う。心配なのだろう、昔は台風なんて年に数度しか起こらないことだったらしいのだから。それを理解できないほど僕は子どもじゃない。

「いってきまーす」

 玄関から道路へ出ると、今日もチューブ状のガラス屋根には暴風と豪雨が叩きつけられている。僕らの世代には当然の朝の風景だ。朝も昼も夜も、大差はないけれど。

 駅までの通路は電子広告も整備されていないから、風景くらいしか見るものがない。みんなといる時は話を合わせるために退屈だと言うようにしているけれど、意外と僕は嫌いな景色じゃない。ぐんぐん伸びるガラス通路は四方八方にうねり、その合間に家や建物が並ぶ。どこも雨水に洗われているせいで滑らかに辺りを映し込み、跳ね回る雨粒できらきらと光って見える。ガラスはある程度の防音になってはいるけれど、時折獣の鳴き声のように風が唸り、吠えているのが聞こえる。湿った匂い。通路の切れ目が近い証拠だ。

 地下道との交差点は、今ちょうど補修作業中で、ほんの少し風が吹き込んでいる。とはいえ、このためにレインコートっていうのもどうなんだろうか。校則で通学時はレインコート着用、なんて決めている割に、雨にぬれる機会なんてないに等しい。隙間に手を差し出すと、薄らと冷たく感じる。雨は水道より冷たいことを、僕はついこの間知った。この隙間ももうすぐ閉じられるんだろう。そう思うと、つい毎朝触ってしまうのだった。次に窓の外に触れられるのがいつになるかなんてわからないのだ。

 そうこうしているうちに時間が迫って、僕は足を早めて地下へ潜った。メトロに乗り、今日も僕は学校へ向かう。それもまた、リピートだ。きっとそれが、生活するということ。



 どうして世界がこうなったのか、に関してはそんなに興味がない。詳しい仕組みについては授業でも習ったけれど、興味のないことだからはっきり覚えていない。とにかくこの星がいつもこんな天気なのは予測ができていたことで、だからこそ整備されたメトロや地下街、排水システムのおかげで僕らは何不自由なく暮らせている。嵐の星になってから生まれた僕らの世代にとって大事なのはそういうこと。

 ただ、一緒に暮らしている父さん母さん、それにたまに会うじいちゃんばあちゃんの話を聞いたりしていると、どうしても見てみたいと思ってしまう。

 分厚い雲の向こうに広がる空のこと。

 こうなった仕組みよりも、もっとずっと興味のあること。こうなる前に、みんなどんなふうに過ごしていたのか。昔の小説なんかを読んでいると、想像もつかないことが当たり前のように書いてある。海に遊びに行くなんて自殺行為だし、体育館以外でスポーツなんて無理だし、照り返すような暑さだとか雪の積もる音の聞こえそうな静けさとかの描写は何も伝えてはこない。

 僕らは日差しがなんなのかさえ、ちゃんとは知らないのだ。例えば木漏れ日をこの身で浴びることができたなら、きっと心が震えて身動きさえ取れなくなるだろう。

「はい、時間です。解答用紙集めるよー」

 先生の声にため息がもれる。興味のないことは覚えてない、で通用しないのが生徒のつらいところだ。国語と社会は何とかなりそうだから、まあとんとんだな、と自分をなぐさめた。



 テスト期間は早く帰れるのが一番いいところだ。もちろん、明日のために勉強しないとならないからまっすぐ帰るだけなんだけれど。あいにく一夜漬けなしで挑むことができるほど真面目な生徒じゃないのだ。

 帰り道、地下道を自転車で駆けていく同級生を見送って、僕は一旦地上へ上がった。うちの学校の悪いところ、メトロと地下道で直通していない。しかもこの時期、地下道は蒸し暑い。邪魔なレインコートは鞄にしまって、できるだけ換気の優秀な地上道で帰りたかった。

 ばらばらと屋根を打つ雨を見上げると、まるで軟体動物がうねるように水滴がめまぐるしく跳ねていた。今日の雨は特に酷い。家の近くの隙間のことを思うと、ほんの少しわくわくした。今朝よりももっと雨が吹き込んでいるかもしれない。  メトロの駅まではすぐだった。通学定期を出して改札をくぐり、ホームに出る。道々で時折立ち止まって雨粒を眺めたりしていたせいか、他の生徒と時間がかぶらなかったようでホームは閑散としていた。

 それからすぐに、構内アナウンスが人気の少なさの理由を告げた。

「ただいま排水作業中につきまして運転を見合わせております……」

 しくじった、そういえば今朝から排水の時間をアナウンスしてたっけ。好き好んで駅で足止めされたがる阿呆はいないだろう。

 特に帰路を急いではいないが、どうもはずれくじを引いたようなくさる気持ちになってしまう。仕方ない、ベンチで読みかけの本でも進めよう。足止めを食っている理由の景色を眺める気分にはなれなかった。

 いつもより多少嵐が酷いせいだと、アナウンスは遅めの終了時間を繰り返し告げている。単調な声色は微かなノイズとなって意味をなさなくなり、僕は手元の本に没頭した。

「隣、いい?」

 その声はどんなノイズにも邪魔されずに真っ直ぐに僕の耳に飛び込んできた。別にでかい声だったわけじゃない。単に彼女の声を聞き分けるのが得意というか、あわよくば声をかけてもらいたがっているというか、とにかくまあ誰の声だかはっきりわかった。即座に顔を上げると、想像したとおりのはにかんだ顔がそこにはあった。僕を見ている。

 いいよ、なんて気さくに言えなくて、僕はただ頷いただけだった。情けない。それでも彼女は嫌な顔ひとつせず、品のある動作でベンチに、僕の隣に腰掛けた。安っぽい、どうってことないベンチがちょっと座り心地良く思える。

 本が好きな彼女も考えることは同じようで、ぺらり、とページをめくる音がほどなく聞こえてきた。横目に見ると、丁寧な手つき。本当に本が好きなんだろう。ぺらり。ぺらり。声を交わすことがなくても、決して気まずくならない。なんて心地好いんだろう。たとえここが外だとしても、うるさい雨音なんて聞こえなくなりそうだ。

 心の中でそわそわしつつ、ページの端を見るふりをして彼女の横顔を盗み見る。まじめな、でも少し微笑むような、そんな表情。どんな本を読んでいるんだろう、好みまで同じだったりして。もしそうだったらどんなに素敵だろう。おすすめの本を教え合ったり、感想を言い合ったりできるかも。こっちから声をかけてみようか。いや、でも読書中だし邪魔になってしまうかも。ああ、こうやってどれだけ言葉を飲み込んできたことか。せっかく近所に住んでいるっていうのに、今ではただのクラスメートだ。子どもの頃、今よりずっと昔、僕の家で一緒に雨粒を飽きることなく眺め続けたことを、彼女は覚えているだろうか――。

 と、スポットライトが彼女を照らした。僕の恋心がなせる業、ではない。何事かと思って顔を上げると、そのライトは天井の上、ガラス屋根の向こう、雲よりももっと上から彼女を照らしていた。

 眩しさに思わず目を細める。直視できない。彼女も同じようで、本を閉じて手でひさしを作っていた。僕も真似して手をあげる。けれど光を遮るには僕の手はあまりにも無力だった。

 少しずつ目が慣れる。こんな眩しさ、感じたことがない。温かい。すごく温かい。心臓がばくばく言っている。どうにか薄く目を開けると、分厚い雲に切れ間が見えた。

 うまく息が吸えなかった。いくら吸っても胸が苦しくて、でも目が離せなくて、瞬きすることさえ惜しかった。

 空が、雲の向こうに広がっている空が、こんなにも青く、眩しいだなんて。

 空いた方の手を、ぎゅっと握る感触があった。彼女だ。彼女も初めて見る青空に、胸が苦しくなっているのだろうか。僕が握り返すと、さらにぎゅっと力が込められた。こちらは見ずに、ただ空だけを見つめて。

「ただいま、台風の目に入りました。目を痛める可能性がありますので、太陽を直視なさいませんようお気をつけください。排水作業が遅延しておりますこと、ご了承ください……」

 アナウンスが遠くに聞こえ、僕は、僕らは、幼い子どもに戻ったように暮れるまで空を見続けていた。心臓の鼓動はいつまでも強く打ち続け、僕はこの世で一番素敵な気持ちを知った。その気持ちを分かち合える人が彼女であることは、途方もない幸せのように思えた。







  了








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