return to contents...


きみを忘れない


 昼休みの終わりが近いことを知らせる予鈴が鳴る。この寒空の下でも外ではしゃげる男子たちだろう、廊下を威勢良く駆け抜ける足音がここまで届いた。

「ほれ、早く教室戻んなさい。授業始まっちゃうよ」
「えー、だるいよー、せんせー」

 間延びした女子生徒の声。決して具合が悪くて言っているのではないのは確かめるまでもなくわかる。校内でも随一の暖房の利いた保健室はぬくぬくとして、離れがたい気持ちもよくわかる。かといって、じゃあずっとここにいなさいと言えるほど彼女たちが品行方正な出席日数でないことも私は知っていた。

「いいからほら。今は退屈に思えるかもしれないけどさ、今のうちに味わえるだけ味わっときなさいな。卒業してから半年もしないうちに恋しくなるんだから」
「そんな早く? ありえないってー」
「人生の先輩の言うことを信じなさい。ほら、行った行った」

 年の瀬も迫る中、女の子たちは短いスカートから覗く膝を擦りつつも重い腰を上げた。寒い寒いと言いながらもスカート丈を伸ばさない彼女たちを見ていると、若いなあとつい思ってしまう。言うほどの年齢ではないつもりではあるが、それにしても高校生から見たら、言わずもがなだ。

 保健室にひとりになり、授業の始まりを告げるチャイムを聞く。この学校に赴任して数年が経つが、冬休みの前の雰囲気は変わらない。にぎやかで、浮ついていて、ほんの少しの寂しさが潜んでいる。

 と、がらり、と戸の開く音がした。

「先生」

 呟くような低い声。

「あら、いらっしゃい、高瀬君」

 さっきの子たちとは違い、静かにひとりでここを使いたがる子も多い。その中でも足繁くやってくる彼は、今の子にしてはちょっと朴訥とした、どことなく懐かしさを覚える雰囲気があった。

「今日は頭痛? それとも」
「だるい」
「はいはい、正直者ね」
「推薦決まったから出なくていいんだ、授業」
「それを決めるのはあなたなの?」
「授業を受けるのは俺だよ」
「授業をするのは先生方で、そのお金を払ってるのはだあれ?」

 むうっと黙る彼は、結構強面の方だと思うけれど、こういう表情を見るとまだこどもっぽさが見える。

「一時間だけよ、あとは授業に戻りなさい」
「いいの?」
「合格祝いよ。だたし、戻った後の授業は真面目に受けること。あと、他の子とか先生には内緒よ」

 基本的にはまじめで、出席日数も成績も問題がないから、特別措置みたいなものだ。褒められる態度ではないだろうけど、毎日同じリズムで暮らすことがつらい子もいる。

「ベッド使っていいすか」
「どうぞ。でも、本当に具合悪い子が来たら譲ってあげてね」
「ん、わかってる」

 こうやってのんびりと一日は過ぎていって、そろそろ今年も終わりが近い。窓の外では雲が分厚く浮かんでいた。



 放課後は今年最後の職員会議があった。教員ではなくても養護職員も職員だ、顔を出す必要がある。学業に関して私が口を出せることはほとんどないが、かわいい教え子たちであることに変わりはない。

 数時間の会議を終え、帰り支度をするために保健室に戻ると、大柄な人影が暗がりに立っていた。高瀬君だ。

「どうしたの、こんな時間まで。具合悪いの? 大丈夫?」
「別に……」

 それ以上は話してくれなかった。とりあえず体調が良くないわけではないようだ。高瀬君はただ、じっと、こちらを見つめてくる。

 私を待っていた? 直感的にそう思ったが、口にはしなかった。彼は元々口数が少なく、せっつかれると余計に黙り込む癖がある。私はおとなしく彼の方から喋り出すのを待った。

 高瀬君は私のことを見つめたまま、ゆっくりと歩いて、こちらに近づいてくる。手を伸ばせば触れられる距離だ。彼は大柄で、その背格好に私はすっぽりと包み込まれてしまうだろう。

「ああ、寒いと思ったら」

 思わず目をそらした先、窓の外で、雪がちらついていた。

「どうしようかな、傘持ってきてないわ。ああでもあれよね、こういう雪って不思議とあんまり濡れないわよね」

 軽い粉雪が空中を漂うように降っている。日はすっかり暮れていて、街灯の下にだけ雪が浮かび上がっていた。

「雪が降ると冬って感じが増すわよねえ。でも今年はちょっと遅かったわね」
「先生」

 ぎくりとして、そちらも見ずに「うん?」と声を返す。我ながら、意地が悪い。

「俺、傘あるけど。送ってく?」
「え。今朝降るなんて予報なかったのに。置き傘なんてしてるの?」
「置き傘って言うか、置き忘れてたやつ。ただのビニ傘だよ」

 言いながら高瀬君は私の返事も待たずにさっさと歩き出そうとしてしまう。

「ま、待ってよ」

 私は鞄と上着を取りに急ぎ、すぐその背を追った。彼はその広い歩幅をゆっくりと送って私を待ち待ち昇降口に向かっていた。制服の上に薄手のダウンだけで寒くないのだろうか、その背筋はぴんとして縮こまる様子もない。

 げた箱は暗く、外から入り込む明かりでようやく高瀬君の背が見える程度だった。傘立てから一本抜き、履きつぶしたスニーカーに足を押し込む後ろ姿が見え――。

 あっ。

 私は思わず声を上げた。まるで自分が高校生の時に引き戻されたような、初々しい気持ちを唐突に思い出したから。

「……なに、先生」

 振り返る顔と、その台詞が私を今に引き戻す。

 なんでもない、とだけ言って黙ると、彼はそれ以上追求してこなかった。靴を履き終えるまで、私は彼の背中をそっと見つめていた。

 そうだ、どうして忘れていたんだろう。あんなに好きだった人なのに。運動ができて、勉強もできて、なのにそれを鼻にかけないで普段は物静かで。

 こんなにも似ていたなんて。

「……高瀬君」

 思い出の彼とは違う名前を、私ははっきりと呼んだ。

「やっぱり、傘、いいわ。これくらいの雪なら大したことなさそうだし」

 彼とふたりで帰ってはいけない。相合い傘なんてしてはいけない。強く、そう感じた。

 高瀬君に私の返事の真意が伝わったかどうかはわからない。伝わらないといい、とだけ思った。

「先生」

 低くて落ち着いた声。声質は違うけれど、少しぶっきらぼうな喋り方はよく似ている。

「……春になったら結婚するって、本当?」
「なんだ、知ってたの」
「噂で。クラスの女子がそう言ってた」

 そっか、と独り言のように声がもれる。知っていたのか。

「うん。大学の時に知り合った人とね。別に特別なきっかけがあったわけじゃないんだけど、もう付き合いも長いし、そろそろかなって話し合って」

 初恋の彼とはまるで似ていない、にぎやかな彼と。

「結婚することに決めたの。みんなが学校卒業したら、私も卒業する」

 ああ、そうか、それもあって今年は余計に冬が物寂しく感じるのかもしれない。門出であるとは言え、それが別れであることに変わりはないのだから。

「先生」

 彼はあと何度そう呼んでくれるだろう。なあに、と私は何度返事するのだろう。年が明けて、冬休みが明けたら、もうきっと卒業まではあっと言う間だ。

「傘、使って」

 そう言って、高瀬君は手にしていたビニール傘を私に差し出した。やはりぶっきらぼうに、ぬっと押し出すようにして。

「そんな、いいわよ」
「いいから。使ったらあとは捨てていいから」

 安い餞別だけど、と高瀬君は少し笑った。断りきれずに、押しつけられるように傘を受け取る。ひんやりとする傘には高瀬君の体温が幾ばくか残っていて、それが私をじんわりと温めた。ありがとう。傘を握りしめ、そう呟く。

「俺、先生のこと、忘れないから」

 顔を上げると、私をまっすぐに見据えて、高瀬君がそう言った。忘れない。絶対に。そう言う彼の目はほんの少し濡れていた。初恋の彼に同じ言葉を告げたとき、私の目もこんなふうだったのだろうか。それを見た彼は、今の私のように、微かにでも心が騒いだだろうか。

 ありがとう。もう一度、今度はちゃんと目を見て告げた。ごめんね、と言う代わりに。







  了








return to contents...