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fool for you


   ◆1◆

 自分の人生は、まあそこそこ恵まれていたと思う。記憶も定かでない子供の頃に家族が事故死して天涯孤独なところから始まったのがあれだが、両親が残してくれたお金のおかげで特に不自由もなく生きてきた。友達とは長く親しく付き合えているし、恋人はもうしばらくいないが元々がっついて色恋沙汰に興味がある方でもない。適度に悩みながらも概ね幸せに暮らしていた。

 だから、突然倒れた挙げ句に余命三ヶ月と告げられても、仕方ないかな、と思った。これまでそれなりに満足な時間を過ごせていたわけだし、それが終わることになっても、割に合わないとは思わない。総量というか、そもそも私の人生がそんなものなのだろう。苦しい延命治療も断って、後は安らかな最後を待つだけだ。

 そんな矢先に、おかしなことを言い出した馬鹿がいた。

「俺と付き合ってくれないかな」

 即座に、馬鹿じゃないの、と返事をしていた。相手は数少ない男友達で、もちろん仲が良いことは良かったのだが、そういう目で見たことは一度もなかった。

「あのさ、状況、わかってる?」
「あん?」
「だから、今、どういうやり取りしてた」
「どういうって……調子どうよって」
「そう。で、私はもう無理っぽいと言った」
「うん」
「その流れでどうしてそうなるわけ?」

 ここは病院で、私は入院してて、退院する当てもない。そこまで説明した相手に向かって付き合ってくれとは、一体どういう了見なのだろう。度し難いにも程がある。

「いや、だからさ、今言わんと間に合わんと思って」

 まったくあっけらかんとそう言ってのけて、普段通りの笑みを浮かべてる。

「別に今すぐにいなくなるわけじゃなし、だったら付き合ってくれんもんかなと思って」
「……そんなにかわいそうに見えるわけ、私は」
「あん? なんで?」
「どうせすぐ死ぬんだし、後腐れもないものね。ボランティアする相手としてはうってつけかもしれないけど」

 つい溜め息が出る。残り短いんだから、それこそ溜め息なんか吐かずにいきたいものなのだが、それはまあ自分でどうこうできるものでもない。どうせ今更溜め息を吐いたって、逃げ出す幸福も残っていない。

「生憎だけど、寂しいとか人恋しいとか、そういう気持ちは別にないよ。諦めてはいるけどさ、それはそれで仕方ないと思ってるし。わざわざ付き合わなくても、友達のままでいてくれれば充分なんだけど」

 はは、と彼は声を小さく上げて笑う。入院してからこっち、こういう素直な笑顔を見る機会はなかったので新鮮ではあった。他の皆は、大抵、お茶を濁すような苦笑いばかりだから。

「まあ、そう言われるかなあとは思ってたけど」
「何嬉しそうに言ってんだか」
「いや、まあ相変わらずなんでほっとした。これで簡単に落ちるくらい弱ってるなら、そっちの方が心配だね、俺は」

 そう言いながら、勝手に剥いた見舞いの林檎をしゃくしゃくと食べている。自由人め、と心の裏で毒づく。

「まあ、無条件で味方になる奴が一人いるって知っとくだけで、結構違うだろ」
「味方ね……寝返んない?」
「あれ、疑いますか、そこで」
「だって、悟って他人に縛られないって言うか、気まぐれなところあるでしょう」
「自分に素直だって言って」
「褒め言葉じゃないね」
「知ってる」

 内心、羨ましいと思ってしまうのが悔しい。決してこうなりたいと思うような人間ではないのに、こうあったらきっと幸せだろうと思ってしまう。悟はそういう、私にはない人格の塊なのだ。ポジティブで、しなやかで、知らずの内に光を浴びているような。だからこそ、私も飾らずにいられるし、くだらないやり取りが許される相手でもあるから、友人の中でも貴重な存在ではある。だからといって、付き合いたいかと言われて首を縦に振る気はないが。

 林檎をすっかり平らげた悟は、座っていたパイプ椅子をベッド脇に片付けながら首をこきこきと鳴らした。

「じゃあまあ、また来るからさ、ちょっと考えてみてよ」
「なに、本気なの?」
「嘘ん気であんなこと言いやしませんて」

 信じられないくらいにこやかに言う悟に、私は遠慮なく呆れさせてもらった。


   ◇2◇

「……とりあえず、あんたの名前が悟だってのは何か間違ってると思うよ」

 そんな捨て台詞を背に病室を出ると、ちょうど花束を抱えた顔見知りと鉢合わせした。どうやら瑠璃子の見舞いに来たらしい。

「ああ、悟か……瑠璃子のお見舞いに来てたの?」

 すっかり暗い声で名前を呼ばれると、明るい病院の廊下にまで影が挿すようだ。ちょっと肩をすくめて見せながら、まあね、と頷いて返す。

「結構元気そうなんで安心した」

 人がそう明るく応えたというのに、戻る返事は重い溜め息だった。本人の前でもこんな顔をしているんだろうか、彼女は。だとしたら、今日はもう帰ったらいい。

「悟にはそう見えるんだ」
「悪いか?」
「別に……そういう意味じゃないよ。ただ、たぶん、悟が思ってるより、瑠璃子は、悪いと思う」

 言葉を選びつつ喋っているんだろう、ぽつぽつと途切れがちに言う。泳ぎがちな目は、終始俺を避けていた。

「俺相手にそんなに気遣って話さなくていいよ。顔色がひどいのは見たし、どんな状態なのかも本人から聞いたから」

 面倒なのでそう言ってやると、向こうは黙ったまま、少し驚いたように目を大きくした。それでも思ったよりは元気そうだった、と付け加えたが、空気を軽くするほどの力はなかった。

 陰気臭い。さっさと話を切り上げて帰ろうと顔を向けると、赤く滲んだ目に迎え撃たれた。がっつり全力で睨んでくれている。

「軽々しく言わないで」

 それ以上は言葉にならないのか、唇を噛み締めるばかりで続かない。それにしても、まったく、まったく陰気臭い。これ以上話を続ける気にもなれなかったので、肩をすくめて見せて、俺はその場を後にした。

「瑠璃子によろしく」

 きっと、伝えたいようには伝わっていないと自覚した上で、それだけ言い残した。


   ◆3◆

 今日は調子がいいな、と目覚めてまず思えるのは幸福なことだ。ここ一週間がひどいものだったのでなおさらそう思う。そう思えば現金なもので、見舞いの葡萄を頬張りながら早く誰か来ないかと退屈を持て余す。

「こないだ言ったこと、考えてくれた?」

 そういえば、とまるで軽口のように悟は言った。毎日のようにまめに通ってくれるわりに他愛ない話しかしないで帰るので、てっきり冗談で終わらせるつもりでいるのかと思っていたのに、まさか蒸し返されるとは。これも併せてジョークなのかとも考えたが、そこまで面倒で悪趣味な人間だとは思わない。

「珍しいよね」

 返事の代わりにそう言ってやった。

「何が?」
「悟って、どっちかと言ったら付き合ってもすぐに別れるでしょう。長続きしない。彼女が欲しいってがっつくタイプでもない。なのに、自分から付き合ってって言うなんて」
「他人事みたいに言うなあ」

 そう呟きながらはにかむ悟の方こそ他人事のようだ。

「そんなに、私、悪いんだ?」
「そこは、そんなに私のこと好きなんだ? って言うところだろ」
「嘘ばっかり」
「なんでそう俺の純愛をけちょんけちょんにするかな」

 悟は笑顔を崩さない。ちょっとやそっとでは揺るがない、薄い笑み。

 ずるい、と思う。悟はにこにこと無防備そうに近付いてくるくせに、決して深くまでは踏み込ませない。近付いたかと思って手を伸ばしてみても、するりとくぐり抜けて、決して触れさせてはくれない。私には真似のできない身軽さだ。私は自分のことも人のこともついつい背負い込んでしまう。背負い込んではその重みで身動きが取れなくなる。

 重い女だ、と言っていたのは誰だったろう。付き合ったことのある人だったのは覚えているのに、それもたかだか二人しかいないのに、どんな時に言われたのかよく思い出せない。きっと、あの人たちとは会わず仕舞いになるのだろう。それを少し寂しく、惜しむ気持ちになる辺りが、重いのだろうか。出会った人間のひとりひとりとの繋がりをいちいち大切にしたいと願うのは、そんなにわずらわしいことなのだろうか。繋がりが唐突に失われる重さよりも、もっと重いというのだろうか。

「ねえ、どうして私なの?」

 随分と意地の悪い質問だ、と自分で思う。けれど悟はこれくらい直接的に聞かなければ答えてはくれないだろう。いや、私がどう聞こうとも返事に違いはないのかも知れない。揺るがない軽さ。いかにもきょとんとした顔色を浮かべて私を見返している。

「かわいそうだから? 気の毒だから? それならそうだと言ってくれた方が私は救われるよ」

 逃がすまいと生真面目な顔を崩さずにいると、その薄っぺらな笑みがわずかに揺らいだように見えた。

「格好いい」

 それだけ言って私を見つめ返す。私には悟の内心までは窺い知れない。それがもどかしくて、苛々して、何故だか胸が熱くなった。目頭が熱くなっていることは気にしないように努めた。

「瑠璃子は、格好いい」

 あんまり真っ直ぐに見てくるものだから、それが真実なのだと軽々しく信じてしまいそうだった。信じたとしても、どうせすぐにまた疑ってしまう自分の性格は嫌というほど知っている。それなら疑い続けた方がまだ楽なのだ。

 ただ、やはり、悟は他の皆とは少し違った。ここに入って以来、私が大丈夫だと言ってもその言葉をそのままの意味で受け止めてくれた人はほとんどいなかったし、笑いかけてくれる表情には少なからず影が差していたから。私の優しい友人たちは、私に気を遣い、我慢して、その実、心配を隠し切れなかった。悟にはそれがない。彼は私に気を遣わない。もっとも誰に対しても気を遣わない悟だからこそ、こうして笑えるのかもしれなかった。

「本当にそう思ってる?」

 そんなことまで言葉で聞かれるのはさぞかしうざったいだろう。それでも悟は、むしろ清々しいくらいの晴れやかな表情で答えた。

「嘘つくくらいなら逃げるよ、俺は。その方が早いし確実だ」

 その言い様があまりにぞんざいだったので、私はうっかり笑ってしまった。なんてことだろう、息が苦しくなるほど、腹を抱えて笑ってしまった。馬鹿馬鹿しい。私のしめっぽい感傷なんて、実に馬鹿馬鹿しい。

「いやいやいや、笑うところじゃないだろう、ここは」
「すごいよ、悟。同じ生き物とは思えない」
「……褒めてないだろ、おまえ」

 一応本気で褒めているつもりではいるのだが、自分の笑い声に邪魔されてそれを伝えることはかなわなかった。

 そうこうしているうちに日も暮れなずみ、私の代わりに葡萄をすっかり片した悟は帰ると告げた。

「そうだ、これ」

 立ち上がりついでに鞄から袋を取り出し、私に差し出す。中を見ると、CDアルバムが一枚と、安物のポータブルプレイヤーが入っていた。

「そのCD、聞きたいって言ってたろ」
「何ヶ月前の話だ」
「思い出したのが昨日だったんだよ」

 どうしてそういうことを堂々と言えるのかわからない。

「それ聞いて、俺を恋しがったらいい」
「言ってろ」

 私は袋を素直に受け取ることにして、ベッドの上から悟を見送った。悟にしては気の利いた差し入れだ。ひとりの退屈を消化するのに悪い手段ではない。

 病室にひとり残されて、おもむろにCDのケースを開けると、不意に悟の飄々とした姿が思い出されて私を笑わせた。声を上げて笑うなんて久し振りだ。このまま笑い続けて、胸の痛みも紛れてしまえばいいのに、と思う。


   ◇4◇

 病室を出ると、すぐ前にある窓が曇っているのが目に飛び込んできた。そういえば今日は天気予報を見るのを忘れていた。濡れずに帰るのは難しそうだ。廊下を一本渡り終えるのすら待たずに、雨はうるさく泣き出した。ついてない。

 いっそ止むまで待つかと思いつつ足を余計に遅くする。足音は雨音に消えた。

 今日はちょっと、余計なことを喋りすぎたかもしれない。瑠璃子にちゃんと伝わったかどうかはいまいち疑わしいが、珍しいこと言ってしまった。どこかしら、俺でさえ弱っているのかも。そもそも五体満足な上に身内も健在な俺にとっては病院に来ること自体が億劫でもある。

 角を曲がろうとしたところで、若いナースが横を走り抜けた。病院内で走っちゃいけませんよ、と思いつい目で追ったら、その白衣姿が瑠璃子の部屋に飲み込まれていくのを見てしまった。雨音に紛れて、ブザーのような音が響いていた。

 ああ、やっぱり今日はついてない。

 どうしようもなく早鐘を打ってしまう自分の鼓動を聞きながら、遠巻きに病室の入り口を見つめる。それで何一つ解決するわけでもないのに。そもそも、瑠璃子に起きている何がしかに対して俺が解決できるようなことは何一つないんだけど。

 しばらくぼうっと見つめていたら、今度は普通の足取りでナースが出てきた。とりあえずは大丈夫らしいことが見て取れる。別に、花が咲くような明るい顔をしていたわけではないが。

 次に俺が来る時までに、瑠璃子がどこかに行ったりしませんように。

 そう無責任に祈って、俺は病院から逃げ出した。


   ◆5◆

 売店でポータブルプレイヤー用に電池を買って戻ると、ちょっと病室が静かすぎるような気がした。もう日が暮れるというのに悟は来ない。借りたCDがなかなか良かったと伝えるつもりだったのに。

「大丈夫? つらくない?」

 売店まで付き添ってくれた友人がそう声を掛けてくれる。私は息を整え、大丈夫と答えた。たまには動かないと、その方が体に悪い気がしてならない。ここのベッドはもう寝慣れたが、だからといって日がな一日寝ていたのではなまってしまう。調子のいい日に限った話ではあるが。

「そういえば、悟、来てる? こないだここの廊下ですれ違ったけど」
「来てますとも」

 今日のように数日に一度は来ない日もあるが、結局一番足繁く通ってくれているのは悟だ。ふらっと来て、仕事がどうだとか雑談をして、余っている見舞いの果物を食べて帰っていく。あの時間だけ、私はここが病院だということを忘れる。

「なんかさ……こういう時でも軽くって驚いちゃった」

 私がちゃんとベッドに入るのを見届けて、彼女は苦笑混じりに呟いた。

「不謹慎っていうかさ、マイペースすぎるとこあるよねえ。薄情、っていうのとは違う、かもしれないけど」

 さすがは悟というか、この場にいなくても苦笑いを誘うのだから感心する。とはいえ、私のそれと彼女のそれとは若干違うようではあるが。少なくとも私は不謹慎だとは思っていないし、彼女が聞く立場だったら私のようにわけもなく苛立ったりはしないだろう。

「多少薄情な方が救われるよ、私は。暗い顔で見舞いに来られても、辛気臭いだけだし」

 深く考えずにそう言い切ってしまってから、しまったと思ってももう遅かった。彼女は曖昧な作り笑顔を浮かべて、そっか、と短く返事をした。迂闊な皮肉を覆すだけの気の利いた言葉は何も思い浮かばなかった。

 ああ、無理矢理笑わせてしまった。それは一番しんどい行為なのに。

「心配するほどじゃないよ。私は大丈夫」

 散々考えた挙げ句に出た台詞がこれだ。目も当てられない。

「わかってるよ。瑠璃子は強いもんね」

 そう言ってくれることが優しすぎて、つらい。


   ◇6◇

 病室のドアをノックしても声を掛けても返事がないので内心慌てて入ったのだが、瑠璃子はちゃんとベッドで起きていた。いや、起きていたと言ってしまうと間違いかもしれない。膝を立てて、そこに突っ伏していたから。

「なに、昨日来なかったから怒ってんの?」

 うつむいたまま瑠璃子は首を横に振る。ちょっと残念。

 だいぶ座り慣れてきたパイプ椅子が既に置かれていたので、そのまま座った。

「誰か来てた? 椅子、ぬくい」

 瑠璃子は顔をうつぶせたまま、俺の前にひとり見舞いが来ていたのだと説明した。昨日も来てくれて、今日も来てくれて、それでもう私の今日の力は尽きたのだと。断片的に言葉を並べるだけだったので要領を得なかったが、平たく言えば気まずい中来てくれてありがたい、ということのようだ。それでここまで恐ろしく落ち込むのはまったく瑠璃子らしい。さすがにこんなにもへこんでいるのは初めて見るが。

「誰のことも嫌いになりたくないの」

 来る途中で買った紙コップのコーヒーが空になった頃、瑠璃子はぽつりとこぼした。

「自分に対してもそうだけど、私なんかと友達やってくれてる人ならなおさら。苛々したくないし、腹を立てたくないの」
「私なんかってことはないだろう。別に、腹立つんなら怒ったって嫌ったっていいと思うけど」
「よくない。私はよくない。私の最後がそんなのは、嫌だ。私は笑って逝くの。そうでなきゃ、だめだ」

 その頑なさが意地っ張りな子どもめいていたので、俺は瑠璃子の頭を撫でてやった。それこそごく軽く、眠れずにむずがる子どもをあやすような手付きで。瑠璃子はいやいやと小さく首を振ったが、構わず撫でる。

「皆が思い出す私は、笑ってなきゃいけない。でないと、思い出した時に笑えないでしょう」

 どこまでもどこまでも、瑠璃子は自分を後に回す。

「そうやって、また我慢するわけ? 今わがまま言わないでいつ言う気だよ、おまえ」
「そんな甘えなんか、くそくらえだ」

 瑠璃子は俺の手を振り払った。

「会いたい人には会ったし、伝えたいことも伝えてる。たくさん泣かせてるのも知ってる。だから、最後の前に笑わなくちゃいけないの。それまでに気持ちを取り戻さなきゃいけないの。私に、甘えてる暇なんかない」

 顔を上げた瑠璃子の目は、てっきり泣いていると思っていたのに、鋭く俺を睨みつけるだけだった。

「きっと、悟には私の気持ちなんかこれっぽっちもわかってない。私に悟の気持ちがさっぱりわからないのと同じ。悟は誰かの前で大声を上げて泣いたりするようなことはきっとないでしょう? 気持ちを全部預けて笑うことはないでしょう?」

 ひどい矛盾だ。怒りたくない、嫌いたくないと言ったくせに、俺にはこんな目を向ける。全力でぶつかってくる。彼女の言う通りだ、俺には理解できない。

 それでも、つられてかっとなるくらいだから、まるきり違う人間ではないのかもしれない。

 俺は両手で瑠璃子の頭を抱え込むように引き寄せて、口を塞いでやった。驚いて混乱したのか、瑠璃子は抵抗らしい抵抗もせずにじっとしている。俺は調子に乗って、しばらくそのままでいた。瑠璃子の体温は低かった。

 顔を離すと、途端に頬を張られた。ひどい音がしたくせに大した痛みはなかった。これでも、今の瑠璃子にとっては全力なんだろう。

 見ると、瑠璃子はぼろぼろ泣いていた。ようやく泣いたな、と思うとなんだかちょっと安心した。

 それから数日、俺は瑠璃子の見舞いに行かなかった。思いの外、自分の気持ちが落ち着かなかったから。


  ◆7◆
















  ◇8◇

 葬儀の日は快晴だった。このところぐずついた天気が続いていたので、皆は口々に晴れて良かったと言い合った。天気の話題は逃亡手段としては有能だ。

 納棺も火葬も全て終わってから、最期を見取ったという友人が手に提げた紙袋を開けた。葬儀に出た全員に向けて、瑠璃子は手紙を遺していたという。ここに来なかった人間にまで、人づてに何通か届けたとも聞いた。やっぱり瑠璃子はすごい。俺だったら一通も残す度胸はない。自分よりも後まで残る手紙なんて。

 ひとしきり泣き終えたからか、瑠璃子の最期が安らかだったと聞けたからか、解散していく人込みは落ち着いたものだった。俺は散り散りになる集団から離れて、葬儀場の片隅に見つけた木陰に残った。作法に倣うだけで済むのは楽だったが、葬式自体に慣れていないので少なからず疲労感がある。植え込みの煉瓦の高さが丁度良かったので腰を下ろし、ネクタイを緩めると、ほっと息がもれた。やれやれ、ようやく一人になれた。

 瑠璃子の手紙は簡素なものだった。真っ白い封筒に、同じく真っ白な便箋が一枚。先に読んでいた連中が言うには、どの手紙もごく短いものらしい。長く書くだけの時間も余裕もなかったのだろう。聞いていたよりも、ずっと早く瑠璃子は逝ってしまった。「悟へ」で始まる手紙を見ていると、そういえば瑠璃子から手紙をもらうのは初めてだと思い至った。

「書くことがまとまらないので最後に回したのに、結局どう言葉にしていいのかわかりません。とりあえず、思い浮かぶことを書き並べようと思うので、散らかった内容になっても許してください。」

 最後に書いたからだろうか、瑠璃子の字は想像よりももっとずっとか細かった。

「付き合いが短いわけでもないのに、こうして手紙を残そうとして思い出されるのは、私が入院して以来の貴方ばかりです。どうやっても近いうちに別れるだろう時になって、ようやく、近付いてきてくれたのだと思うことにしました。最後の最後で付き合ってくれなんてとんでもないことを言い出されて、驚いたけど、楽しかったです。欲しかったのは責任感じゃなかったから、貴方の接し方は、正直なところ嬉しかった。貴方の唇は温かでした。ひっぱたいた跡がいつまでも残らないといいのだけど。」

 面と向かってだったら、一生かかったとしたって、きっとこんな台詞は聞けなかっただろう。それが可笑しく思えて、思わず自分の頬をさする。もちろん、跡なんて残っているわけがない。

「今までありがとう。たくさんありがとう。それと、先に逝くことに、ごめんなさい」

 こうして自分に関わった全員に別れを告げたのかと思うと、俺の見る目も悪くないと思える。最後まで返事はもらえなかったが、そんなことはたいして重要ではないように思えた。こんなに格好いい女もそういない。もう、どこにもいないかもしれない。この世のどこにも。

 目を落とすと、数行離れて追伸が書かれていた。

「実を言うと、貴方の頬に私の手形がいつまでも残ればいいと思ってる。」

 勘弁してくれ、と自分の耳にしか届かないボリュームで呟く。手紙に加えて手形まで残された日には、忘れてへらへら笑うこともできやしない。適度に忘れないと素直に生きてはいけないのだと、葬儀に参列した誰もが、誰かを亡くしたことのある誰もが知っているというのに。

 肩が重くてうつむいていると、雨でもないのに瑠璃子の字が滲んでいって、少しほっとした。この文字たちを全て滲ませられるくらいになれば、気持ちも洗い流されて、忘れることもできるだろうと。それまではこのまま泣き続けてもいいのだと、そう許されたような気がした。







  了








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