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Jack-in-the-box


 玄関からチャイムの音が聞こえ、私は素足のままぺたぺたとそちらへ向かった。一度きりのチャイムの余韻を耳の奥に感じながら出しっ放しのミュールをつっかけて玄関へ降り、すぐ左手に掛けてある鏡で自分の見目を確かめてから、ドアを開ける。

 眩しいほどの夕陽を背に、真っ暗な人影が浮かんでいた。橙と黒のコントラストを美しいと感じた気持ちは、一瞬で消えた。

「お久し振りです」

 記憶の中から切り取って抜き出したような声だった。私はその声に懐かしさを感じる余裕もなく、ただ棒立ちになった。

「……何のご用ですか」

 努めて平静を装い、睨みつけるようにして返す。

「社長のことで、お話があるのです」
「私に話すことはありません」
「私には話さなければならないことがあります。それに、渡すものも」
「聞きたくありませんし、何もいりません。私はもうあの人に用なんてないんですから」

 私はドアノブを掴み直し、構わず引いた。

「――先日、息を引き取りました」

 その台詞は私の動きを封じ込めた。ドアの縁を掴んで止める手が視界の隅に見えたが、それが働くまでもなくドアは半開きで止まっている。押すのも引くのもままならなくて、私は唯一動いた口を開いた。

「あの人、死んだの?」

 まるで他人の声だ。何も知らない子供がわけもわからないまま大人に怒られている時のような、気の抜けた声。自分のしたことや言ったことの重みもわからずに、ただ相手の言うことをおうむ返しする以外にできることが思い浮かばない。

「ガンが再発しました。見つかった時には、もう」

 彼は淡々とそう告げた。

「社長があなたにへと遺したものがあるのです。それをお渡ししないうちに帰ることはできません」
「それも、秘書の仕事ですか」
「社長からの最後の仕事です。必ず渡してくれ、と言付けられました」
「奥さんの前で?」
「……いえ。二人の時にです」

 つい、鼻で笑う。そりゃそうだ。いくら臨終の床でだって、あの人が奥さんに聞こえるところで私の名前を呼ぶわけがない。打ち明ける度胸もなく、ばれていることに気付く鋭さもなく、妻と子と会社をこよなく愛する人だから。どうしてあんな人が社長なんて大役をこなせたのか、よくわからない。結局、わからず仕舞いだ。

「……上がってください」

 じわじわと麻痺から解けた腕を押し、ドアを開ける。

「よろしいのですか」
「よろしいのですよ。いいからさっさと入ってください」

 丁寧も度を越すと癇に障る。若い男性が我が家を訪れるのは久し振りだったが、全くもって喜ばしいとは思えなかった。向こうも、若い女の部屋に押し掛けているなんて微塵も意識していないような事務的な面構えでいる。上等だ。失礼致します、という声を無視して台所へ入り、私は緑茶を淹れた。もちろん自分のために。

「粗茶ですが」
「どうぞお構いなく」

 薄っぺらなやり取りでテーブルに湯飲みを置き、彼の向かいの席に着く。早速お茶を飲むと、少し渋いのがわかった。

「あの人、どんなふうに逝ったんですか」

 湯飲みを受け皿に戻し、彼に目をやる。そういえば、お茶請けを用意するのを忘れた。どうりで口寂しいはずだ。お煎餅と羊かんとどちらがいいかと考え、うるさい音を立てるお煎餅にしようと決めても、彼は話し出さなかった。

「教えてください」

 彼の口が微かに開く。そのまま二度瞬きをしたので、私は一言付け加えた。

「もう嘘は沢山です」

 あの人の病気のことを私に隠した前科を持つ彼は、もう一度瞬きをして、口を開き直した。

「……ぎりぎりまで延命治療を施しました。本人たっての希望です」
「どんな様子でした?」
「あらゆるチューブで体と機械とを繋ぎ、最期まで、静かに横たわっておりました」
「意識は?」
「日に二時間ほどははっきりと。落ち着いた様子でした」
「家族は? 奥さんと娘さんはどうしてました?」
「どちらか一人は必ず付き添っておりました。ですから、私にあなたへのことを託すのは楽ではなかったはずです」

 私はお茶を一口飲み、席を立った。戸棚からお煎餅の袋を取り、中身を木の器に盛ってテーブルに乗せる。

「よろしかったら、どうぞ」
「お気遣いなく」

 再び席に着いてお煎餅の個包装を一つ破ると、袋ががさがさとひび割れた音を立てた。私はお煎餅を四つに割り、一つを口に放り込んだ。表面が唇に触れ、塩が染みた。

「運だけは良い人だったから」

 唇を舐め、私は独り言ちた。それからチューブに絡まってベッドに寝ているあの人の姿を思い浮かべた。あの人は満足げに笑っていた。

「そういえば、会社はどうなるんですか。社長がいなくなったわけでしょう」
「二代目がおります」
「二代目? でも、あの人の子供は娘が一人でしょう? あの子が継ぐの?」
「いえ、そのご主人が、です」

 私はお煎餅の欠片を取り出す手を止め、顔を上げた。

「お嬢様は、一年ほど前にご結婚なさいましたので……先日、お子様も産まれました。社長の亡くなる三日前の話です」

 一年前というと、私とあの人が縁を切った直後ということになる。だとすれば、私からした別れ話はあの人にとって僥倖だったのかもしれない。私はお煎餅を一欠け口に入れ、ぽりぽりと噛んだ。

「待望の初孫は、おじいちゃんの顔を見られた?」
「いえ。社長は写真で産まれてすぐの姿を見られましたが、直接会うことはできませんでした」
「そう……残念なことだわ。痛ましいくらい」
「全くです」

 抜け目なく声の調子を下げ、彼は目を伏せた。それからそのままの姿勢で湯飲みを両手で取り、美しい角度でお茶を飲んだ。私はある意味見惚れるような気分でそれを見届け、お煎餅をかじった。

「葬儀は先週執り行いました」
「そうですか」
「盛大に、とは申しませんが、社長の立場相応の規模のものを開かせて頂きました」
「でしょうね」
「お呼びしようかとも考えたのですが、何せ急なことでしたし、お互いのことを考えまして、事後報告の形を取らせて頂きました」
「賢明な判断です」

 私はお煎餅の最後の欠片を口に入れた。ゆっくりと噛むとお煎餅は鈍い音を立てながらぎゅっと潰れ、平たくなった。

 湿度が上がったな、とふと思った。もうすぐにでも一雨来るかもしれない。あるいは、この薄暗い空気がそう感じさせているのかもしれなかった。電気をつけるべきだと思ったが、どうにも体が重くて、私は黙っていた。

 空の袋を半分に畳み、受け皿の下に挟む。お茶は喉を潤すのに丁度良い温度になっていた。

 湯飲みの置かれる音に続いて、何やら探る音が聞こえた。見れば、彼が鞄を探っているのだった。そしてそれは、私がぎくりとする間もなく、手早く取り出された。彼は黙って小箱をテーブルに置き、私の方へ押した。

「社長からです」

 言わずもがなのことを言い、彼は手を引っ込めた。中身が何なのか確かめるまでもない、ビロードの手触りをした、あの小箱だ。表面の落ち着いた赤色が滑らかな光沢をたたえている。私は手を伸ばし、その肌を撫ぜた。指の腹にくすぐったく、胸が詰まる。手に取って開けてみると、想像した通りのぱこっという甘い音がした。

「……何か言ってましたか、あの人」

 箱の中には、見たことのない光の輪が佇んでいた。

「去年のうちに渡すべきだったのかもしれない、と」

 その暗い声があの人の声そのものに聞こえてしまい、私はほんの少し笑った。

「そうね、その通り」

 あの人のことだ、きっとこの指輪も緩いに違いない。私は人より少し指が細いのだと、いくら説明しても上手く飲み込めなかったのだから。女の指は全て九号だと思っているような、不器用な人だったのだから。

「でもきっと、あの人にそうできたはずがありません」

 私は箱を閉じた。音を立てないように、ゆっくりと。

「お骨だったら受け取ろうかとも思ったけど」

 そう独り言ち、箱を彼の方へと押しやる。

「もしよければ、あの人のお墓にでも持っていって、一緒に弔ってやってもらえませんか。でなければ、捨ててしまって構いませんから」

 彼は私に向けた視線以外を沈黙させていた。

「まさか、奥さんにあげるわけにもいかないでしょう。きっと、ぴったりでしょうけど」

 私は湯飲みを傾けてお茶を飲み干した。優しく微温んだお茶は、すいっと喉を過ぎていった。

「承りました」

 小箱を引き取る指を見ながら、私は湯飲みを置いた。細工菓子でも扱うようなとても丁寧な手付きで、小箱は再び鞄に仕舞われた。

「いいんですか」
「何がでしょう」
「あの人に、私に必ず渡すように言われたんでしょう?」
「ええ。ですから、渡しました」

 鞄を脇へ戻した彼は、たおやかな動きで湯飲みを取った。

「どうするかは、持ち主が決めるべきです」

 初めて、彼が人間に見えた。

「案外、融通が利くんですね」
「今回は、場合が場合ですから。それに、社長の本意と大きく外れているとも思いません」

 私はいくらか新鮮な心持ちで目の前の男を見た。如在なくお茶を飲み干すところだった。

「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」

 準備していた言葉を返し、湯飲みが置かれるのを見届ける。

「そろそろお暇させて頂きます。一仕事できましたし」
「大したお構いもできませんで」
「いえ。結構なお茶でした」

 いい加減呆れて笑い出しそうになるのをこらえつつ、彼に続いて席を立つ。

「秘書のお仕事、頑張ってください」

 何気なくそう言うと、彼はつと動きを止めた。その目を見て、私は次の言葉を待った。

「……もう、秘書ではありません」
「え? だって」
「二代目には新しい秘書がおりますので、私は退社させて頂きました。引継ぎももう終えています」

 私が二の句を継げずにいると、彼はほんの少し、本当にほんの少しだけ目を細めて、こう続けた。

「お嬢様は心の広いお方ですので、次の秘書は女性です」

 それが皮肉めいた冗談だと気付くのには多少の時間が必要だった。だって、まさか、彼が冗談を言うなんて思ってもみなかったのだから。私はひどく嫉妬深かったあの人の奥さんの顔を思い出しながら、つい笑ってしまった。

「そうですか。若い人?」
「ええ。お嬢様とそう変わりはありません。奥様は、多少気を揉んでおられたようですが」
「娘と婿に押し切られた、と」
「そういうことです」

 頭の中の奥さんの表情が苦虫を噛み潰したような顔になり、私は更に笑った。

「……まさか、あなたに笑わされるとは思わなかった」
「そうですか」
「そうですよ。そもそも、そういう人間らしいことを言うとは思えなかったもの」
「……秘書も、人間ですが」

 そんなことまでしれっとした顔で答えるものだから、私は笑うのを止められなかった。

「ホテルで裸の私を見た時だって、顔色一つ変えずに追い出したくせに」
「……あれは、仕事でしたから」

 なるほど。仕事でなら何を見ようと動じずにいられる、と。

 私は目でだけそう言うと、彼は幾分居心地が悪そうに咳払いをした。それを合図に彼が姿勢を正したので、私もそれに倣って背筋を伸ばした。

「もう会うこともないでしょうが……お元気で」

 そういう彼の目は柔らかで真面目だったので、悪い気はしなかった。

「あなたも」

 浅く頷き、彼はドアを開けた。と、白くけぶった空気が細く腕に当る。私はそこでようやく外に雨がちらついていることに気付いた。それは彼も同じだったようで、音も立てずに降る雨に向けて顔を上げている。

「傘、貸しますよ」

 ドアの隙間から細やかな雨が玄関に入り込み、地面に薄らと浮かぶ。涼しい風を感じながら、私は下駄箱に立てかけたままのビニール傘を取り上げた。

「いえ、これくらいなら大丈夫ですから」
「案外、こういう雨の方が濡れますよ」

 それに、と続けて、私はちょっとばつが悪い思いを噛み締めた。

「……これ、骨、曲がってますから。どうせ買い換えようと思っていたし、使い捨ててください」

 そう言って透明なビニール傘を彼に押し付ける。雨は少しずつ吹き込み、頬にひんやりとして心地良かった。

「それじゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます」

 律儀に頭を下げながら、彼はそう言った。みすぼらしい贈り物に改まった礼をされるのは、どうにも具合がよろしくない。私は、いえ、とだけ返した。

 必要なだけ開けられたドアから、彼は外に出る。

「それでは、失礼致します」

 彼が礼儀正しい角度で頭を下げるのを見て、私もつられるように礼をする。ドアの閉まる音が聞こえて、頭を戻した時にはもう彼の姿は消えていた。

 革靴の底が階段を叩く甲高い音が聞こえる。出し抜けにいたずら心が出て、私はこっそりとドアを開けた。音を立てないようにミュールを履いて軒下まで出ると、階段を下り切った彼の姿が見えた。恭しい手付きで下げた傘を開いている。私は少しだけ身を乗り出した。

 歪んだ傘を見る横顔が、不意にほぐれた。

 私がぽかんとしているうちに、彼は不格好に折れ曲がった傘を差し、颯爽と去っていった。その背中が驚くほど真っ直ぐで、我に返った私は吹き出した。

 しっとりとした服の裾を揺らしながら、玄関に戻ってドアを閉める。夕陽の沈み切った部屋は薄暗い。カーテンを閉めようと進めた足を、私は止めた。右手にある鏡に目が止まったからだった。

 鏡の中の私は、いつになく子供っぽい笑みを浮かべていた。ついさっき見たばかりの、彼の横顔のように。







  了









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