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僕らの睡眠事情


 寝入り端を携帯電話の着信音に起こされた私は、かけてきた相手の名前を見て更に眉間に皺を寄せた。暗闇の中で眩しいくらいに光るディスプレイには、間違いなく彼女の名前がある。不吉な匂いがして、私はそのまま彼女の名を見つめた。程無く留守番電話に切り換わる。受話口に、耳を寄せた。

「……今から行くから」

 それだけ残して、電話は切れた。ディスプレイの上で、日付けが変わる。休日の朝を寝過ごすと決め込んで目覚ましをオフにしてから、三十分も経っていなかった。欠伸をすると一度では止まらず、涙がこぼれた。

 私は丁重に携帯電話を折り畳んで枕元に戻すと、再び布団をかぶった。丁度良く温まった毛布がぬくぬくと眠気を誘う。全て夢だということにして目を閉じると、すぐに意識は遠ざかった。

 夢の中で、私はどうやら車を運転しているようだった。私自身は免許を持っていないのだが、まあ夢なら何でもありである。自動車の走行音が止まり、無事に停車を果たした私は車を降りる。ドアを開閉する音がはっきりと耳に残った。私はどこへ行こうとしているのだろう。

「――伊原君」

 夢の中で、彼女が私の顔を覗き込んでいる。どこまでも私の安眠を妨害するつもりらしい。

「……大人しく眠らせてくれよ……」
「うん、伊原君が寝るのは別にいいんだけど、私はどこで寝ればいい?」

 私はがばりと体を起こした。すぐ近くからきゃっという短い悲鳴が聞こえた。

「す、澄香?」

 現実の闇の中に、頷く澄香がぼんやりと見える。

「おはよう」
「おはようって……おい、どうやって入ってきたんだ?」
「鍵、開いてたよ。危ないから閉めといたけど」

 未だに心臓がばくばくと脈打っている。澄香のあっけらかんとした声があまりに不釣り合いで、私はうなだれた。全くの不本意ながら、目は完全に覚めてしまっていた。

 ベッドを下りて澄香の脇を抜け、電気をつける。眩しさに目をしばたたかせると、澄香が同じようにまばたいているのが見えた。

「……それで、一体こんな時間に何の用?」

 万感の思いを込めて問う。

「留守電、聞かなかった?」
「……いや、だから、何の用なの」

 自分が留守番電話に吹き込んだ内容の意味のなさに気付いた様子で顔を上げると、澄香は一気に表情を歪めた。

「泊めて」
「え?」
「ここに、泊めて」

 澄香は私に大きな目を向け、すがるように見上げてきた。その顔は泣き出しそうにも見える。

「いや、そんな、泊めてって……」
「お願い! ……私、帰りたくない」

 先程とは全く違う理由で心臓が騒いだ。

「……本気で言ってるのか?」
「冗談でこんな時間に押し掛けたりしないよ」

 そうは言っても相手は澄香である。仮に冗談でなくとも、冗談としか思えない沙汰を本気でやる性質を持っている。今まで何度彼女によって面倒に巻き込まれたか知れない私は、入念に顔色を窺った。以前、同じ表情で「金魚にチョコレートをあげたら動かなくなった」などどいう相談を持ち掛けられたことを思い出した。

「……僕らはそんな関係じゃないよ。そうだろ?」
「……そんなこと言わないで」

 澄香の目が潤む。それがひどく幼く、頼りなさげに見え、私はついぐらついた。長い睫毛の伸びる瞼が震えて上下する度、涙の膜は粒となって零れ落ちそうになる。澄香は私の胸元に手を伸ばし、その細い指で控え目にすがった。今までそんなふうに触れたことのなかった澄香の手は、折れそうなほど華奢だった。

「お願い、伊原君。私、私……」

 澄香は少しうつむくと、言葉を飲み込んで目をこすった。声になり切れなかった吐息が、整った唇の隙間から柔らかに吐き出される。私は自分でも気付かないうちに、その震える肩を抱こうと手を伸ばしていた。

「……私、あんなところに帰りたくないよ」

 自然と、手が止まった。

「……澄香?」
「伊原君にまで断わられたら、もう車で寝るしかなくなっちゃう……」

 自然と、手が垂れた。澄香は何の変わりもなく眉を下げたままでいる。私は澄香の手を取り、胸から離した。

「……とりあえず、座って。話、聞くから」

 ほっとしたようながっかりしたような複雑な気分で台所に行き、私はカップを二つ取った。片方にはミルクを注いでレンジに入れ、もう片方にはインスタントのコーヒーを入れる。電気ポットからお湯を注ぎ、カップを揺らして混ぜているとレンジが鳴った。両手にカップを持って戻ると、澄香は膝の上に乗せたクッションを指先でいじっていた。

「私、コーヒー飲めないよ」
「知ってるよ」

 ホットミルクの方を渡してやり、向かいに座る。間のテーブルは冷ややかに佇んでいた。

 とりあえず、ブラックを一口含む。寝起きの胃には少々染みるが、これくらいでないと意識のスイッチが切り換わらない。澄香はというと、表面の膜が唇に張り付かないようにカップを器用に傾けてミルクを飲んでいた。ミルクが熱いのか、それとも膜をどかしているのか、唇を尖らせてふうふうと吹いている。

「で、何があったの」

 澄香は尖らせた唇をそのままに、私に向けて恨みがましそうに目を上げた。

「……ユウタが、私のアパートに女の子を連れ込んでたの」

 よくよくアクシデントに事欠かない女だと思う。それでもまあ、荒れる理由としてはまともな方だ。

「アルバイトが終わって、くたくたになって帰ったら、二人でベッドに入ってたの。信じられる? 私のベッドにだよ? もう、あのベッドじゃ寝れないよ」
「……ベッドのことはいいよ。それで、二人はどうした?」
「びっくりしてた」
「そりゃ、まあ……じゃあ、君はどうしたの」
「怒ったよ。当たり前でしょ」
「……それで、うちに来たの?」
「うん。他にも何箇所か回ったんだけど、皆に断わられたから。伊原君なら泊めてくれるかなって思って」
「……あ、そう」

 いやに白けた気分でカップに口をつける。安物のインスタントコーヒーが喉を過ぎ、ほう、と息を吐く。味にうるさい口でなくて良かった。もしそうだったら、早々に我慢の限界を越えてしまっただろう。もう一口コーヒーをあおってから澄香を見ると、再びミルクに集中していて私には目もくれていなかった。

「……とにかく、まあ、今から帰れって言っても帰る気なんてないんだろ?」

 澄香は無言のまま頷く。今日の最大風速になるだろう溜め息が出た。日が明けて間もないというのに、散々だ。

「……一晩だけだぞ。朝になったら帰るって約束できるか?」
「帰りたくないってば」
「じゃあ、他に泊まれそうな場所を探すんだ。とにかく、うちには一晩だけだ。それが嫌なら、車で寝るんだな」

 不機嫌も手伝って少々きつめにそう言うと、澄香は一切納得していないような面構えで「わかった」と頷いた。

 それから十分もしないうちに、カップを空にした澄香は眠そうに目をこすっていた。

「伊原君、ベッド、使ってもいい?」
「……ベッドは嫌なんじゃなかったか?」
「だって、うちのベッドじゃないもの」
「……好きにしろよ、もう」

 二杯目のコーヒーを飲んでいた私を尻目に、澄香はいそいそとベッドにもぐり込んだ。そしてベッドの中でへへへと笑うと布団を引き上げて顔を埋めた。おやすみなさい、というくぐもった声が聞こえた後には、もうすぐに寝息を立てていた。ごく気持ち良さそうに。

 泣いてすぐにこんなに安眠できるような女の涙は、当てにならない。

 私は諦めをつけるためにもう一度大きく溜め息を吐き、三杯目は濃く淹れようとカップを空にしながら台所に立った。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 翌朝は、自分のくしゃみで目が覚めた。それから甘ったるい匂いが鼻をついた。

 体を起こすと、節々が痛んだ。断じて歳のせいではない。フローリングの上には薄っぺらいマットしか敷いていないのだ。私には布団すらかかっていない。眉間を押さえながらベッドを見ると既にもぬけの空で、きちんと整えられていた。

「あ、おはよう、伊原君」

 覚醒する気配もない頭を声のした方へ向けると、フライパンを持った澄香が台所に立っていた。

「朝ご飯、もう少しでできるから。ちょっと待ってて」
「……何、作ってるの?」
「これ? フレンチトースト。甘くて美味しいよ」

 そりゃあ澄香の口には美味かろうが、私にはあいにく朝っぱらから甘いものを食べる趣味がない。昨夜コーヒーを飲み過ぎた胃が、ぎゅっと痛んだ。

 洗面所で着替えを済ませ、顔を洗って戻ると、テーブルに二人分の朝食が並べられていた。こんがり焼けたフレンチトーストに、グラスになみなみと注がれた牛乳。それだけだ。

「料理は得意なんだよ」

 確かに綺麗な焼き目のフレンチトーストだったが、残念ながら、問題はそこではない。だが私に言い返すだけの気力はなく、大人しく席に着いた。バターと砂糖の焼けた匂いが、むわっと顔を覆った。

「召し上がれ」

 白米が恋しかった。

 任務をこなす気分で食事を終えて水を飲んでいると、狭い部屋内に電子音が鳴り響いた。聞き覚えのないメロディである。隣で食器を洗っている澄香を見ると、泡だらけの手をそのままに振り向いて一点を睨みつけていた。

「……出ないの?」

 携帯電話の着信音だろうと思い、そう尋ねてみる。澄香はもう少し睨むと乱暴に手を洗って流し台を離れた。私はそれを横目に水を飲み干し、洗いものを引き継ぐことにした。

「……もしもし」

 生欠伸を噛み殺しつつ、恐ろしく不機嫌な声を背中で聞く。相手が誰なのかは聞くまでもなかった。確か、ユウタ、だったか。

「……言い訳なんか聞きたくない。……悪いと思ってる? それ、自分のしたことわかって言ってるの?」

 シャツの袖を捲り、投げ出されていたスポンジを取る。充分過ぎるほどの泡で皿とグラスを洗いながら、私はこっそりと聞き耳を立てた。

「私のうちで、私のベッドで、何をしたか忘れたわけじゃないでしょ? 私の気持ちにもなってよ。あのベッドで寝る度に思い出すんだから、きっと。もう信じられない」

 澄香にしては案外普通の会話だな、などとぼんやり思う。確かに澄香の立場にしてみればたまったものではないだろう。目撃するにしても、シチュエーションとしては最悪だ。澄香の話が真実なら、だが。

「……もういいよ、話すことなんか何も……え? 今?」

 二人分の食器をすすいでいると、不意に昨夜の澄香の涙目を思い出してしまった。澄香は澄香で大変だったんだよな、と思い返すと同時に頭を振る。安眠を妨害した相手に同情したのでは世話がない。

「……一緒に? ……わかった」

 何やら和解の気配がする。このまま片がついてくれれば言うことはない。洗い終えた食器を拭きつつ、私は密かに祈った。

「駅なの? 電車? だったら……」

 ついでに、できることならそのまま澄香を引き取ってもらえないだろうか。そうなると申し分ないのだが。

「うん……うん……そう、コンビニを右に曲がって……そうしたら、ちょっと綺麗なアパートが見えるから。白いアパート。その一階の、伊原って書いている部屋に……」

 自分の名前が聞こえた瞬間、私は食器棚の前で棒立ちになった。

「うん、そう……じゃあ、待ってるから」

 限りなく、嫌な予感がした。

「伊原君」
「……何?」
「あのね、ユウタが今からここに来るって」

 食器を落とさなかったのは奇跡に近い。とりあえず澄香を無視し、食器を仕舞う。どうにか目眩をこらえて向き直り、私は澄香を見据えた。

「……澄香を迎えに来るんだよな?」

 空々しい自分の声に日常を取り戻すだけの力がないことは、悲しくなるくらい明らかだった。

「ううん、ここで話がしたいって」

 澄香はこれっぽっちの悪意もなく、ごく自然にそう言った。

「……ここで?」
「うん。だって、直接話したいって言うんだもの」
「それにしたって場所は選べるだろ! 一体何だってここを使うんだよ?」
「だって悪いのはユウタの方じゃない。向こうが出向くのが当然でしょ?」

 そういう問題じゃない、という代わりに私は台所を離れた。澄香に何を言おうと無駄だ。ちょっとでも甘く見た私が馬鹿だったのだ。

「伊原君? どこ行くの?」
「僕のことは気にしなくていいから」

 澄香の声を振り切り、玄関まで出る。

「二時間くらい出てるから、好きに使っていいよ」
「やだ、一人にしないで!」

 声を上げるのとほぼ同時に、澄香は私の肩にすがりついた。昨夜と同じように、潤んだ瞳で私を見上げている。これだ、これに騙されたばかりに……。

「僕がいたって仕方ないじゃないか。澄香とユウタとかいう二人の問題だろ?」
「だって、二人じゃないんだもの」
「……どういう意味だよ」
「ユウタ、例の彼女も連れてくるって」
「……はあ?」
「二対一じゃ負けちゃうよ。だから伊原君にもいて欲しいの」

 澄香も澄香だが、彼も彼である。浮気相手を連れて何の話をしようというのだろう。

「……いても、役に立たないよ」

 というか、そんなややこしい修羅場に巻き込まれるのは御免である。

「そんなこと言わないで……」

 澄香の声は涙で滑り、語尾が裏返った。震えているようにも聞こえる。

 どうして澄香に、この澄香に、わけもなく人の罪悪感を掻き立てる才能が備わっているのだろうか。こんなにたちの悪い組み合わせはないのに。

「ねえ……」

 そもそもこの目が悪い。近視気味だか何だか知らないが必要以上に潤んでいて、いかにも憂わしげに上目遣いをして……実際問題、放っておいてもこたえも懲りもしないのが澄香なのだ。今まで多々巻き込まれてきた身としては、いい加減に苦言を呈して戒めるべきなのかもしれない。

 私は意を決し、口を開いた。

「……駄目?」

 澄香の華奢な指が、私の腕にきゅっとしがみつく。

「伊原君がいないと、私……」

 そのまま私を引き寄せるように、澄香はうつむいた頭を肩に当ててきた。すぐ目の前にある、緩いウェーブのかかった髪から、ほのかに甘い香りが漂っていた。そして澄香は辛抱強く黙り込み、私を引き止めた。

 ……だから、どうして澄香にこんな才能がある?

「……とりあえず、少し離れてくれないか」

 顔を離した澄香があからさまに傷付いた目を私に向ける。

「……わかったから。一緒に話聞くから、少し、離れて」

 私が言い終えるのと同時かもっと早くか、澄香はぱあっという音が聞こえるのではないかと思うほどに破顔した。

「ありがとう、伊原君!」

 そしてそう言うや否や私から体を離し、さっさと居間へ戻った。溜め息を吐かずにいられるわけがなかった。履きかけていた靴を脱いだ私は、重たい自己嫌悪を背負ってその後を追った。

 ドアチャイムが鳴ったのは、それからたっぷり三十分は経ってからだった。それまで退屈そうに船を漕いでいた澄香が、ぴんと背筋を伸ばした。来るべき戦いに備えて身構えるばかりで、相手を出迎える気はさらさらないらしい。私は渋々玄関に立った。

 若い。それがユウタの第一印象だった。がっしりした体格ではあるが、だぼだぼのジーンズが地面に裾をこすらせている。一見大人しそうな澄香とは対照的に、若さを持て余してちょっとやんちゃしてみました、といった風貌だ。まさか十代ではないだろうが、そう言っても通じそうな雰囲気ではある。

「すんません、えっと……澄香、いますか?」

 見た目に反して低めのよく響く声だったが、当然というべきか、幾分上擦っている。

「……どうぞ」

 心底追い返したい気持ちを抑え込んで言う。ユウタはひょこっと頭を下げると、その長身を屈めながら部屋に上がった。そこでようやく、連れの女性の姿が見えた。完全にユウタの陰に隠れてしまっていたらしい彼女は小柄で可愛らしく、愛玩動物のような印象を受けた。何かに似ていると思い、すぐさまチワワに思い当たった。

「……お邪魔します」

 チワワの彼女は丁寧にお辞儀をし、二人分の靴を揃えてユウタの後に続いた。そして澄香と対峙して固まっているユウタの後ろで止まった。

「……とりあえず、座って。コーヒーでいいかな」

 余裕の一つや二つ見せておかないと、私自身が落ち着けなかった。

「あ、すんません」
「お構いなく」

 緊張しているのか恐縮しているのか(両方だろうが)、二人はぎこちなく澄香の向かいに並んで座った。

「私、コーヒー嫌だよ」
「……わかってるよ」

 普段はろくに使いもしないティーセットを出して、コーヒーを三杯とティーバッグの紅茶を一杯入れ、居間に戻る。張り詰めた空気に歓迎された。二対二になるのは正直を言えば勘弁願いたかったが、かといってジャッジの位置につくのも居心地が悪かったので、結局澄香の横に着いた。カップを並べる間、誰も一言も発しなかった。

「……僕のことは気にしないで、話してくれて構わないから」

 とりあえず、私はユウタに話を振ってみた。沈黙が重過ぎる。すると彼はわざわざ私の方へ体を向け、頭を下げた。

「巻き込んじまって、すんません。すぐ終わらせますから」

 なかなか殊勝な青年じゃないか、と思ったのは一瞬だった。

「――すぐ終わらせるって何よ。あんなことしておいてさっさと帰る気なの?」
「何だよ、時間かけたって伊原さんの迷惑になるだけだろ。別に謝らないなんて言ってねえし」
「だから、誠意を感じないって言ってるの。心がこもってない。口だけなら何とでも言えるでしょ」
「ちゃんと悪いと思ってるからここまで謝りに来たんだろ? ちょっとは俺の言うことも信じろよ」
「何よ、悪いのはそっちなんだから出向いて謝るくらい当たり前じゃない!」

 とりあえず、コーヒーを一口すする。一杯で、足りるだろうか。

「伊原君も何か言ってやってよ!」
「え」
「何言ってんだ、伊原さんには関係ない話だろ」
「そんなこと言って、言い負けるのが怖いんじゃないの? 伊原君、凄いんだから。大学の先生なんだから。伊原君にかかったら、あんたなんてすぐに頭下げさせられちゃうんだからね」

 おいおい、と言ったつもりだったが、喉がカラカラで声にならなかった。澄香の言葉はしっかり威力があったらしく、ユウタはかっとなった勢いで私を見た。睨んだ、と言ってもいいかもしれない。

「……何か言うには、いまいち状況がわからないんだけど」
「昨日言ったでしょ。私が帰ったらユウタとこの子がベッドにいたって」

 間髪を入れずに澄香が言う。

「……この話は、間違いないんだね?」

 ユウタにそう問うと、渋りながらも頷いた。

「だったら……君の方が悪いと、僕も思うけど」

 隣からの眼力に負け、全面的に、と付け加える。向かいを見ると、眉間に不満を目一杯寄せたユウタが、恨めしそうに私を見ていた。がたいが大きいせいか、結構な迫力がある。

「あー、だから、つまり……正当な理由があるなら、聞かせてもらいたいんだけど」

 そう持ち掛け、一旦コーヒーに救いを求める。正直なところ、一息に飲み干したとしても喉が潤うとは思えなかったが。

 ユウタは一度考えるような素振りを見せ、視線を落とした。それを合図にしたように女性二人がカップを取る。また沈黙だ。溜め息が聞こえてしまわないようにするのも一苦労な空気の中、女性陣のカップが置かれる音に続いて、ユウタは口を開いた。

「……俺たち最近全然会ってなかったし、別れるかどうかって話まで出てたくらいなんすよ? 寝るのくらい大目に見てくれてもいいじゃないすか」

 おいおい、と今度は声に出た。

「とてもじゃないけど、そんな理由が正当だとは思えないよ。第一、それならどうして澄香の家を選んだんだ? そんな酷な話なんてないじゃないか」

 私がカップを置く音は思いの外大きく響き、ユウタはこっそり畏縮した。

「……金がなかったんです」
「金?」
「俺が住んでるの、この辺りじゃないから。片道の交通費でほとんどすっからかんになって、ホテルにも行けないし、じゃあって思って……」
「だから、どうしてそこで澄香なんだよ。彼女がどんな思いをするか、考えなかったのか?」
「もっと遅く帰ってくると思ってたから……」

 私は思わず頭を抱え、盛大な溜め息を吐いた。今日の最大風速を更新だ。呆れて言葉が出て来ない。ばれなければいいという話ではないし、そもそも罪悪感があるかも疑わしかった。澄香が怒るのも当然だ。昨日の涙は本物だったのだ。

「――いい加減にしろ」

 私自身、久方振りに強い怒りを感じていた。

「そんな話、言い訳にもならない。直接会おうと思ったのは、弁解するためか? 澄香に対して済まないと思う気持ちがあってのことだと思ったのは、僕の勘違いだったってわけだ」

 言い始めると歯止めが利かず、私は勢いに任せて続けた。

「それに、隣の彼女のことだって理解できない。ここに連れてきて、どうしたかったんだ? こんなタイミングで会わせて、一体何がしたかったんだよ」

 ユウタはすっかり意気消沈し、頭を垂れていた。何かを言い返そうとする様子もない。吸い込んだ空気が、いやに冷たく感じた。

「……あの」

 三人分の視線が、声のした方に集まった。声の主は微かにびくつき、身を縮めた。例の、チワワの彼女だった。

「……すみません、私が無理を言って連れてきてもらったんです」
「美由」

 隣のユウタが、気遣うような優しい声を上げた。ミユ、というのが彼女の名らしい。

「私も謝るべきだと思って……それに、澄香さんに会ってみたかったから」

 美由は澄香の方を向き、頭を上げた。それに倣って澄香も美由を見ている。

 と、不意に美由が目だけを私に向けた。意味深長な視線はほんの一時私に留まり、すぐに澄香に戻った。それはいかにも申し訳なさそうな目で、私の中に警鐘を鳴らした。

「悠太君から、よく話に聞いてました。……可愛いお姉さんだって」
「……可愛い?」
「み、美由、何言ってんだよ」
「だって、よく話してくれるじゃない。年上なのに放っておけないところがあって、でも頼られると嬉しいんだって」
「……本当に?」
「悠太君、お姉さん大好きだから。ケンカすることも多いけど、最後はいつも味方してくれるんだって……だから、私も今度のことで甘えてしまって……」
「……悠太、本当?」
「……姉ちゃん以外に頼れる人がいなかったっていうのは、本当。美由は家族と住んでるから、他に行ける場所なんかなかったし」
「なあんだ、それなら早く言ってくれれば良かったのに。うちに来る前に連絡してくれたら、私だって……伊原君? どうしたの、顔色悪いよ?」
「……別に。少し、疲れただけ」

 私はぐったりした体をどうにか支え、頭痛をこらえるために目頭を押さえた。体中から力が抜け、座ったままでいることすらつらい。

「大丈夫?」

 澄香の声が遠くに聞こえる。目を上げると、澄香と悠太は同じようにきょとんとしていた。悪意のない、自覚のない顔だった。ただ一人、美由だけが事情を察した慈悲深い表情で心配してくれていた。私の溜め息の最大風速記録が、更に伸びた。

「……大丈夫。そっちも、とりあえず解決したと思っていいのかな」

 我ながら弱々しい調子でそう尋ねると、澄香は意気込んで悠太を見据えた。悠太が儀式ばった動きできっちりと頭を下げる。

「すんませんでした」
「よろしい」

 至極満足げに澄香は笑った。

「さすが伊原君。こんなに簡単に悠太が反省したの、初めてだよ」
「……あ、そう」

 嬉しくも何ともなかった。間違いなく、今日は厄日だ。

「……それで、あの、姉ちゃん?」

 悠太は頭を半分戻した中途半端な姿勢で澄香を窺った。言われて見れば澄香と似てなくもないが、ちょっと気味の悪い上目遣いである。

「……金、貸して欲しいんだけど」
「貸してって……本当にすっからかんなの?」
「そう言ったろ? 俺たち、半年会ってなくてさ。それで電話でちょっとケンカみたいになっちゃって。その勢いでこっち来ちゃったみたいなもんだから、手元にあった金引っ掴んできただけなんだよ。帰ったら返せる……と思うし……頼むよ。明日はバイトも講義もあるし、帰んなきゃやばいんだって」
「そんなこと言われても……お金、ないよ」
「片道の切符代でいいんだって。駅から家までは歩いて帰っから」
「だから、本当にないんだってば! お給料日、明日だもの」

 それを聞き、悠太の顔から見る見る血の気が引いた。

「マジかよ……た、頼むよ。卒業かかってんだって。一浪した上に留年なんて、父ちゃんに何言われるか……」
「ないものはないってば! 無茶言わないでよ!」
「悠太君、私、少しなら出せるけど……」
「何言ってんだよ、美由に借りるなんてみっともない真似できるかよ。……そうだ、それだったらうちに電話して、銀行に降り込んでもらって」
「悠太、今日、日曜日」

 悠太は本格的に顔色をなくしてうなだれた。全く、こいつらは、どこまで厄介を引き起こせば大人しくなるのだろうか。

 私は立ち上がって鞄を取り、菩薩の心で財布を開いた。

「……これ、使って」

 テーブルに一万円札を一枚置く。悠太の目は輝き、そこに釘付けになった。

「こんなに! 駄目っすよ、俺、こんなところまで伊原さんに甘えられないっすよ!」
「いいから、これ使って、帰ってくれ」

 平穏の価値としては安いくらいだ、という気分だった。

「伊原さん……!」

 突如、悠太は身を乗り出して私の手を両手で取った。

「ありがとうございます! 帰ったら絶対に返します! 絶対に! ありがとうございます、先生!」
「いや、先生って……」
「じゃあ、教授!」
「いや、僕はただの講師だから……」
「じゃあ……じゃあ、兄貴!」
「やめてくれ! 不吉過ぎる」

 興奮冷め遣らぬ悠太は冷めたコーヒーを一気にあおり、もう一度大仰に頭を下げた。

「この恩は忘れません!」

 忘れてくれ、と痛切に願った。

 憔悴し切った体も、悠太たちを送り出すためなら動かせた。

「本当に、すみませんでした。理由はどうあれ、澄香さんの部屋で軽はずみなことをしてしまって」

 はじめに玄関で見た時の印象に反して、美由はしっかりとした口調でそう言った。根はよっぽど芯の通った子であるらしい。でなければ悠太の恋人なんて大役は勤められないのかもしれない。

「伊原さんにも、ご面倒おかけしました。何だかややこしいことに巻き込んでしまって……」
「いや、本当に、もういいから」

 この子には、ある意味で助けられたと言えるのかもしれなかった。姉弟だと気付かないまま突っ走っていたら、とんだ恥をかくところだったのだから。礼をするつもりで目くばせすると、美由は温和な笑みを浮かべた。

「……伊原さん、人がいいって言われません?」
「……どうして?」
「私、よくお人好しだって言われるんです」

 そう言うと、美由はすぐ近くに立つ悠太をちらと見た。悠太も気付いて見返したが、その意味までは汲み取れなかったらしく、薄らと怪訝な表情を浮かべるだけだった。

 私もつい、澄香を見やった。私を見上げる澄香は、やはり不思議そうに見返してきた。血を分けた姉弟だけあって、それはとてもよく似ていた。

「……しょっちゅう言われるよ、僕も」

 そして私と美由は見合って少し笑った。隣にいるのがこれでは、お人好しといわれても仕方がない。

 揃って頭を下げた二人が手を繋いで去ると、部屋は急に静まったようだった。何か私の気を張らせていた糸がふっつりと切れたようで、ベッドに倒れ込むともう二度と動けないのではないかと思えた。少なくとも、今日一日分のエネルギーは使い果たした感がある。

「いい子だね、美由ちゃん。あの子なら悠太が相手でも大丈夫そう」

 ベッドの端にもたれて座る澄香に、うん、とだけ返事をする。昨夜安眠できなかったせいか、ベッドはえらく心地良く感じられた。

「……ねえ、伊原君」

 澄香は膝を抱き込み、首だけをこちらに向けた。

「今日も泊まっちゃ駄目?」
「……昨日、帰るって約束したろ。一晩経ったんだから、大丈夫だって」
「だって二人はうちに泊まったんだよ? 一晩って言うなら、今夜だよ」

 枕に半分埋まった頭が控えめな悲鳴を上げる。今日の安眠も手放さなければならないなんて、あんまりだ。しかもこの疲労を抱えた状態で、だ。明日は仕事もあるというのに。

 だがあいにく、澄香を説得する余力さえも、今の私には残っていなかった。

「……わかったよ、泊めればいいんだろ?」

 澄香は子供のようににっこりと微笑んだ。

「だから伊原君って大好き」

 ……これだからお人好しだ何だと言われるのだ。私は悔し紛れに、ふん、と鼻を鳴らしてみせた。

「……せめて布団くらいは貸してくれよ」

 頷いた澄香は立ち上がり、テーブルの上からてきぱきとカップを取った。

「コーヒー淹れてあげるね。ミルク、貰ってもいい?」
「好きなだけどうぞ……」

 何だって半日足らずでこうも疲れているのだろうか。一週間振りの休日だというのに、ちっとも休まった気がしない。

「伊原君」

 首をねじり、声の方を向く。

「ホットミルクを作る時は、今度からお砂糖入れてくれると嬉しい」

 そう言うと澄香はとびきり上機嫌に満面の笑みを浮かべた。私の、今日最大であってくれと祈らずにはいられなかった溜め息は、枕に吸い込まれた。







  了








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