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僕らの世間話


「あのね、彼が、動かないの」

 ある深夜、挨拶もそこそこに携帯電話の向こうから聞こえたのは異常なほど軽快な声だった。

「動かないって?」
「だから、いくら呼んでも動かないの。それで、どうしたらいいかと思って」

 元々彼女にはいかれている印象があったが、いよいよか、と私は思った。口に出してやろうかとも思ったが、彼女にこういう類の冗談が通じるとは思えなかったので、やめた。

「……どうしたらいいかとって?」
「だって、私はお医者さんじゃないし。さっきから呼んでるのに返事をしてくれないの、彼ったら。仲直りは昨日したのに。それで、こういう時って誰に連絡したらいいのかわからなくて……彼、どうしたら起きてくれると思う? 男の人の考えは男の人に聞いたらわかるかなって思ったんだけど」

 私は溜め息混じりに頭を振った。彼女は何につけても本気で喋るので、私には慎重に言葉を選ぶ必要があった。

「……とりあえず、今、どこにいるの?」
「うち。私の」

 さも、当たり前じゃないの、とでも言うような呆れた響きのある声だった。

「君のアパートに、君と、彼がいるわけだ」
「そう」
「で、彼は動かない?」
「そう。どうしたらいい?」

 私は再び頭を抱えた。目の前に積まれた卒業論文だけでも頭が痛いのに、それに加えてこれでは手に負えない。

「えーっと……そうだな、さっき君が言った通り、医者に任せてみたらどうだろう」
「お医者さんに? 救急車を呼べばいいの?」
「いや、それじゃ騒ぎになるから……身近にいないの? その、専門家が」

 私は以前、彼女から似たような相談を受けた時のことを思い出していた。その時の「彼」は大きな熊のぬいぐるみで、背中が割れて綿が見えているのが問題だった。その時は、彼女の数少ない友人である、裁縫で生活している女性が医者だった。

「駄目。いない」

 少し考えるような間が空いた後、彼女はそう答えた。

「じゃあ……動かないのなら、お葬式をするとか」

 私は机に肘をつき、持っていたペンを指の上で回しながらそう言ってみた。

「それは……まだ、先の話じゃない? 警察とか、病院に連絡するものじゃないかと、少し考えたのだけど」

 私はペンを落とした。

「……警察?」

 耳元に彼女の頷く声が弱々しく届いた。穏やかな話ではない。

「……あの、彼の名前を聞いてもいいかな」

 内心、聞きたくなかった。私はペットの金魚の名前やテレビ画面の向こうにいる人物の名前が出てくることを祈った。

「マサキよ。あなたも知ってるでしょう」

 私は目眩に耐えるために黙り込んだ。彼女が不安げに私の名を呼ぶのを三度ほど聞いてから、口をこじ開けた。

「……マサキって、君の恋人の?」
「そう。あなたの後輩の、マサキ」
「……マサキが動かないって?」
「そう。血がたくさん出てて、倒れてるの」

 私は血の気が引くのを感じた。

「のん気に電話なんてしてる場合じゃないじゃないか!」
「だ、だから、どうしたらいいのかわからなくて……」
「警察を呼ぶんだよ、今すぐ切って!」

 不意に、私の脳裏にある映像が浮かんだ。血を流して倒れている生前のマサキと、眉を下げてそれに寄り添うようにしている彼女である。体中の血液が一気に下降する感覚に、私はどうにか対抗しなければならなかった。

「待って! 切らないで!」
「切らなきゃ警察に通報できないだろ!」
「お願い! 一人にしないで!」

 私は椅子から立ち上がり、じれったく歩き回った。肘が書類の山に当たり、ばさばさと音を立てて床を散らかしたが、構っている余裕はなかった。

「一体僕にどうしろって言うんだよ?」
「それは……わからないけど……で、でも、切らないで。お願い。怖いの。私、私……」

 最後の方は声が震えて、よく聞き取れなかった。泣いているのかもしれない。私はできるだけ丁寧に声を出した。

「とにかく、警察を呼ぶんだ。それが先決だよ。わかるね?」

 私は自分の言葉に思わず「鮮血」の文字を思い浮かべ、頭を振った。

「でも……でも」

 おそらくはほんの少しと思われる沈黙の後に、彼女の声は幾分はっきりと告げた。

「私、捕まっちゃうかもしれない」
「捕まる?」
「だって……だって……」

 私はごくりと喉を鳴らした。

「まさか……君がやったのか?」
「ち、違う! 私じゃない! 本当なの、信じて!」

 私は電話から口を離して大きく溜め息を吐いた。しばらくぶりに呼吸をした気分だった。目の前に山積みにされている論文が小さく見えた。

「……とりあえず、彼は、生きてる?」
「わ、わからない」
「わからないって……呼吸とか、脈とか、確かめられないの?」
「そんな……そんなこと、怖くて……」

 ようやく自分の置かれている立場がわかってきたのか、さきほどまでの明るい声とは似ても似つかない声で彼女は呟いた。

「血は? まだ出てる?」
「……止まってる、みたい。でも、マサキの体、真っ赤になってる」

 その言葉に血の匂いを嗅ぎ付け、私は眉間に皺を寄せた。血は、苦手だ。

「……近付いてみるんだ」
「そ、そんな……」
「警察を呼ぶのが怖くて、今そこにいるのが君だけなら、そうするしかないだろ?」

 私は綺羅星の輝く夜空を眺め、現在の彼女が置かれている環境を想像しないように努めた。

「……今から、ここに来られない?」
「馬鹿なこと言うなよ。今大学にいるんだ、仕事中なんだよ。君のアパートまで、どれだけ急いでも電車で一時間はかかる。そもそも、もう終電も出ただろうし」

 我ながら、自分が馬鹿じゃないかと思うほど冷静に喋っていることに気付く。彼女をいかれているなどと言える立場じゃない。どうにかして普段の状態に戻れないかと深呼吸をしてみたが、無駄のようだった。

 反論することができなくなったのか、電話の向こうからは沈黙しか聞こえなくなった。呟きすら聞こえないとなると、それはそれで鳥肌を立たせるものがある。その間、私の頭の中にはあらゆる最悪の事態――部屋の中にいた凶悪犯に彼女が刺された、息を吹き返したマサキに彼女が反撃を食らった、発作的に彼女が自殺を図った、などなど――が写実的に駆け巡った。軽くえずいたが、どうにか飲み込んだ。

「……あの」

 突如声が戻ってきて、私は他人には見せられないほどびくついた。

「な、何?」
「……大丈夫、みたい」
「大丈夫って?」

 私は数分前に自分が言ったことを忘れていた。

「マサキ、まだ、生きているみたい」
「……本当?」
「たぶん」

 彼女は何故か声をひそめた。たぶん、彼女自身にも理由はわからないだろうと思う。

「息、してるみたいだし。お腹から出てる血も、止まってると思う」

 頼りない小声で返ってきた答えに、それどころではないとわかってはいるのだが、私は多少の安堵を感じた。

「それにしても、どうしてマサキが君のアパートで倒れてるんだ?」

 彼女につられてか、私の声も小さめだった。

「知らない。起きたら、倒れてたの」
「起きたらって?」
「私、寝てたから。マサキはここの鍵も持ってるし、たぶん、勝手に入ってきたんだと思うんだけど」
「……それで、どうしたら血を流して倒れることになるんだ?」
「それは、私に聞かれても……」

 そのまま尻すぼみに声は消え、重い静けさが訪れる。黙る彼女の方がよほど恐ろしくて、私は口を開く必要に迫られた。

「あー、えー……そう、さっきお腹から血が出てるって言ってたけど……」

 言葉にならない声が聞こえ、彼女の首を傾げる様が思い浮かぶ。

「怪我、してるんだよね? どんな怪我?」
「どんなって……痛そうな怪我」

 腹から血を流して痛くないってことはないだろうと思った。

「そうじゃなくて、何で、どうされてできた怪我なのかなって思って」

 ああ、と納得したように声を上げた彼女は、ぶつぶつと呟きながら何やらしているような物音を立てた。どうやら検分中らしい。

「……包丁、かな」
「包丁?」
「うん。マサキのすぐ横に、落ちてるから。血、ついてるし」
「血が? 包丁に?」
「うん。赤いもん」

 そろそろまたいかれ始めているような口調だった。

「……その包丁って、君のうちにあったやつ?」
「そう……だと思うけど。だって、わざわざうちまで包丁持ってきても意味ないでしょ」

 わざわざそんなものを持参する理由なんて一つしかないが、現在彼女は無事でいるわけだから、考えてもその意味はないだろう。

「じゃあつまり、誰かが君の家に入ってきて、君の家の包丁でマサキを刺したってことになるけど……」
「誰かって?」
「僕に聞くなよ」
「それに、何のためにそんなことするの? マサキを刺したいなら、他でやってくれればいいのに」

 やばい、と思った。今度こそ、いよいよか。私はできるだけ彼女の目を覚ますのに役立つような発言を考えた。

「……君に、マサキを刺した罪をなすりつけるため、じゃないか」
「そんな!」

 今までで一番大きくはっきりとした声だった。

「そんな、だって、私……」
「自分だって、捕まるかもしれないと思ってるんだろ? それが、狙いなんじゃないか」
「思ってるけど……それは、ここに他に誰もいないからで……」
「同じ理由で、警察も君を疑うんじゃないかと思うけど」
「だって、だって! 私に、マサキを刺す理由なんてないもの! 私はやってない!」

 本当にそうであって欲しいと、私は心から思った。しかし、いずれにせよ誰かがマサキを刺したことに変わりはない。私の口から、大きな溜め息が出た。

「……あなたも?」
「え?」
「あなたも、私を、疑ってる?」

 嫌になるくらい答えにくい問いかけだった。

「あー、いや、だから……」
「答えて」

 本当のことを、言えるわけがなかった。

「……疑ってないよ」
「……本当?」
「ああ、疑ってない。だからちゃんと、君の話を聞いてるだろ?」

 私は自分に言い聞かせるようにそう答えた。額を押さえると、嫌な感じの汗が滲んでいた。

「本当に、私のこと、信じてくれる?」
「ああ、信じる。だから、とにかく、警察を呼んでくれ」

 いい加減、手に負えない。私は今すぐ電話を切りたいと思った。

「……わかった。警察、呼ぶね」
「ああ、それがいいよ」

 私は心底安心した。ようやく、戻ってこられる。

「……ありがとう」
「いいよ、お礼なんて」
「ううん、言わせて」

 そして彼女は、こう続けた。

「ありがとう。……信じるって、言ってくれて」

 言って、くれて。その声は心からのもののようで、恐ろしくなるような響きは皆無だった。三度目の「ありがとう」が寂しげに耳に届いて、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。

「……じゃあ、切るね。突然こんな電話しちゃって、ごめんなさい」

 私は彼女に掛ける言葉を探したが、どうしても、見つけられなかった。急に辺りが静まり返ったようで、私は言いようのない罪悪感を感じた。

「――きゃあああ!」

 その静寂を、突如として電話の向こうから響いた声が破った。

「い、い、伊原君!」
「ど、どうした?」

 私の名を呼ぶ彼女の声に、私は背筋がざわつくのを感じた。

「マサキ……昌樹が!」
「昌樹……? 昌樹がどうした? おい、澄香!」

 携帯電話を握り締め懸命に彼女を呼ぶも、返ってくるのは言葉にならない喘ぎ声ばかりだった。

「澄香、聞こえるか? 昌樹がどうしたんだ?」

 向こう側で起きていることが全くわからず、私は焦りを募らせた。先ほど自分の頭の中に駆け巡った映像を、必死に追いやる。返ってこない返事に耳を向けながらただ澄香を呼ぶことしかできず、ひどくじれったく感じた。

「……先輩?」

 それは、澄香の声ではなかった。

「伊原先輩?」
「ま……昌樹?」

 その声は紛れもなく昌樹の声だった。

「そう、俺です。お久し振りです」
「久し振りって……お、おまえ……?」

 何をどう聞いたらいいのかわからず、私は口をぱくぱくさせた。

「すみません、心配かけて。でも、俺は、大丈夫です」
「大丈夫? でも、血が……」
「ええ、まあ、痛いんですけど……」

 若干かすれて聞こえる声に、私はさらに混乱した。

「お、おい、澄香は……?」
「ええ、ここにいます。彼女には何もしてません。ぽかんとして、俺のこと見てます」

 たぶん、私と似たような表情だろうと思った。

「ど……どういうことなんだ? 何が……え? おまえ、生きてるのか?」

 何か言えば言っただけわけがわからなくなるようだと、裏返った自分の声を聞いて思った。

「ええ、俺は生きてます。……本当は、死ぬつもりだったんですけど」

 私は聞き役に徹することに決めた。

「じゃあ……じゃあ、おまえを刺したのは……」
「ええ。俺が、自分で刺したんです」

 そんな、という微かな声が電話の向こうと自分の口から聞こえて重なった。

「……俺、もう、限界だったんです。俺じゃ、澄香の相手は無理です。始めは澄香にその話をしようと思ってここに来たんですけど、澄香は寝てて、真っ暗な部屋の中で寝顔見てたら、わけがわからなくなって、いっそ死ぬかって思って……」
「い、いやいや、死んだら駄目だろ」
「ええ、今はそう思うんですけど。でも、さっきは、本気でそう思っちゃったんです。それで、流しに出しっぱなしになってた包丁で……」

 私は、もう何度目かわからない溜め息を吐いた。

「でも、駄目でした。ためらい傷っていうか、小さい傷作っただけで、失神しちゃって……」

 いかれている、と思った。この短時間に起きた出来事自体がいかれている。昌樹は私の考えていることには気付かずに照れたように小さく笑うと、いてて、と呻いた。

 結局、原因は澄香だった。昌樹の、彼女への嫌がらせ。というより、ノイローゼだろうか。どちらなのか、私にはわからなかった。そしてどちらでも一切構わないと思った。どちらだとしても知ったことか、とんだとばっちりだ。

 とはいえ、誰かが死んだわけでもなく、ただ単に行き過ぎた痴話喧嘩(違うかもしれない)が起きただけだった、ということには素直に安心した。巻き込まれておいてお人好しだと自分で思うが、物事を良い方向に考えて悪いことはあるまい。私は自分にそう言い聞かせた。

「先輩? 聞こえますか?」
「あ、ああ、聞こえるよ」

 そう、昌樹は生きている。電話に出て会話できる程度の怪我しかしていない。それでいいじゃないかと思った。私の時間が少々潰れただけだ。私はわざとらしいくらいに大きく頷いた。

「俺、病院に行ってきます。死にはしないだろうけど、痛いし」
「ああ、そうだな。大丈夫か?」
「ええ、大したことないですから。今、澄香が俺の携帯で救急車呼んでくれてます」
「ああ、そうか。そうだな。それがいい」

 今までの展開を思えば有り得ないくらい、私はすがすがしい気分になっていた。これで、電話も切ることができる。

「それで、先輩」
「うん?」
「澄香のこと、よろしくお願いします」
「……え?」

 背中に、じわりと汗が滲んだ。

「澄香のことは、先輩に任せます。こいつといても大丈夫なのって、先輩くらいだと思うから」
「おい、ちょっと、任せるって何だよ」
「俺も、嫌いになったってわけじゃないけど……でも、俺には無理です。きっと、先輩なら大丈夫です」
「いや、だから……」

 私の言葉が電話の向こうから聞こえるサイレンの音に重なった。

「それじゃ、病院、行ってきます。今日のことも俺のことも、忘れてくれていいですから」
「おい、だから、僕の意志はどうなる……」
「お騒がせして、すみませんでした」
「おい! 待てって!」

 返ってきたのはツーツーという機械音だけだった。一体どこの誰がこんな冷たい音に決めたのだろう。無遠慮で、無機質で、腹の立つくらい容赦のない音。ばっさりと縁を断ち切る、残酷な音だ。いっそそのまま全ての縁を切ってくれたらいいのに。

 携帯電話を机の上に置き、私はしばらく呆然とした。足元に散らばったままの論文に爪先が当たり、私は鈍重な動きでそれらを拾い上げた。

 と、短い着信音が聞こえた。メールが届いたらしい。嫌な予感を抱えつつ、液晶画面を見てみる。案の定、澄香からのメールだった。題名はなく、本文に「通話料金が見たことのない数字でした」とだけある短いメールだった。

 私は今日最大の溜め息を吐き、窓の外を見やった。いつの間にか、空は薄らと白み始めていた。







  了








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