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ビー玉


 僕の彼女は面白いことが好きだ。たとえばスーパーでやってる駄菓子の量り売りなんかを見ると変わり玉やらコンペイトウやらを袋が一杯になるまで詰め込むし、実演販売をやっているのを知れば家に帰る気満々の僕の腕を掴んだまま三十分はそこを離れない。面白いことを見つけることが彼女にとっての生き甲斐で、僕は付き合い始めてからそれを知った。それまではただのクラスメートだったから、どちらかといえばおっとりとした、おとなしそうな顔に、僕が思いつかないようなエネルギーが隠れてるなんて考えもしなかった。

 彼女とは、付き合い始めて二年になる。もうすぐ三年になるというある日も、彼女は僕が硝子壜に入ったビー玉に似た飴(駄菓子屋に並んでいる壜のミニチュア版を見た彼女が迷わずに買った)を舐めている横で、通信販売の番組に釘付けになっていた。

「この接着剤、本当にこんなにくっつくのかな」

 あえて探すわけでもないけれど、彼女はこの手の番組をよく見る。画面の中では若い男性がこちらに向かってにこやかに「ぶら下がっても大丈夫!」なんて言っている。男性は天井にくっつけた取っ手で懸垂までしてみせた。

「この人、ずいぶん重そうなのに」

 彼女は赤い飴をひとつ口に放り込んで、筋肉質の男性から離した視線を僕に向けた。

「何キロあるっけ?」
「六十四くらい」
「じゃあ、この人、九十キロくらいあるかな」

 何を根拠にそう思うのかはわからないけれど、彼女の目が輝いているのは見て取れた。

「これ、本当だったら凄いよね」
「実はこの人が駄目な接着剤でも大丈夫なくらい軽かったりしたら、もっと凄いけどね」

 結局その夜、彼女は一旦はベッドに入ったものの、もぞもぞと起き出してメモしておいた番号に電話した。接着剤のチューブが届いたのは次の週で、棚の中で眠りについたのがその次の週だった。その間にくっつけられたのは、剥がれたと言ってしばらく嘆いて捨て切れずにいた、彼女のお気に入りの靴の底だけだった。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 珍しく二人とも一日中体が空いた日、僕たちはリサイクルショップに出かけた。トランクには彼女が買った元宝物の数々が詰まっていた。

「誰か欲しがる人がいるもの、きっと」

 少なくとも僕は違う、と思った。

 帰り道、トランクは軽かった。財布も軽かった。彼女の選んだものは重くなく、かさばらないものばかりで、これにはほっとした。ただひとつ、ひどく重くてでかい硝子製のクリスマスツリーを除けばの話だけれど。ちなみに今は、九月だ。

「昼飯、どうしようか」

 重さに膝が耐えられなくなってきたのか、ツリーをうろうろさせている彼女に訊いてみる。

「何か、食べたいものある?」

 彼女は少し考えた後、答えた。

「スーパーに寄って、うちに帰ろう。私が作るよ」

 彼女は料理は得意だったので、僕は頷いて行き付けのスーパーに車を走らせた。馴染みの食料品のコーナーを抜ける間で買い物カゴはいっぱいになり、いつものように重いビニール袋を下げたまま駐車場にいる焼き鳥の屋台の前で立ち止まり、缶コーヒーを一本買って二人で飲みながら家路に着く。彼女は後部座席に置いたツリーを時折気にしていた。

 テーブルを埋める皿の中身をしっかり食べ尽くして(彼女の料理は、それは本当の美味しいのだけれど、いつも量が半人分くらい多い)、僕は十二分目のお腹をさすりながら食器を片付ける彼女に訊いた。

「今日は、こっちに泊まるの?」
「ううん、帰るよ。終わってないレポートがあるんだ」
「なんだ、レポートならこっちでやれば」
「手伝ってくれる? 英文学のレポートなんだけど」
「……期待しないでくれるなら」

 彼女は笑った。

「レポート、持ってくるね」

 僕たちは同じ大学に通っているけれど、彼女の方がずっと頭がいい。学科も違う僕たちが知り合ったのは、偶然にも借りてるアパートの部屋が隣同士だったからだった。同じ高校の同じクラスにいた人、程度の認識だったのはお互い様だった。けれど話してみるとこれが案外ウマが合って、今に至るというわけだ。

 レポートを仕上げた頃には夜もとっぷりと更けていて、僕と彼女はベッドに入ってすぐに眠ってしまった。ベッドの端で、彼女の買った使い道のないボディピローがひしゃげていた。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 ある日、久し振りに別々に眠った日の夕方、彼女の部屋からノックが聞こえた。僕が二回のノックで答えると、少しして彼女は現れた。

「別に、いきなり来てもよかったのに」
「ノック、久し振りにしたくなって」

 ノックの合図を考えたのは彼女だった。だいたいにして、こういった「ちょっと面白いこと」を考え付くのはいつも彼女の方だ。

 僕と彼女の部屋の壁からノックが二回聞こえたら「そっちに行ってもいい?」という意味で、二回の返事で「来てもいいよ」、三回の返事で「今は駄目」ということになる。実際は一緒にいることが多いのでそんなに使う機会はないけれど、返事をして待っていると、彼女はいつも嬉しそうな顔でやってきた。僕はそれを待つわずかな時間が好きだった。

「始も、ノックしてよ。返事、してみたいんだから」

 そういえば僕からノックをしたことはなかった。

「今度、するよ」

 そう言っただけで、彼女は満足そうな顔を見せた。

「それで、どうしたの?」

 二杯のコーヒーを淹れながら、僕は背中で彼女に訊いた。

「理由がないと、来ちゃ駄目なの?」

 僕はカップの片方にミルクと砂糖を、もう片方にミルクだけを入れて、彼女の向かいに座った。当たり前のように甘いカフェオレの方を彼女に渡す。彼女の手の中にすんなりと収まったカップを見ながら、僕は言った。

「今更そんなこと言う仲でもないか」
「でしょ」

 コーヒーの湯気が鼻をくすぐって、僕たちは笑った。

 その後の僕たちは壜の半分くらいまで減ったビー玉の飴を舐めながら、喋ったり、考えたり、笑ったり、唇を重ねたりしていつものように過ごした。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 僕たちの三年目が始まる日も、僕たちは相変わらず一緒にいた。熱心に通販番組を見ている彼女を眺めることに少しの退屈を感じた僕は、欠伸を噛み殺しながら流しに立ってコーヒーを淹れることにした。

「相子、飲む?」
「うん」

 相子はメモを片手に、いかにも真剣なまなざしをブラウン管から離さずに答えた。いつものことである。湯気の立つカップを二つ持って戻ってきた時も、彼女の姿はそれと変わっていなかった。

 ところが僕は、呆けていたのか、座布団に変なふうに足を引っかけて両手のコーヒーを派手にまき散らした。しかもその上よろけた体で棚の上のものをいくつか落とした。僕自身も床に腰を落とし、尻を打った。いろいろなものが落ち、割れ、叫び、途端に部屋の中は騒々しくなった。これにはさすがの相子も黙ってはいられなかった。

「なにやってるのよ」

 そして彼女は、何が起きたのかを知ってしまった。つまり、季節外れのクリスマスツリー、それにあのビー玉飴の入った壜の割れているのを、見てしまった。

 それから相子は何も言わなかった。ティッシュやら万能布巾やらで床を拭き、割れた硝子の破片や飴を集めて部屋を静かに戻すまで、何も言わなかった。

 僕は一度だけ小さく、ごめん、と言ったきり何も言えなくなった。

「始の馬鹿」

 やっと喋ってくれた時にはもう、テレビは古いドラマを映していた。

「馬鹿。大馬鹿」

 僕はもう一度、ごめん、と言った。

「ビー玉の飴、好きだったのに」

 ごめん。

「クリスマスツリーも、クリスマスになる前に壊しちゃうし」

 ごめん。

「通販の番組も、終わっちゃったし」

 ……ごめん。

「馬鹿」

 …………。

 能天気なテレビの台詞だけが聞こえた。相子がこんなにも長い間黙っていられるとは思っていなかった。そのうちに僕の方がだんまりを決め込むことが出来なくなり、適当な言葉を探した。

「……別に、悪気があってやったわけじゃないよ」

 今思えば、この一言が余計だった。

「当たり前でしょ。こんなことやる気でやったんならもっと怒ってる」
「そんなに、怒るなよ。飴なら、また買ってやるって」
「いいよ、別に。いらない」

 僕は何故か苛々してきて、黙ることが出来なくなっていた。

「いらないってなんだよ。人がこうやって謝ってるのに」
「謝ったって飴はもう食べられないし、ツリーは元に戻らないし、通販の番号がわかるわけでもない」
「ツリーなんてどこに置くかで困ってたくらいだろ。通販の番組だって、どれでも同じようなのしかやってないじゃないか」
「なによ」
「なんだよ」

 それからの僕たちといったら、それはもうひどかった。今まで溜めこんできたものを全部吐き出して、それでも足らないとばかりにいらない昔のことまで持ち出した。

「半分以上私が書いたレポート提出して何とか単位取ったくせに」
「フリーマーケットで買ったでかくて重くてうるさい時計を足に落として怪我した馬鹿はどこの誰だよ」
「高校の時に先生後ろにいるの気付かないで『ハゲ』とか言って散々いびられた間抜けはあんたでしょう?」
「食べれるシャボン玉とかいらないもん買ってその上『まずいから』って流しに捨てたりするなら最初から買うな」

 そんなことを言い合っているうちにわけがわからなくなって、そのせいか何を言ったのかはよく覚えていない。気付いた時には僕は部屋で一人きりだった。

 コーヒーの染みが残る座布団の上で、淡々と告げられるニュースが耳を素通りする。部屋の端ではビニール袋に詰められたガラスの欠片がきらきらと光っていた。

 その日の夜、僕はボディピローを抱いて寝た。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 相子と会わずに、一週間が過ぎた。あっという間だったような気もするし、だらだらと過ぎたような気もする。とにかく、何もしないままに一週間が過ぎていた(したことで唯一覚えているのは、通信販売で相子が買った「ミラクル・クリーナー」という名前の、何とも胡散臭い洗剤でコーヒーの染みを落としたことくらいだ)。大学でも学科が違うから会おうとしなければ会わないし、帰る時間が違うとアパートでも会うことはないことを知った。でも僕は、隣の部屋に相子が帰ってきたことを耳で知ってはわけもなくどぎまぎしていた。たとえばその時に自分じゃ絶対に買わないプラスチックのピンキングばさみで無理矢理ビニール袋の口を開けようとしていたりすると(他のはさみが見つからなかった)、ひどくいたたまれない気持ちになった。

 こうしているうちに一週間が十日になって、二週間になって……そうしてあっという間に過ぎてしまうのだろうか。相子といた時間が過ぎていったのと、同じくらいに早く。

 相子とケンカをしたのは初めてのことだった。キスもそれ以上のことも今まで何度となくしてきたけれど、不思議とケンカはせずにいた。

 そのせいで僕は戸惑っているだけなのかもしれない。

 でもそれだけではない。八日目で、僕はそう思った。

 僕はベッドに寝転がって天井を見つめた。ボディピローが隣にいるだけのベッドは、広く感じられた。

 今まで相子が買ったものには、どんなものがあったっけ。

 アロマテラピー用のポットやなんかを、一式そろえたことがあった。でもあれは僕にも相子にもあわなくて、二人して匂いが抜けるまで片方の部屋に避難する羽目になった。結局アロマテラピーセットは欲しがっていた相子の友達にところへ行った。

 スーパーのおもちゃ売り場で「水に溶ける紙」を手に入れた時の相子は、どう考えても幼児返りしていた。一日中筆談で、書く端から紙を溶かして、一日と経たないうちにメモ帳はなくなった。水道が詰まりかけて、焦った記憶がある。

 正月の福引で手に入れた入浴剤セットは、珍しくいいものだった。一人で使う時もあったし、二人で一緒に使う時もあった。そういう関係になってからそんなに経っていなかったので、少し恥ずかしかった。

 僕はベッドから起き上がり、テーブルの上にビニール袋を乗せた。

 どうしても捨てられなかった、欠片。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 十日目の夕方、準備を整えた僕はベッドの上に座っていた。相子の残したままだったリラクゼーションのCDを聞いたけれど、役には立たなかった。

 そして隣の部屋のドアの開く音が聞こえて、目の前の壁を隔てたところに相子がいるのがわかった。

 僕は腕を上げ、壁を二回ノックした。

 ……。

 もう一度、ノックした。

 …………。

 もう一度、と思って腕を上げた。

 ……コン、コン。

 それはためらいがちなのがはっきりと聞き取れるような弱い音だったけれど、確かに、壁の向こう側から聞こえた。僕はテーブルの上の袋を引っ掴んで、部屋を飛び出した。

 相子の部屋に来るのは久し振りだった。いつも、彼女が僕のところへ来ていたから。

「……これ」

 僕は困ったような顔で立っている相子に袋を差し出した。彼女は困り顔をのままでそれを受け取り、中を見た。

「……ツリーは、ちょっと、失敗しちゃったんだけど」

 相子はこわごわと袋の中身を取り出した。

 つぎはぎだらけの壜。僕はその中に色とりどりの硝子玉を入れておいていた。

「あの接着剤、思ったよりよくくっついたから、ちょっとやそっとじゃ大丈夫だと思う。中身は、食べられないけど」

 僕は相子から見えないように手を握った。切り傷だらけの指を見られたら、格好悪い。

「……ごめん」

 相子はビー玉の詰まった壜を見つめていた。薄暗い部屋の中で、彼女はとても綺麗に見えた。

「……不器用なくせに」
「……うん」

 それだけで、僕はひどく安堵した。じわじわと温かいものが染み込んでくるようだった。

 相子は何歩か歩いて、僕の目の前に立った。

「手、見せて」

 僕はためらったけれど、相子の視線に勝てなくて、目の前に両手を広げてみせた。

 彼女の顔が、ふわっとやわらいだ。

「そんな手じゃ、ご飯作れないでしょ」
「……うん」

 相子は大げさに溜め息をついてみせ、そして、笑ってくれた。

「仕方ないなあ」

 その日、僕たちは十日遅れの記念日を祝った。相変わらず彼女の料理は美味しくて、この日ばかりはいくらでも食べれるような気さえした。

 そして僕たちは、眠った。彼女の買った、使い道のなかったボディピローを二人の枕にして。







  了









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