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My sweet better half


 高校に入っても依然として成長の兆しが見えない俺は、毎日が億劫で、そしてそう言うと友人たちから全力で贅沢だと罵られた。原因は、たった一人の先輩だ。

「しっお、くーん!」

 校門を過ぎてすぐ、全く奇妙なイントネーションでもって俺の名を叫びながら、問題の先輩は全力でタックルをかましてきた。悲しいかな向こうの方が身長があるので、声と気配から覚悟して身構えていても、それを受け止めきれたためしがない。

「さ、と、先輩……」

 背後から両腕で喉笛をホールドされているため、上手く声が出せなかったが、当の先輩はどこ吹く風とばかりにお構いなしだった。文句を言われない程度にやんわりと振りほどいて、首を巡らせる。先輩はいつだって笑顔がフルスロットルである。

「志雄くん、久し振りー!」
「全然久し振りじゃないですよ、一昨日会ったでしょう」
「充分だよ、会いたかったよー!」

 そう言いながら、紗都先輩は俺の頭をぐりぐりと撫で回す。毎度のことだが容赦ない。俺は何とか気付かれないように溜め息をつく。

「志雄くん、いい匂いがする」

 思わずぎょっとして先輩を見返す。

「何言ってんですか、男捕まえて」
「だって本当だもん。いい匂い。髪もさらさら」

 言いながら俺の髪を梳いて指を遊ばせる先輩は、自分がどれだけ残酷かをわかっていない。

「やめてくださいよ。男にそんなこと言ったって褒め言葉にならないし」
「褒めてるよ、全力で。肌も白いし、羨ましい」

 いいなあいいなあと、先輩は繰り返す。こんなに会話の成り立たない人もいないと思う。先輩の耳に、俺の言いたいことが言いたい通りに届いたことが一度でもあっただろうか。

「可愛いなあ志雄くんはもー」

 絶対に、一度も、ない。気に入ったぬいぐるみでも扱うみたいに愛でてくる先輩に、俺は耐えることしかできない。

「またやってるのか、相変わらずだなあ、おまえら」

 またしても背後から聞こえた声に、俺はつい身を強張らせた。

「……おはようございます、章吾先輩」
「あ、おはよー」
「おはよう、紗都、志雄。元気そうで何より」

 章吾先輩は落ち着いた様子のまま、俺たちを見て苦笑を浮かべていた。

「あんまりいじめてやるなよ、紗都。志雄が困ってるだろ」
「えー、いじめてないよー」
「志雄の立場にもなれって」

 同情してくれるのはありがたい。が、真っ平でもある。俺はやはり、耐えるしかなかった。

「……先輩たち、そんなにのんびりしてていいんですか? もうすぐ予鈴鳴りますよ」

 二人は見合い、やばい、と顔色を変える。三年生の教室は、俺たち一年の場所よりも少し遠い。しかも二人の担任は恐ろしく遅刻に厳しいことで有名だった。

「お先!」

 そう言い捨てて駆け出したのは章吾先輩の方だった。

「あ、ずるい! 待ってよー!」

 ばたばたと紗都先輩が後を追う。制服のスカートが揺れる向こうに小さくなっていく章吾先輩が見えて、まるで青春ドラマか何かのワンシーンのようで、いっそ萎えた。二人は似合い過ぎる。

「しっお、くーん!」

 と、またしても後ろから羽交い絞めにされ、俺はいささか驚いた。当たり前だが、紗都先輩ではない。力の入れ方は同じくらい容赦なかったが。

「また見せつけやがって、てめえ」

 女声を真似た気持ちの悪い声色をやめ、クラスメートの悪友がそんな悪態をついた。そこで素直に手を離してくれる辺りは紗都先輩よりも気が利いているような気すらする。重症もいいところだ。

「俺に言うなよ。あの人が勝手にやってるんだ」

 心底うんざりしている、という顔でそう言い返してやると、全く理解に苦しむとばかりの表情が返ってきた。

「おまえ、あんな美人にあれだけ構われて何が不満なんだよ」
「毎朝攻撃されてみろよ、結構しんどいぞ」
「俺だったら甘んじて受けるね、おっぱい当たってそうだし」
「おまえな……」
「いい匂いがしそうだ。俺、あれくらいの髪の長さって好きだな、肩くらいの」
「おまえの好みなんか知るかよ」
「世間一般の意見を代表してるんだよ、俺は。先輩は美人でいい女、それに愛されてるおまえはむかつく」

 微塵の遠慮もなしにしかめっ面で指差され、俺は教室に向かう足を速める。

「彼氏いるぞ、あの人」
「……マジで?」

 呆けたように言って、どうやら足を止めたらしい。声がわずかに遠ざかるのを背中で聞いた。

「ちょ、ちょ、マジで? なあマジかよ?」

 慌てて追いかけてくる声が横に並ぶ。

「いなそうに見えたか?」
「いや、そりゃ、まあ……」

 自分でそう言っていたのだから仕方がない。格好良くて頼りになる、クールで素敵な奴だと。そう説明すると、悪友は急に同情めいた目付きになって俺を見下ろした。それについては気付かなかったことにして、俺はさっさと先を行く。

「なに、相手誰よ? いつも一緒にいるあの先輩? やたらイケメンな」
「知るか」

 そこまで聞いていないし聞く気もない。そう思ったが、思うだけにして俺は切り上げ、教室を目指した。

「……生殺しだな」

 全くだよ、と心の内で返す。これを災難と呼ばずして何と呼ぼう。



 授業は難なく進み、あっという間に放課後が来てしまい、俺は委員会に参加するために教室を出た。そういえば紗都先輩と知り合ったのはこの委員会だった、と無意味なことを思い出す。うちのクラスには理系が多く、図書委員の人気なんてないも同然だった。春の初回で目を付けられ、それからは委員会なんぞ関係なしに襲われた。受験で三年生が参加しなくなってからは、もうここで会うこともない。

 委員会が終わる頃にはすっかり日も暮れ、背筋をすべるような寒さがとっぷりと教室に満ちていた。誰もいなくなった部屋でぼんやりとしていた俺は、幾分浸っていたかもしれない。決して楽しいものではない、それでも浸らずにはいられない、時折溜め息の混じる意味のない落ち込みに。

 紗都先輩に彼氏がいるという話を、俺から誰かにしたのは初めてだった。本人から聞いて以来、誰にも言いはしなかった。言えなかったのかもしれない。その理由は、考えないことにした。考えたら、浸るどころか溺れてしまいそうだから。

 朝の話を日が暮れてもなお引きずっている己の女々しさに、また別の溜め息が出る。かわいい、と言われても文句の言いようがない。俺はクラスで一二を争う背の低さだし、童顔で、声も高くて、その上中身までこれなのだから。うつむいたら、着丈の合っていない制服の袖に手の甲が半分隠れているのが視界に入り、苦笑がもれた。不格好なのが似合いだ、と自嘲めいたことを思う。

 せめて、俺が章吾先輩のようだったら、何か変わっていただろうか。

 そう思い付いた瞬間、俺は座っていた椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。駄目だ、それを考えてはいけない、それだけは。電気もつけないままだった暗闇の中で、闇雲に前に進む。これ以上ここにいてはいけない。ここに居続けて、それでも平常でいるには、俺は未熟すぎた。

 鞄を引っ掴み、固く閉じられた出口に駆け寄る。扉に指を掛けて勢いよく開け放つと、その振動が冷えた空気を走り抜けて俺を震えさせた。

「きゃ!」

 振動よりも強く、不意に耳に届いたその声は俺を強張らせた。固まった体を軋ませて見ると、ぽかんとした顔が、すっと鮮やかに染まるところだった。

「志雄くん、びっくりした! 今帰り?」

 図書館にこもって受験勉強でもしていたのか、紗都先輩の手には数冊の参考書が抱かれていた。こっちはびっくりしたどころか、反応すら上手くできなかった。とてもじゃないが直視できる気分じゃなくて、適当に相槌を打って横を通り抜ける。

「あ、待ってよ! 一緒に帰ろ!」

 先輩は無防備に、あまりにも無防備に、いつものように俺にしがみついてくる。こんな時でも先輩は変わらない。先輩に俺の気持ちは伝わらない。

 抱き寄せられた肘に柔らかい感触が当たった瞬間、朝に悪友と交わした会話が脳裏を駆け巡り、俺はかっとなって手を振りほどいた。俺たち以外の誰もいない廊下に、先輩の手から離れた参考書が落ちる音が、耳に痛いほどに響いた。その後に続いた沈黙ほど、痛みは強くはなかったが。

「……もう、やめてくれませんか」

 逃げ出すために絞り出した声が、何よりも自分の内側をえぐるのは何故なんだろうか。

「やめて、って」
「何度も言ってるけど、俺は男だし、子供扱いされるのも、猫可愛がりされるのも嫌なんだ。先輩はそれで楽しいかもしれないけど、俺は、嬉しくも何ともないんです。俺はおもちゃじゃない」
「そんな、あたし、そんなつもりじゃ……違うよ、あたし、志雄くんが好きで」
「その気もないのに好きだ何だ言って絡まれるのは、はっきり言って、迷惑です」
「やだ、違うってば、聞いてよ志雄くん、あたし、本当に」
「なにが違うって言うんですか、俺の気も知らないで」
「ちがう、やだ、嫌いになんないで。あたしは」
「だからもういい加減に――」
「――好きなんだってば!」

 張り上げられた声にはっとして顔を上げる。先輩の目がじんわりとにじんでいるのを見つけて、俺はようやく言葉を止めた。釣られてか、先輩も黙り込む。その目は恨みがましく俺を捕らえていて、今にもひと雫こぼれ落ちそうだ。

「……ひょっとして、本気で言ってます?」
「本気だってばー……」

 語尾が、目をこするのと一緒になってしょんぼりとしおれた。

「だって、彼氏いるでしょ、先輩」
「あんなの嘘だよー……」
「嘘って……なんでそんな」
「彼氏の一人や二人いないと年上の女っぽくないじゃん」
「いや、そんなところで年上ぶられても」

 うー、と先輩は目をこすりながら唸る。あいにくだが、まったく「年上の女」には見えない素振りだ。

「……男の子と話すのだってあんま慣れてないんだもん」
「は?」

 あれでか、と責める言葉が出てきそうになるのを塞き止める。

「女子中だったから。……だから舞い上がって変なテンションになるの。三年経っても直んないの」

 言いながら、先輩はまだ目をこすっている。よく覗いて見ると、その頬は真っ赤に染まっていた。あれ、と思いながらも俺は落ち着きを装って更に聞いた。

「……格好良くて頼りになるクールな男が好きだったんじゃないんですか」
「へ?」
「そう言ってたでしょう、彼氏がいるって嘘ついた時に」

 先輩ははたと俺を見て、少し固まって、それから更に火がついたように顔を赤くした。

「……や、だから、それは……その……嘘ではなく……あたしにはそう見えるっていうですね……」

 今度はこっちが呆ける番だった。

「いや、俺、そんなキャラじゃないでしょう。頼りになるとか、身に覚えがないし」
「……委員会の時、とか、下手な議長よりいいこと言ってたよ。なんかこう、落ち着いて発言してたし、いきなり当てられても動じないっていうか、それ以外にも色々、ええと、その、ですね」

 何故だかどんどん敬語の混じっている紗都先輩が、これ以上ないほど深く顔をうつむけて、頭を抱え込みそうなくらいに小さくなっていく。そして消え入りそうな声で、ぽつりと呟いた。

「……あたしは覚えてるよ。見てたもん」

 あれ、こんなに可愛かったか、この人。

「……負けました」

 自覚してしまっては、いくら今まで目をつぶってきたことだとしても、今更だ。俺は潔く降参して、落とさせてしまった参考書を拾い上げた。

「別に嫌ってないですよ」
「……だって、怒ってた」
「でも嫌いなんて言ってないでしょう」

 ようやく顔を上げてくれた先輩が、俺の顔色を窺う。それは同時に見つめあう体勢になっていて、俺は周囲が暗いことをどこに恨んだらいいのかと思った。これでは、せっかくの先輩の顔がよく見えない。

「……本当に?」
「先輩こそ」
「あたし?」
「さっきの、勢いだけで言ったってわけじゃないんですよね?」

 だっ、そっ、と先輩が言葉にならない声を上げる。

「だから、それは、その……ですね……あんなタイミングで、言うつもりでは……なかったんだけども……」

 小さく小さくなっていく先輩を見て、嗚呼、と俺は思う。こんなところで自分が男であることを、先輩が女の子であることを知るとは思わなかった。見栄を張るのも、格好付けるのも、好きな子をいじめてしまうことでさえ、きっと男の性癖みたいなものなのだ。いや、それはひょっとしたら女であっても関係ないかもしれない。ただ、矢印を発信している側が無意識にやってしまうだけのことで。

 結局、俺たちは互いに矢印を出し合っていたのにも関わらず、それがどちらとも明後日を向いていた、ということだ。

「先輩」

 小さくなってしまった紗都先輩は、すぐ手の届くところにいた。伝えたいことが伝わる距離。ようやく俺はここまで来られた。

「俺も、紗都先輩が」

 俺は先輩にだけ聞こえる声で、その台詞の続きを告げた。







  了










*サイトアクセス1111hits リクエスト作品
  御題 「先輩と後輩でラブコメ」

神無し様、1111ヒット報告ならびに御題提供ありがとうございました。
前作の水森弐参的ラブコメとはちょっと違った雰囲気になってしまいました。
コメディの力、より弱ってしまいました。難しい、笑いは難しい……。
御題には「学生」って縛りもありましたが、先輩後輩に一番敏感な時期ではないかと思いながら書きました。
とりあえず、コメディ=ベタという単純な発想をどうにかしたいです。精進!






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