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「君は蟻を恐ろしく感じたことがあるかい?」

 彼の台詞はあまりにも唐突で、私は理解に苦しんだ。

「何が言いたいんだ?」
「そのままさ。言葉のままだ」
「そのまま? 蟻が恐いかって?」

 私は苦笑した。あまりにも馬鹿馬鹿しく、滑稽で、腹の立つ台詞だった。

「からかっているのか?」
「いいから答えてくれ」

 彼がきわめて真剣な顔で言うので、私はうんざりした。

「感じるわけないだろ、あんな虫に恐怖なんて」
「……あんな虫、か」

 彼はにやりと笑った。

「僕は、恐い」

 そう言って、両腕で自身をしっかりと抱き締めた。その目は鈍く光っていた。

「ごく控え目に言って、恐ろしいよ。……僕はいつか、蟻に殺されるかもしれない」
「馬鹿らしい」
「僕は本気だ」
「本気? 何が本気なものか。おまえ、どうかしちまったんじゃないのか? もう酔っているとか」
「僕は正常だ。酔ってもいないよ」

 彼の目が私を捕らえる。爪を食い込ませてくるような強い視線だった。私はそれを振り切って言った。

「久し振りに会ったって言うのに」

 そう、久し振りなのだ。その会わなかった間に彼の身に何かあったのだろうか。前はもっと気弱で、臆病で、穏やかな奴だったのに。

「子どもの頃、蟻を殺したことってあるだろう? 踏み潰したり、巣を埋めたり……」
「それくらい、誰だってやるさ。珍しいことじゃない」

 私は頭を抱えた。

「まさか、そいつらが復讐しに来るなんて言うんじゃないだろうな」
「違うよ。そうじゃない」

 彼はかぶりを振った。一体何を言いたいのか、要領を得ない。

「人は何故、蟻を殺すのだと思う?」
「決まってるだろう。自分より弱いからだ」
「そう、弱いからだ。あんな小さな身体では自分に敵わないだろうと思って、殺すんだ」
「そんなの、別に蟻に限った話じゃない」
「違う」
「何が」
「確かに蟻は、人間には敵わない。でもそれは、僕らが大きさで勝っているからだ。奴らはそれに、数で対抗できるんだよ」

 徐々に熱っぽくなってくる彼の物言いには鬼気迫るものがあった。普段は大人しい奴なだけに、不気味さは増す。

「君も奴らが群れているのを見たことがあるだろう。自分たちの何倍もあるような生物でも、奴らは獲物に出来る」
「つまり、おまえは蟻の集団に喰われるんじゃないかと不安だというわけだな」

 彼は重々しく頷いた。それを見て、私は弾けるように笑った。

「笑い事じゃない!」
「笑わずにいられるか、そんな話。まったく、何を言うかと思えば……」
「冗談で言っているんじゃない。僕は、もう、限界なんだ」

 彼はぎらつかせた目で私にすがってきた。泣き出しそうな、叫び出しそうな目だった。

「蟻の大群を見ていると吐き気がするんだ。あの黒い粒が視界を埋め尽くして、身体の中に入り込まれたような気分になる。あいつらはどこにでもいて、どこにでも行ける。そして、いくらでもいるんだ。巣を見ているとわかるだろう? あの小さな穴から奴らは次々と出てくる。埋めたって、また違う穴を作る。僕たちなんて無力だよ。あいつらが集団でかかってきたら、振り払うのも無理さ。そして奴らは入ってくる。身体の中にだ。鼻から耳から口から目から……奴らにかかったら、僕らは獲物であり、食事だ。内からも外からも、じわじわと喰われていくんだよ」

 私は顔の歪むのを隠せなかった。

「アスファルトの隙間から奴らが出てくるのを見ただけで、僕は侵されたような気分になる。見まいとしても、黒い地面の上であの黒い身体が動いているのが目に入ってきて、まるで地面がぐにゃりぐにゃりと歪んでいるような錯覚を起こすんだ。ああ、断わっておくが僕はクスリの類はやっていない。精神科医にかかっているわけでもない。まあ、今君は僕を病院に送りたいと思っているんだろうが……いや、責めているわけではないよ。ただ、これは僕の妄想なんかではなくて、現実であり真実なんだ。それに気付く人が少ないだけの話なんだよ。僕自身、他人に話したのはこれが初めてだ」

 私は大きく溜め息を吐いた。私こそ、もう限界だ。

「寝言は寝て言えよ。こんなところで馬鹿な話をするより、いい医者を探した方がいい」
「どうして信じてくれないんだ! 僕はおかしいことは何一つ言っていない!」
「勘弁してくれ。俺はもう付き合い切れない」

 彼は鎮まった。場の空気が急激に冷めていくようだった。

「……わかった。じゃあ、証明するよ」
「証明?」
「そうだ。蟻の恐ろしさを、証明してみせる」
「そこまで言うなら自信があるんだろうな。じゃあ、証明できなかったら今日の飲み代でもおごってくれよ」
「十万でも百万でも払うさ」

 私は目の前のグラスの中身をあおった。薄まった褐色の液体は不味く、何の足しにもならない。彼もグラスの中身を飲み干した。

「出よう。うちに来てくれ」
「ここじゃ駄目なのか?」
「駄目だ。さあ、行こう」

 少々気乗りはしなかったが、私たちは店を出た。ここから彼の家まではさほど遠くない場所にあったはずだ。私は醒ますほど酔ってはいなかったが、彼の酔いを醒ますのを兼ねて、歩いて行くことにした。

「久し振りだな、おまえの家に行くのは。おまえが結婚した時以来だから……」
「僕も久し振りだ」
「え?」
「あの家に行くのは、久し振りだ」

 深くを追求することは出来なかった。何故なら彼が顔面を蒼白にして立ち止まったからだ。

「おい、戻しそうなのか?」

 彼は口元を押さえたまま頷くと、その場に嘔吐した。アルコールの匂いが立ち上る。私は顔を背けながら背をさすってやった。

「ありがとう、もう大丈夫だ……」

 ひとしきり吐いた彼の声に、私は安心した。だがそれは一瞬でかき消された。

「―― うわああぁぁ!」

 叫んだ彼の声が住宅街の閑静な空気を劈く。

「蟻だ! そ、そこに蟻が……」

 彼は嘔吐したものを指してそう言った。そちらを見る気にはなれなかった。

「僕の……僕の中から蟻が出てきたんだ!」
「いい加減にしろ! おまえが吐いた時に蟻は地面にいたんだ。そこにおまえが吐いただけだ。おまえの中にいたんじゃない」

 彼は私の話を聞きはしなかった。ただ吐き出したものを見つめ、蟻が溺れ死んだのを見て胸を撫で下ろした。

「さあ、行こう」

 私は内心彼の家へ行く気が失せ始めていたが、彼は構わず足を進めた。彼は酔いが醒めたようには見えなかった。

「今日は、止めにしないか?」

 彼の身体のことも気遣い、そう提案してみる。

「恐くなったのかい?」

 そう言った彼は顔にうすら笑みを浮かべていて、私は憤慨した。

「おまえこそ、今ので怖気付いたんじゃないのか?」
「さっきから言っているだろう? 僕は蟻が恐ろしいって。僕は蟻を見る度、いつもああだ」

 そして更に足を進める。うんざりして溜め息を吐いたところで、私たちは彼の自宅の前にいた。真っ暗だった。

「奥さん、いないのか?」
「ああ。誰もいないから、気にせず上がってくれ」

 私は安堵して家の中に入った。彼は気付かないだろうが、こんなところで会うのはいいことではない。蛍光灯をつけるとひどく無機質な空気が広がり、確かめるまでもなく誰もいないことがわかった。

「それで? どうやって証明してくれるんだ?」

 からかうような声でそう訊き、彼を見る。彼は先刻よりもさらに顔を青くしていた。

「お、おい」

 しかしそれは吐き気が理由ではないようだった。彼は小さく震えている。

「大丈夫か……?」

 彼が振り向いた。血走った目が私を捕らえた。

「……覚悟は、出来てるかい?」

 退くわけにはいかなかった。私は頷いた。

「こっちだ」

 彼の背中に着いて行くと、そこは台所だった。ステンレスの流しが鈍く光っている。

「そこに、扉があるだろう?」

 彼は床を指した。床下収納のものらしい扉があった。

「そこの下は、すぐ土なんだ。床下収納を作る金がなかった」
「一軒家建てただけ上等だろ」
「……女房の金だよ」

 扉に歩み寄ると彼はびくっと一歩退いた。見て取れるほどに震えていた。

「……開けてみるといい。僕は、これ以上進めない」

 その顔は青白く強張り、私の足を止めた。扉は薄暗い台所の中で、くっきりと自己主張するように浮き上がっている。

「……あの中に、一体何があるっていうんだ?」
「見れば、わかるさ」

 彼はまるで口にするもの恐ろしい、とでも言うように眉間に皺を寄せてそう言った。

「……わかったよ、開ければいいんだろう」

 扉に近付き、取っ手に手を掛ける。彼は更に一歩後退り、自分を抱く腕に込めた力を抜く気はないようだった。

 汗ばんだ手で取っ手を握り、ゆっくりと、引く。乾いた喉が鳴った。

 扉は呆気なく開いた。見えたのは褐色の地面だけであり、黒い蟻の姿は見えなかった。ほっと一息吐き、土の表面を撫で、少し掘ってみる。懐かしい匂いが漂った。

「……ん?」

 それは巣穴のようだった。小さな穴がいくつか空いている。その辺りから、土の色が少し異なっていた。

「―― 痛っ!」

 反射的に手を引く。右手の人差し指から血が出ていた。何かに噛まれたようだった。

 そして私が指から目を移した時、土の上には蟻がいた。土の上だけではなく、クロス張りの床にも、沢山の、蟻が、モザイク模様のように、

「うわああああ!」

 叫んだのは彼だった。私の鼓膜を突き破らんばかりのその声は、彼の足元に集まった蟻が出させたものだった。

「や、やめろ……来るな、来るなぁ!」

 彼は足を振り、ズボンに取り付いた蟻を払おうとした。が、無駄だった。ヒステリックに叫びながら蟻から逃れようともがく彼から、私は目を離せなかった。薄暗闇でのその光景は、あまりに異様で、恐ろしく、蠱惑的だった。

 そのせいか、私は見つめていたにもかかわらず彼の手に握られたものに気付くのが遅れた。

「―― やめろっ!」

 彼の手中には包丁が光り、彼の足、いや足にまとわりつく蟻を狙っていた。私は咄嗟に彼の手を掴んだ。

「放してくれ! 僕は……蟻が、蟻が……」
「こんなもの使ったら蟻で済むわけがないだろう!」

 彼の手から包丁をもぎ取り、流しに置く。早く扉を閉めなければと思った。

「いいか、馬鹿なことは考えるなよ。蟻なんかにおまえは喰われやしないんだ」

 何とか彼をなだめた私は、穴を埋めようと開いたままの扉に寄った。蟻は巣穴を出たり入ったりとその場に留まることなく忙しく動いている。私は焦燥感に駆られ、床に膝をついて土を掴んだ。やはりどことなく色の違う部分がある。

 黒い蟻と褐色の土の中に、何か白いものが見えた。手を出す。それは簡単に取れた。土に汚れたそれは細長く、両端が若干太くなっていた。

 人間の、骨だった。

「―― ほら、言った通りだろう!」

 背後からの声に、私の叫びは飲み込まれた。私は腰を抜かし、蟻のたかる床に身体を着いた。

「蟻だよ! 奴らが喰ったんだ! 蟻は人間を喰うんだよ!」

 彼と蟻と骨に囲まれた私は動くことが出来なかった。恐怖が私の体を震えさせ、縛った。

「こ、これ……この、骨は……」

 それはまるで自分の声ではないように干乾びていた。

「女房さ! 僕の女房を、あいつらが喰って、骨にした!」

 彼は目を光らせ、両手を広げて叫んだ。

「どうして……こんなところに……」
「決まってる! 僕が殺して埋めたからだ!」

 私は吐き気を覚えた。が、握る土を手放すことすらできないほどに、私の体は固まっていた。

「僕は悪くない。あいつが、浮気なんかするから」

 彼は、気付いていた。

「相手が誰だったのかも、見当はついているんだ」

 彼はいつの間にか流しに置いた包丁を再び握っていた。

「ち、違う! 俺じゃない、俺が悪いんじゃない! 俺は、ほんの、出来心だったんだ!」

 彼の包丁を握る手は震え、その切っ先は私に向かっていた。

「どうでもいい、そんなこと」
「い……言わない。このことは、誰にも、言わない。だ、だから……」

 私は震えた声のまま、思いつく言葉を叫び続けた。

「それは、そんなことは、もうどうでもいいんだ。関係ない。関係ないんだ。そうじゃないんだよ」

 彼は口の端を歪め、泣き出しそうな目で言った。私は逃げようとしたが、身体が動いてくれなかった。

「でも、蟻が、こいつらが、腹を空かしているんだ。女房はもう喰い尽くしてしまった。僕は、まだ、こいつらに、喰われたく、ない」

 そして、

「ぼくは、喰われたくないんだよ」

 そして、彼は、包丁を振り上げた。







  了









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