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温かい一杯のワインを


 その晩、俺はしこたま飲んだ帰りで、存分に酔っていた。だからきっと、地面にしゃがみこんでうつむいている奴なんかに声をかけたのだろう。気紛れもいいところだ。やさぐれて自棄になっていたとしか思えない。

「家に帰らないのか?」

 そいつは子供だった。十になるかならないかくらいの、痩せた少年。ぼんやりと上げた顔は薄汚れていた。

「……いえ、ないから」

 見た目以上に幼く、舌足らずな喋り方だった。

「ない? 家が?」

 少年は小さく頷き、そのまま曲げた膝に顔を埋めた。辺りを見回しても当然親は見当たらないし、何だったらこんな路地裏にふらふら入り込むのは酔っ払いか野良犬くらいだ。どう考えても穏やかではない。警察にでも届けてやるのが真っ当なやり方だったろうが、酔いの残るだるい体が重くて、俺はそいつの前にしゃがみこんでいた。

「屋根くらいなら貸すけど、どうする?」

 その晩、昼頃から落ち始めた雨が、しぶとく降り続いていた。だからきっと、俺と同じように濡れているこいつが気になったのだろう。



 少年を見つけた場所は、俺の住んでいるアパートから五分と離れていなかった。とりあえず少年を風呂に放り込んで、俺はぐっしょりと濡れた服を脱いだ。体を拭いて、顔を洗って、服を着る。酔いは覚めない。水が滴らない程度に頭を拭いた俺はからっぽの洗濯機に汚れた服とタオルを投げて、迎え酒としけこむことにした。半分空いたウイスキーのボトルと、氷のつまったアイスペール。グラスを持って床に座ると、深い溜め息がもれた。

「――ねえ!」

 空気が崩れた。グラスをテーブルに置いて、洗面所に向かう。乾かしても体は重い。

「どうした?」
「これ、着ていいの?」

 ドアの向こうからそんなことを聞いてくる。良くないなら置かない。

「ああ」
「タオルも使っていいの?」
「いいからさっさとしろ。風邪ひくぞ」

 子供の扱いには慣れていない。少し苛々しながら俺は戻って座り、グラスに氷を落とし、ウイスキーを浅くたらした。

 少年はすぐに洗面所から出てきた。着させたのは俺の服だったので、裾を引きずっている。ジャージのウエストがゆるいのだろう、ずり落ちては引き上げて、手で押さえたままよろよろと歩いてきた。

「これ」

 半分しか出ていない手で、くしゃくしゃになったバスタオルが差し出される。

「その辺に置いとけ」

 言われたままに少年はタオルをすぐ横に置いて、テーブルの向こうに座った。

「おさけ?」
「ああ」
「おいしい?」

 ああ、と答えてから、もうろくに味がわからなくなっていることに気付いた。

「……飲んでみるか?」
「いいの?」
「飲めるんならな」

 ふざけ半分でグラスを渡す。少年の手の中にオン・ザ・ロックのグラスがあるのが何だかおかしい。そして少年はその茶褐色の液体をちびりとなめると、舌を出して、しかめっ面をした。少し、笑えた。

「まだ早いな」

 戻ったグラスは俺の手に馴染んだ。飲み切って二杯目を注ぐ。

「ちょっと待ってろ」

 俺はグラスを持ったまま台所へ行った。冷蔵庫を開ける。勿論ジュースの類は入っていない。中身が半分になった安物の赤ワインのボトルがあったので、ちょうどいいと取り出した。

「そういえば、おまえ、名前は?」

 頭を出しているコルクを手で抜く。洗って流しに放ったままだったマグカップに半分ほどそそいだ。

「……ろ」
「うん?」
「……し、ろ」

 ウイスキーはよっぽど口に合わなかったらしい。台所から顔だけ戻すと、あかんべえでもするみたいに舌をぐにぐに動かしていた。はっきりしないが、シロウ、と名乗ったようだった。

「おじさんの名前は?」

 そんな歳じゃねえよ、と返してやろうと思ったが、やめておいた。確かに今の俺はいつもより老け込んでいるかもしれない。

「ケンタロウだよ」

 ワインボトルを冷蔵庫に戻すついでに、残っていたプロセスチーズを出す。それからクラッカーと、サラミも。

「さっき帰る家がないって言ってたけど、どういうことだ?」

 間違いなく酔ってるな、と頭のどこかで冷静に思った。普段は恋人の話もろくに聞かない俺が、今日初めて会った見ず知らずのガキに家出の事情を尋ねている。

「……ひっこすんだ」

 俺は聞きながらカップのワインに電子ポットのお湯を足した。

「じゃまなんだって。だから、いちゃいけないんだ」

 決して明るい声ではないが、意志のある、しっかりした声だった。

「邪魔だって言われたのか?」

「……いわれなくても、わかるよ。ぼくがいると、みんな迷惑なんだ」

 ああ、そういえば砂糖はどこにあるんだろう。料理に使っていたはずだから比較的わかりやすいところにあると思うのだが。

「あのな」

 あった。砂糖は塩の入っているケースの横に、同じようにケースに入って並んでいた。丁寧にも中身がわかるようにラベルも貼ってある。そういえば一度、ひどく甘い味噌汁を飲んだことがあったなと思い出す。シールを貼るより前のことだったんだろう。これからは料理も自分でするから置き場所くらいは覚えておかないといけない。俺はその砂糖を湯気を立てているワインに入れて、調味料たちの隣に戻した。

「どうして邪魔だってわかるんだ?」

 探したらみりんなんかもあるのかもしれない。もっとも、あっても俺は使わないが。

「ひっこし、できなくなっちゃう。お父さんもお母さんもイチロウも、みんな困った顔してるんだ。ぼくのせいなのは知ってる。みんな、あんまり言わないけど……しょんぼりしてるし……」

 ワインをマドラーで混ぜながらウイスキーを飲む。砂糖を入れすぎたろうか、底の方にじゃりじゃりした手応えがある。

「あほなのか、おまえ」

 すっかり小さくなった氷を口に入れるとひやりとした。

「帰りたいんだろ?」

 そう言って振り返ると、空気が冷たくて、まだ自分の髪が湿っているのがわかった。シロウは答えないが、聞くまでもない。

「おまえなりに家族に気遣ってるのかもしれないけどさ、いなくなるなんて、簡単にできないだろ。忘れて笑って過ごすなんて、できっこない」

 つまみとワイン、空になったグラスを持って戻ると、シロウは膝を抱え、考え込むように一点を見つめていた。

「……帰ってもいいのかな」
「このまま帰らない方がよっぽど引っ越しなんかできないと思うけどな」

 元の位置に座り直して、マグカップをテーブルに乗せる。

「これなら飲めるだろ」

 シロウは両手でカップを持つと、すぐには口にせずに匂いをかいだ。さっきのよりは苦くないと教えてやり、俺は俺の酒を注ぐ。アイスペールの下には大きな水溜りができていた。

「……いただきます」

 手の中で氷が涼しい音を立てる。

「美味いか?」

 シロウは頷いた。湯気でその目は潤んで見える。俺は気付かない振りをしてウイスキーをあおいだ。チーズを取って、ひとつ口に放り込む。

「腹減ってるなら食ってもいいからな」

 シロウはマグカップを大事そうに両手で抱えたまま頷いたが、結局何にも手は伸ばさなかった。

 つまみの封を破る音と氷の鳴き声以外は静かなものだった。嫌な気はしない。むしろ、こんなに落ち着いた時間は久し振りだと感じていた。

 シロウのカップが空になる頃、そのまぶたは眠たそうに下がっていた。見開いたり無意味に視線をいろいろと巡らせたりしていたが、目はすぐに細くなった。

「もう寝るか?」
「……うん」

 シロウが目をこする。首が舟をこいでいた。

「ここ、使っていいぞ」

 背後のベッドから身体をずらして、くしゃくしゃの布団をめくってやる。ウイスキーはなくなりかけていた。アイスペールの中にも水が溜まっている。

「でも……そこ、おじさんのねるところでしょ?」
「いいから寝ろ」

 シロウが大人しくベッドに入るのを見届けながら、最後の一杯を注ぐ。もうとっくに味なんかわからない。

「……おじさん」
「寝ろって」
「……何か、お話して」
「お話? 何の?」
「何でもいいよ。おじさんの知ってる話」

 お話、か。まるで自分が父親になったみたいで、変な感じがした。縁遠い世界だと思っていたのに、悪い気はしない。ろくに回らない頭で考えて、思いつくまま喋り出した。

「男が、一人いた」

 ぼんやりと、思い出しながら言葉にする。

「そいつは、女と一緒に暮らしてた。それより前はずっと一人で……まあ、いいか。とにかく二人で暮らしてたんだ」
「男の人と、おくさん?」
「いや、違う。でも、そうなるはずで、その前に少し一緒に暮らしてみることになったんだ」

 体が重くて、ベッドに背を預けるともう起き上がれないんじゃないかと思った。

「女は家事が得意で、男はそれがありがたかった。女の作る飯は美味いし、元々好きで一緒に暮らすことになったんだから何も問題なかった。ないはずだった。でも、そううまくいかなかった」

 手元のグラスをいたずらに揺らすと、氷はグラスにぶつかって溶け消えた。

「別々に暮らしてた頃は気にならなかったことがやたらと気になって、好きだったところが嫌いになっていった。喧嘩も増えたし無視も増えた。でも男は面倒臭がって、別に何もしないで、ただ当たり前に、ひっついたりなんだりしてた。このままじゃまずいなって気付いた時にはもう遅かったんだ。……女は何も言わずに、出て行った。男が自分から動かなかったから、女は自分の手で元の生活を取り戻したんだ」

 酒で焼けた喉が痛くて、一気にグラスを空けた。胃がじわりと痛んだ。

「……続きは?」

 シロウが少しかすれた声で聞く。

「ないよ。そのままだ」

 ずり落ちそうになる体をどうにか支えて、まぶたをこする。目がにじむのは欠伸のせいだ。それ以外に理由なんてない。

「……男の人は、今でも、女の人のことは好きなの?」

 俺はすっかり回転の鈍くなった頭で、驚いた。そんなことを聞かれたのは元より、そんなことを考えるのは初めてのことだった。今まで、考える必要がなかったからだ。

 顔を上げて、テーブルの上に目をやる。俺の酒の空と、使い込まれたマグカップ。

「ああ。好きだよ」

 あいつはアルコールには弱い方だった。でも、俺の作るホットワインだけは美味しそうに飲んでいた。

「……女の人の、名前は?」

 ああ、最後に、ちゃんと、名前で呼んだのはいつだったろうか。

「マキ」

 その名前の主は俺の向かい側、テーブルの向こうの定位置にはいない。もうここは彼女の定位置では、ないのだ。

「……おじさんは、マキさんを忘れて、わらってすごせるの?」

 それがいなくなるということだと、そう言ったのは俺だ。どうしようもない虚脱感が襲ってきて、俺はゆるく首を横に振りながら深く長く息を吐いた。

「……もう、寝ろ」

 言ってグラスを口に寄せる。空なのに気づいて、反射的に顔を上げて見たボトルも空で、そんなことさえ覚えていられない俺はどうしようもないのだろう。酒のせいにもできたが、結局はそれだけ飲んだ自分の仕業だとわかりきっていた。

「……おやすみなさい」

 俺はしばらく何かを考えていたが、体が重くなるのに身を任せて目を閉じた。枕にした腕に、髪が少しひやりとした。



 泥のように眠り、夢も見なかった。目が覚めるまで時間がかかり、覚めてもだるさと頭痛は退かなかった。

「……シロウ?」

 それはまるでうわごとで、何のことだったか思い出しながら俺は声をかける。

「シロウ?」

 ベッドは空だった。部屋の中を見渡してもあの小さな姿は見えなかった。

 くしゃくしゃのまま床に置かれたタオルと、同じくくしゃくしゃな布団。テーブルの上、グラスの向かい側には空のマグカップがある。鉛の体をひきずって洗面所へ行くと、シロウに貸した俺の服が下手くそにたたまれて残されていた。自分の意志で出て行ったのだ、とそれだけはわかった。

 まるで晴れない脳みそを持て余して、俺はそのまま風呂に入ることにした。ぼんやりした頭も少しはましになるだろう。

 ぬるめの湯を頭からかぶりながら、ゆうべのことを反芻する。シャワーの音は雨音に似ていて、少しずつ記憶の輪郭がはっきりしてくる。それでも何を話したのか、どんなことを考えていたのかを思い出すにつれて、目も覚めてきた。

 忘れて笑って過ごすなんて、できっこない。

 風呂を出る頃にはだるさもいくらか治まり、むしろ普段のだらけきった朝よりもしゃんとしているくらいだった。

 髪からこぼれる雫をタオルで拭う。シロウは家に帰る決心がついたのだろうか。それとも余所へ行ったのか。思えば俺がシロウを見捨てられなかったのは当然だった。あいつが見捨てられることは、俺が見捨てられるのと同じに思えたから。それでも酔いのせいか、シロウの顔はよく思い出せなかった。

 身支度を整えて、さっさと家を出ることにした。自分の性格は嫌というほどよく知っている。思い立ったが吉日、なんて今の俺のためにあるような言葉だ。昨夜の一件がなければ思い立つこともなかったろう。

 外は快晴だった。夜の雨の気配も残っていない。二日酔いの身には染みすぎるほどの眩しさだ。

「――ワン!」

 え、と思って振り向くより先に、俺は飛び掛ってきた犬を受け止めていた。前足を俺に預けて、尻尾をちぎれんばかりに振って、真っ直ぐに俺を見る白い中型犬。きちんと手入れされているのか、短めの毛並みはきれいだった。何故だか俺も犬から目を離せなかった。

「こらー、シロー!」

 ぎくりとしてそちらを見ると、元気な声を張り上げながら飼い主らしき少年がこちらに向かって走ってくるのがわかった。

「シロ! おいで!」

 頭の中が一瞬真っ白になった。本当に一瞬、頭痛も消えた。

「ごめんなさい。シロ、じゃれるの好きなんです」
「あ……いや……構わない、けど」

 少年を濡れ鼠にして俺の服を着せたら、ちょうど昨夜と似たような感じになるに違いない。顔は別にどうってことはないが、背格好はよく似ていた。それが何を意味するのか、考えるには脳がフリーズしたままだ。

「イチロウ!」

 少年と似たように声を上げて駆けてくる姿があった。今度は飼い主の母親らしい。

「良かった、シロ、いたのね。すみません、うちの子たちが」

 いえ、と会釈すると少年と白い犬はそろって照れ笑いを浮かべた。よく、似ている。

「ほら、お父さん向こうで待ってるから。向こうに着くのも遅くなっちゃうわ」
「うん。行こう、シロ」

 少年が犬の頭を撫でる。犬は心底嬉しそうに鼻を鳴らして尾を振り続けていた。

「今度はいなくなっちゃだめだからね」

 家族が向かう先にはファミリーカーが停まっていて、後部座席のウインドウから積み込まれた段ボール箱が見えた。引越しだ。車に乗り込むとき、真っ白な犬は一度だけ振り向いて一際大きく吠えた。

「……言われなくてもわかってるよ」

 返事をするように俺はそう呟き、車が走り去るまでその後姿を見届けた。そして迷いなく、真紀の元へ足を進めた。







  了








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