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623


「一滴の水は、大体0.05gなんだそうだよ」

 膝を抱えてぼんやりと窓の外を眺める彼女の背に、僕は呟いた。もうしばらく、僕の言葉は彼女に届いていない気がする。

「不純物がない水で考えるとだけど、そんなに精密な計量は必要ないと思う。一滴にしたってある程度ばらつきはあるだろうし」

 自分の言葉はおそらく薄っぺらなものなのだろう。その証拠に、彼女は相槌を打つことさえしない。顔を若干こちらに向けてはいるから、無視をしているつもりはないのだろうが、心をどこかに置き忘れた表情は変わらない。

「両目から流れ落ちるとして、一度で0.1g。ぽろぽろ、ぼろぼろ泣いたとしたら一度じゃ済まないから、そうだな、一時間泣いたら10gくらいにはなるんじゃないかと思う。これは僕の主観だけど」

 言いながら、こんな話に何の意味があるのかと自分に問いかける。僕は研究者などという仕事柄数字には強い方だが、彼女はむしろ苦手と言って差し支えない。普段ならまだしも、こんな具合の時に僕の退屈な説明なんて彼女の負担になりこそすれ、慰めになどならないのではないのか。そう思いつつも、僕は言葉を止める気にはなれない。

 これまではいくら僕がだんまりを決め込もうと、彼女の方が賑やかなほど喋ってくれた。ころころ表情を変えて楽しそうに喋る彼女を、もうどれだけ見ていないだろう。もう僕は、二人でいるあまりに静かな時間に恐れを抱いていた。

「そのペースでひと月泣き続けたら300g、ふた月で600gになる」

 そこで、彼女は僕の言いたいことを察して、顔色を変えた。

「きっと、君はそれよりも泣いてる。だから、623gはもう越えていると思う」

 僕の言葉は、彼女にとって苦痛でしかないのかもしれない。嘘をつくのが下手な彼女は、顔いっぱいに悲しみを浮かべて僕を見つめている。それ以上言わないで。そう訴えかけているようで、僕の咥内はからからになる。

 ここしばらく、暗がりの落ちた家で過ごすのは僕にとってもつらく、気持ちを紛らわすために色々と調べた。1kgにも満たないような命が育つはずもなかったのだと諦めさせて欲しくて調べた結果、その半分の重さで生まれても無事に育った子もいたのだとわかって傷を広げたりもした。

 遠くから小さな子供の笑い声が届いて、僕は慌ててカーテンを閉める。そろそろ小学生の下校時間だ、そして僕らの家は通学路に面している。彼女に見せてはいけない。

 彼女のお腹から小さな命が流れ落ちて以来、彼女は泣き続けていて、それはもうすぐ三ヶ月目に入ろうとしている。

「もう、充分じゃないか」

 僕はできるだけやさしく、自分に出せる一番穏やかな声でそう呟く。

「君は、大きく育つはずだった子と同じだけ泣いたのだから。その誕生を祝うには、もう充分じゃないか」

 こんな話をすることしかできない自分が歯がゆかった。彼女なら、笑顔を取り戻してそっと笑ってくれるだけで僕を救えるのに。

 彼女の顔が不意に歪む。顔を上げて、僕の目を見て、泣いた。すがりついてくる力が強くて苦しかった。それ以外の苦しさがあるとは考えないように努めた。僕は彼女を支え、立っていられるようにしなければならない。両腕に力を込めて抱き締め返すと、彼女は大声を上げて泣いた。

 その泣き声全て、僕の中に吸い込まれてしまえばいいのにと思う。全て吐き出して、僕に放り投げて、楽になってくれればいいのにと願う。

 きつく抱き締める腕の中には、彼女がいるのに、その中にもう僕らの子供はいない。からっぽのお腹の中に溜まっていた12460滴の涙が、全てを洗い流してくれるのだと信じて、僕は彼女の背をさすった。一緒に頬を濡らしながら。







  了








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