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夜明け前が一番暗い



   1

 取引先の連中が立ち去るのを最敬礼の格好のまま見送った後、私はひとり取り残された座席にどっかと腰を下ろした。朝も早くから準備して胃を軋ませながら説き伏せた結果が、これだ。この有様だ。持参した資料は一度開かれたきり、まともに目を通したかも怪しい。元より脈はないようなものだと知った仕事だった。わかってはいるが、それが救いになるのはほんのわずかだ。

 肘をついて頭を抱えたまま、ふうと大きくため息をつく。吐いた分へこんだ肺は、香しい湯気で満たされた。

 はっとして顔を上げると、いつの間にかテーブルに熱いコーヒーが置かれていた。そのすぐ横で、清楚な雰囲気のウェイトレスが静かに微笑んでいた。

「いや、あの、頼んでないけど……」
「はい」
「……いいんですか、いただいて」
「ええ、どうぞ。サービスです」

 ひみつですよ、と言う代わりに、彼女は立てた人差し指をこっそりと唇に寄せて、行ってしまった。年甲斐もなくそわそわしてしまうのを隠そうと、コーヒーカップに手を伸ばす。温かさが染みた。

 きっと彼女は一部始終を見ていたのだろう。小さな店だ、盗み聞くまでもない。先方から散々言われながら、それで愛想笑いを張り付けて必死こいているおっさんを見て同情したのかもしれない。

 同情でもいい。そう思えるくらいにコーヒーはうまく、彼女はきれいだった。

 どうにも目で追ってしまい、見ているうちに、彼女は実に良い立ち居振る舞いをすると改めて思わされた。今っぽい茶色がかった髪だが、大振りな黒い髪留めで耳の後ろにひとつにくくっていて清潔感がある。ここのマスターは私と同年代くらいだろうが、ひょっとしたら娘なのかもしれない。それくらい店の落ち着いた雰囲気に合っている。客の去ったテーブルであっても雑に片付けることなく、丁寧に食器類を集め、テーブルを拭き、立ち去り際には他のテーブルに不備がないか目を配っているようだ。甲斐甲斐しいとさえ言えるかもしれない。こんな部下がいてくれたなら、きっと仕事もスムーズに進んで気持ちよく働けることだろう。

 結局私はサービスのコーヒーをちびりちびりと飲んで長居し(それでも彼女は嫌な顔ひとつせずに追加のお代わりはどうかと聞いてさえくれた)、沈み込んだ気持ちもどこへやら、また明日から頑張ればいいのだと晴れやかな心持ちで席を立った。会計は同じ彼女だった。

「ごちそうさまでした。ありがとう、本当に」
「いえ。またのお越しをお待ちしてます」

 もちろん、と心の中で頷いて、私は店を出た。


   2

「もしもし、俺だけど。今日の売上の報告なかったからどうしたかと思って」

 携帯を肩で挟み、冷蔵庫を覗きながら言う。適当につまみでも、と思って見たものの中は酒以外空に近い。かろうじて残っていたのは卵とスライスチーズ。我ながらわびしい食生活だ。もう飲み始めているので今更外食に出る気にもなれない。

「なに、また捕まったの? 相変わらず給料前借りの話? ……うん、いや、俺からも前に駄目だって言ったんだけどなあ」

 仕方ない、ここは夕食も兼ねてしまおう。炊飯器に残っていた飯を丼に盛り、真ん中をくぼませ、生卵を落とした。

「うん……うん、あれでしょ、あの子の彼氏が借金持ってるからでしょ。しかも働いてないとかで。何だってそんなろくでなしの面倒みようとするのかね。……俺だって同情はするけどさあ、この業界で働いてる子にしちゃ珍しくもないしね。いちいち言うこと聞いてたらうちみたいな小さな店はすーぐ持ってかれちゃうんだから。そう、で、売上はいくらだったの」

 飯の上にチーズも乗せて、軽く醤油をかける。先週出ていった女が残した醤油は牡蠣醤油だかなんだかでやたらとうまい。これが一番で唯一の置土産だ。電話の向こうでサブマネがああだこうだ言い訳をするのを制してさっさと金額を言うよう急かす。どうせ大した額じゃないのは知れたことだ。

「……ああ、そう。ほら、前借りなんかさせてる余裕もないでしょ。ただでさえあの子評判良くないのに。……え、うそ、まさか知らないの? 店の他の子から目つけられてるでしょ。……なんだ、知ってるんじゃないの。……いや、あの子ね、客からもらったチップさ、そのまま自分の懐に入れてるんだよ。……そうそう、丸ごと。うちのルールは知ってるはずなんだけどねー。報告もないんだから。しれっとだよ。女は怖いね」

 丼と箸を持ってソファに戻る。テレビの中では名前も知らないアイドルがスポーツ選手相手にニコニコベタベタしていた。どいつもこいつも、若い女ってのは似たような仕事しかできないんだろうか。

「他の子に真似されちゃあたまんないからさ、君からも言ってやってよ。……いや、そういうのも店長の仕事だから。なるんでしょ、店長、なりたいって言ったでしょうが。……そうそう、その意気。あくまでうちに雇用されてやってるんだから、そこでついた客からもらったものに関してはきちんと報告をしろって、もうビシッと言ってやってよ」

 丼は一旦テーブルに置いて、ソファにもたれる。いまいち頼りないサブマネだが、背に腹は変えられない。生憎これ以上の適任がいないのだ。俺がつつがなく水商売の店長業なんてものを辞めるためにはどうにかしてこいつをその気にさせるしかない。

「……何、彼女DV受けてんの? ……いや、それは……いやいや、理由にはならない。それはそれ、プライベートな問題だから。店に持ち込まれても困る。俺個人としては、別れろってアドバイスするけどね。その方が彼女のためでしょ」

 ああ、早く引継ぎを終えて田舎に引き上げたい。そもそも俺には向いていなかったのだ。この街も、こんな仕事も。親父が倒れたのはいい機会だった。

「……はい、わかったから。明日はオープン前に顔出すからさ。俺からも言うから。……うん、はい、それじゃあお疲れー」

 切った電話をソファに放り投げ、丼飯をかきこむ。飯の予熱で溶けたチーズが糸を引いた。一口飲んだきり放っておいたビールはぬるくなっていた。さっさと食って寝よう。昼が来る前に。


   3

「っしゃいませー」

 もう今日は客も来ないだろうと油断しきってあくびをしかけたところに自動ドアが開いたもんだから、俺は実に中途半端な挨拶で客を迎えた。ひとつ咳払いしてごまかす。香水と酒の臭いをまとった、けばい女。夜明け間近のコンビニには似合いの客だ。

 まだ慣れないタイムテーブルでの生活のために襲ってくる睡魔を撃退するために、たったひとりの客をぼんやりと観察する。よくよく見ればなかなかの美人だ。濃い化粧なんかしちゃってもったいない。分厚いコートでよくはわからないが、スタイルもいいんじゃないだろうか。小柄で華奢で、男受けがよさそうだ。

 若干おぼつかない足取りで店内をめぐった彼女がレジに持ってきたのは、パスタとサラダと当店自慢の高カロリースイーツ。一人暮らし丸出しですね、お姉さん。寂しいんだったらお付き合いしますけど。なんてもちろん口には出さない。コンビニ店員は余計なことをせずに機能的であるべきだ、と思う。個人的に。

「パスタ、温めますか?」
「……お願いします」

 意外なほど小さな声だった。格好だけ見たらもっとつっけんどんな喋り方をするか、でなければ無愛想に無言を貫きそうなものなのに。ささやくような小さな声ながら、会釈しつつの丁寧な返事だった。悪くない。こういう対応をされると接客しがいがあるというか、ちょっと救われるような気持ちになる。深夜のコンビニなんていう仕事を残念に思わないで済むような。

 財布からもたもたとお金を出すのを見ていたら、アイメイクがぐちゃぐちゃなのがわかった。泣いたのかもしれない。それで声が出ないのかも。お金を差し出した指は、ネイルこそびっちりしっかりされていたけど、何だかもう弱りきった小動物みたいに震えていた。

 袋詰めも終わって、あとはレンジが鳴るのを待つだけ。なのだが、その間にも俺は何度も彼女の方をちらちらと見てしまった。今ここで彼女が急に倒れても俺は驚かない。むしろ紳士的に介抱できる気がする。大丈夫なんだろうか、この人。

 と、お姉さんの顔色が変わった。店の外を見ている。俺がその視線の先を追うよりも早く、彼女は店から駆け出してしまった。

 え、あの、と誰にも届かない俺の独り言。それからレンジの鳴る甲高い音。お姉さんは温まったパスタはおろか、サラダもスイーツも全部置いたまま出ていってしまった。混乱したまま無意識にガラス戸の向こうに目をやるが、彼女の姿はもう見えない。それから何だかわからない影がさっと通り過ぎる。暗くてよくわからないが、たぶん人だ。それも背の高い、大柄な感じの。その影が持っていたものなのか、一瞬何かが光って見えた。

 そして、夜を切り裂くような悲鳴が聞こえた。


   4

「昨夜未明、○○町の路上で若い女性が刺される事件が発生しました。女性は意識不明の重体、近くのコンビニエンスストアの男性店員の通報で警察が駆けつけましたが、犯人は依然として捕まっていません」

 原稿を読むアナウンサーの映像から切り替わる。壮年男性のバストアップ。顔は画面外で見えない。テロップで「女性が勤めていた喫茶店店長」の文字。

「接客態度も良い子で、お客様からの評判も良かったように思います。誰かの恨みを買うような子では……」

 男性は言葉を切り、首を横に振る。映像が事件現場に変わる。仕事中の警察官たち。アスファルトの地面には流れ出た血液が濁った色で残されている。

「現場付近では他に被害者は出ていない模様です。なお、被害者女性は深夜の別の仕事帰りを狙われたと見られ、そちらでのトラブルがなかったか現在警察が調査を進めています。次のニュースです……」







  了








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