腕に力は入らず、少女を抱き締めている感触もなかった。それでも私は少女を抱き締め続けた。

 ごめん、ごめんね。

 私が一緒に行っても、きっとあなたは救われない。

 あなたは、眠らないといけない。

 ゆっくりと、安らかに。

 気が遠くなっていく中で最後に見た少女の顔は、悲しげに、笑っているようだった。

 気がつくと、湯船の中にいた。電気は灯っていたし、バスルームの中は何事もなかったように静かだった。

 夢、だったのだろうか。

 湯から上がって洗面所へ出て、鏡を見る。私は、さっきまでの出来事が夢や幻ではないとこを悟った。

 胸の上に、子供の手形が赤く残っていた。

 翌日鏡を見ると、手形はきれいに消えていた。私は大家さんを訪ね、私の住む部屋で起きたことを訊いた。大家さんは渋ったが、最後には聞かせてくれた。

 あの部屋には、ある母子が住んでいた。父親の姿は始めからなかったらしい。母は明るく社交的だったが、娘は暗く大人しかった。

 ある日、娘が死んだ。風呂場での溺死だった。事故だった、ということになっている。が、大家さんはそうは思わなかったという。

 あの部屋からは度々母親の怒鳴り声と娘の泣き声が聞こえていたからね、と大家さんはつらそうに言った。

 そして、母親も死んだ。娘と同じように、風呂場で溺死した。原因がわからず、事故だということになった。

 その部屋に、私が入居した。そして、少女は現れたのだった。

「二人のお墓を、教えてもらえませんか」

 大家さんは私にその所在を教えた後、頭を下げた。「すまんね」という呟きが温かかった。

 近いうちに時間を作って、墓参りをしようと思う。きれいな花束を持って、彼女を訪ねようと思う。

 私にできることは、それくらいしかない。






  エピソードBDB 「弔いの花を」









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