いきなり助けてくれと言われて迅速に行動できる人なんて、そういるもんじゃない。どうしていいかわからないのは私も同じだ。ともあれ近くに誰かがいてくれるだけでも、私はだいぶ救われていた。

「……あの、玄関って開いてますか?」

「え?」

「いや、もし開いてるんなら僕一人でもどうにかできるかもしれないと思って」

 私を落ち着かせようとしてくれているのか、お隣さんは努めて明るくそう言った。ひょっとしたら警戒させないように言っているのかもしれないが。

「玄関、開いてますか?」

「え、ええ」

「じゃあ、そっちに行きます。いいですか?」

 私は賭けでもするような気持ちで頷いた。今のままでは一歩も出ることのできない私に、断われるはずがなかった。お隣さんの「すぐ行きますから」という返事を聞いて、私は密かに祈った。どうか、いい人でありますように……。

「おじゃまします」

 ドアの開く音と共にお隣さんの声。

「こ、こっちです」

 短い足音の後、洗面所に人影が見えた。白いシャツに黒っぽいズボン。ネクタイらしきものも見えるし、ひょっとしたら仕事帰りだったのかもしれない。

「大丈夫ですか?」

「は、はい」

 近い声。私はいつになく緊張していた。曇りガラスの向こうに、男の人がいる――。

「あ、なんだ」

 それはとても気の抜けた声だった。笑うような呆れるような声で、お隣さんは言った。

「洗剤の容器が倒れて、ドアに引っ掛かってただけですよ」

 なんだ、と私も思った。そんなことであんな泣き言を言ってたなんて、少し恥ずかしい気もする。これで警察なんて呼ばれていたらとんだお笑い種になるところだ。私は少し、胸を撫で下ろした。

 お隣さんはさっさと容器をどけた。

「じゃあ、僕はこれで」

 思っていたよりもずっと、事はスムーズに運んだ。お隣さんの反応もあっさりしたものだった。

 ――と。

 ガラガラガッシャン!という大きな音。どうやら彼は何かにつまずき、体を支えようとした弾みで洗面台から色々と落としたようだった。

「す、すいません……」

 その声は明らかに動揺していて、私は思わず笑ってしまった。

「後で私がやっておきますから」

 そう申し出るとお隣さんはもう一度、すいません、と言って照れくさそうに頭をかきながら出ていった。

 一人になって、再び笑いが込み上げてくる。

 面白い人だ。疑って、悪かったな。

 素直になったドアを抜けて洗面所へ出ると、スタイリング剤やらクシやら色々と散らばっていた。向こう側を透かすように壁を見て、またクスクスと笑う。

 お礼、言いに行こうかな。ちょっと決まらなかったけれど、彼が私を助けてくれたことに違いはないのだ。それに、越してきた挨拶だってまだしていない。打ち解けるのは簡単そうだったし、楽しみにも思えた。

 ここでの新しい生活も、悪くないかもしれない。私は、そう思った。






  エピソードBCB 「新しい日々」









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