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「拙者は昔、野良猫の時分に、拾われたのでござる。その時、拙者は他の猫と戦った後で、怪我があった。その手当てもしてもらったが、拙者は懐こうとはしなかった」
「猫ってそんなもんじゃないの? 我を通すっていうか」
「中にはそういう者もおるが、拙者は恩返しくらいは致すよ。ただあの頃は、戦いに負けた悔しさもあったが、拙者は人間が嫌いでござった」
「人間が? なんで?」
こういう、深く考えずに軽く聞き返すようなデリカシーのなさは、反省の余地がある。
「人間が、拙者を捨てたからでござる」
俺が言葉を探して口をぱくぱくさせている間に、吾一は笑って続けた。
「気になさるな。もう昔の話でござる」
「……でも」
「珍しい話でもござらん」
確かに捨て猫捨て犬の類の話は珍しくはない。珍しくはないが、そんなことはこの際関係ない。軽く聞き返してしまったせいで、そんな話を、吾一本人の口からさせてしまったのが問題なのだった。そう言って、ごめんなと呟くと、吾一はまた目を目一杯細めて笑ってくれた。
軽々しい口は俺の悪い癖だとわかっているのに、なかなか治せない。
「……今も?」
「む? 何と申した?」
「……何でもない」
今も、嫌いなのか?
俺は言葉を飲み込んだ。俺はいつの間にか随分と吾一を気に入っている自分に気付いた。気に入った奴のことは、知りたくなる。知りたくて、つい、余計なことまで聞いてしまう。そのせいで痛い目を見たばかりだというのに、俺の口と言うやつは減らない。
こっそりと溜め息をついたつもりだったが、吾一の耳には届いてしまったかもしれない。彼はすぐに話を進めた。
「ともかく、拙者は飼われることになったのでござるよ。怪我さえ治ればさっさと出て行くつもりでござったが……」
「結局、居ついちゃったってことか」
「まあ、そういうことでござる」
「その人、どんな人だった?」
「宗治殿の親の親と同じくらいの世代でござろう。翁《おきな》と呼ぶと喜んだ」
「……その時から、もう喋れたの?」
「飼われ始めてすぐは駄目でござったが、気付いたら拙者は人間の言葉を理解出来るようになってござったよ。言葉を覚えたのは、この頃でござる」
翁ってことは、おじいさんであって……。
「……そのじいさん、時代劇とか見てなかった?」
「好んでよく見ておったよ。拙者もよく、翁の膝の上で一緒に見ていたものでござる。あれはなかなかよく出来ている。大岡越前とか、水戸黄門とか。一度、翁をご老公と呼んでみたこともあったが、あれは翁が照れてしまった」
「……なるほどね」
見た目の割りに古風な理由がわかった気がする。時代劇が日本語の先生じゃ仕方ないか。
「翁は本当によくしてくれた。一人で暮らしていて、料理が上手かった。翁に撫でられたり、一緒に眠ったり、話をしたりしているうちに、拙者は翁に懐くようになった。拙者と翁は、同じだったのでござる」
「同じ?」
吾一は一呼吸おいて言った。
「翁もまた、捨てられたのでござる。一緒に住んでいた、家族に」
それを聞いて、胸の奥、体のやわい芯の部分がきゅっとなるのを感じた。
「翁は寂しそうに笑う人でござった。拙者は笑うことの出来ない猫でござった。けれど一緒にいると、翁も拙者も心から笑うことが出来た。拙者たちは、幸せだったのでござる。たった、一人と一匹でも」
そう言って笑う吾一の顔には、ちょっとのかげりもない。そして笑ったまま、こう付け加えた。
「翁の名前は、宗治朗というのでござるよ」
「宗治……朗?」
「拙者はこの名に、縁があるのかもしれぬな。そう思うと、宗治殿に拾われたのもただの偶然とは思えぬ」
吾一はきれいな眼で、またしても俺を真っ直ぐに見ながら、嬉しそうにそう言った。
「宗治殿に会えて、良かったでござる」
まったく、こいつはなんて、なんていい顔で笑うんだろう。つらい話をしていたのに、どうしてこんな風に笑えるんだろう。
俺もつられて笑ってしまうじゃないか。同じように、胸が、苦しいのに。
「……本当に、偶然じゃないのかも」
笑ってごまかしながら言うんではなくて、自然と笑ったまま、俺は言った。
「俺も、今日、捨てられたんだ。……ずっと好きだった女の子に」
とうとう自分で認めてしまって、胸がつぶれそうだったけれど、笑ったまま言えた。
二年の間ずっと一緒にいて、春も夏も秋も冬も一緒に過ごして、最後の最後、俺に別れを告げる時まで俺の目を真っ直ぐ見ていた子の顔がくっきりと思い出されたけど、ちゃんと笑えた。
「でも、いじけてる場合じゃないな。吾一の話聞いてたら、また頑張れそうな気がしてきたよ」
それは嘘ではなかったし、強がりでもなかった。
きっと、誰にだって寂しい時はあるのだろう。寂しさはいつも唐突にやってきて、俺たちを潰そうとして、叩きのめそうとして、すっぽりと包み込んでしまう。でも俺たちは、いつだって、それを乗り越えていかなきゃいけないんだ。辛かった時間を、これからの糧にして。誰かと別れた後に、また誰かに会うために。
「サンキュ、吾一」
「……さんきゅ?」
「ありがとうってことだよ」
吾一は納得したように頷くと、少し照れたように笑った。「こちらこそ、かたじけないでござる」
それから俺たちは、他愛もない話を続けた。俺の通っている大学に悪代官顔の教授がいることとか、吾一の一番の大好物は煮干しであることとか、俺が料理人を目指しているのは実は結構本気であることとか、吾一は人間にしたらだいたい俺と同じくらいの歳であることとか。俺の別れた彼女と吾一の翁の話はしなかった。その方がいいと思った。たぶん、お互いに、そう思っていた。どれだけ明るく話したとしても、どちらもきっと、悲しい結末が待っているだろうから。
その日はふたりで眠った。吾一も俺も、何だか楽しくて嬉しかった。そして吾一のからだは温かくて、俺はついきれいな毛並みに顔を埋めて、ちょっとだけ泣いてしまった。
朝になって目が覚めて、俺の気分は予想以上によかった。カーテンを開けると抜けるような晴天が広がっていて、陽を浴びて伸びをする吾一の姿がのどかだった。
「絶好の出発日和でござるな」
吾一はそう呟き、俺の方に向き直るとはっきりと言った。
「世話をかけたでござるな、宗治殿」
その言葉に、俺は自分でも意外なくらいに驚いた。吾一とはずっと一緒にいるような気がしていたから。
「……行っちゃうのか?」
ついそんな言葉が口をついて出た。
「この手の住居は、拙者がいてはまずいでござろう。宗治殿にこれ以上の迷惑はかけられぬでござるよ」
俺がそんなことはないと引き止めるより先に、吾一は言った。
「それに、拙者は色々な場所を巡り、色々なものを見、聞き、感じたいのでござる。どうやら拙者は野良が性に合っているらしい」
吾一の意志は固いようだった。俺は引き止めるのを止めた。ひどく残念だったけれど、それは隠してしまうことにした。
もう少しここにいたって構わないんだぞ、という台詞を飲み込む。
「……もしこの辺りに来ることがあったら、寄れよ。煮干し、用意しておくからさ」
「おお、それは嬉しいでござるな」
何だか悲しさが戻ってきてしまった俺は笑うことに徹した。
「……それでは、行くでござるよ」
「……うん」
吾一を送ろうと玄関に立つ。吾一の背中を見ていると、不意に洗い流す前の毛並みが思い出された。拾ってから、まだ、たったの一日も経っていやしない。
「……ああ、言い忘れるところでござった」
ふと何かを思い出したように吾一が振り向く。
「拙者は、今はもう人間が嫌いではござらんよ」
……このヤロウ。
「聞こえてたんじゃねえか」
そうやってわざと憎まれ口を叩くと、吾一は意味ありげに含み笑いをした。まったく、人が悪い。いや、猫か。
「それともう一つ」
「今度は何だよ」
半ば呆れたようにそう返してやると、吾一はここに来て最高の笑顔で言った。
「さんきゅ、でござる」
そして吾一は俺の返事も待たずに潔く背を向けた。
「いざ、さらば!」
そして吾一は風のように去った。まるで、時代劇に出てくる英雄みたいに、格好よく。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
初めてこの宝物を語ってみせた相手は、いつもくりくりとした大きな目をより一層輝かせて、にこにこと聞き入ってくれた。
「だから、パパはいっつも煮干しを切らさないようにしてるのね」
母親をそっくり真似たような言い草に、ついにやけながら、そうだよ、と返事をして頭を撫でてやる。残念ながら父親に似たとは思えないけれど、頭のいい子だと誇らしく思う。
「これはおつまみじゃなくて、いつ吾一が来てもいいように用意してるんだ。けど、賞味期限があるから、ずっと取っておくわけにもいかない。となると、食べなきゃもったいない」
「おいしい?」
「うん」
特別に分けてあげよう、と差し出すと、娘は一度うーんと頭をひねってから、深々と頭を下げて受け取った。
「かたじけない」
その仕草が可愛らしく見えて仕方がないのは、きっと親馬鹿のせいだけでもないだろう。ママと吾一には内緒だぞ、と言いながら、たまには宝物を誰かに見せるのも悪くはないと思っていた。
*サイトアクセス2020hits リクエスト作品
御題 「猫」
やでお様、2020ヒット報告ならびに御題提供ありがとうございました。
御題、というよりも旧作の掲載の御希望に近かったわけですが、
完全新作とはいかないまでも改稿してみました。
これを機に猫じゃない方の主人公も気に入ってもらえるといいなあと思いつつ。
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