ここはとある台所 -page2
「……とにかく」
気を取り直して、ナイフは言いました。
「どうやら、はっきりさせなきゃいけないみたいね。誰が上か」
「もうはっきりしてるじゃない。使われる頻度を考えれば明らかだわ。あんた、昨日使われたの二ヶ月振りでしょう?」
「問題は回数じゃないわ。質よ。あたしは分厚いステーキを切るけど、あなたがすくうのなんてせいぜいカレーかシチューでしょ」
「そ、そんなことないわよ。スプーンはデザートの強い味方だもの。プリンとかババロアがナイフで食べられる?」
「何言ってるのよ。それはもっと小さいデザート用のスプーンの話でしょ。あなたみたいなデカいスプーンでデザートなんて食べたら情けないことこの上ないわ」
スプーンは言葉に詰まりました。確かに、必要に迫られない限り大きいスプーンでデザートを食べるのは遠慮したいものです。
「ああ、そういえばこの間遊ばれてたわね、あなた」
「な、何のことよ」
「この家の子供によ。二本を両目に当てて、ウルトラ」
「やめて! それ以上言わないで!」
女の争い、再び。フォークはとばっちりを避けようとだんまりを決め込んでいました。
「ちょっとフォークさん! なに黙ってるのよ! あんた、私のベストパートナーでしょう?」
ひっ、とフォークはびくつきました。
「そうね、事の発端はあなただったわ」
勘弁してくれ、というフォークの心の叫びは誰にも届きませんでした。
「ねえ、言ったわよね? 私は無敵で最強だって」
スプーンの物言いはしつこい上に都合よく歪曲されていました。
「あなただって、たまには高級なものを刺したいわよね?」
ナイフの物言いは相変わらず尖っていました。
どちらにせよ、フォークには恐ろしいものであることに変わりはありませんでした。どちらに転んでも、逆襲は必至です。フォークは何も言えませんでした。できることは天に祈りを捧げて助けを待つことだけです。
『ほら、手伝って。冷めちゃうでしょ』
鶴の一声、神の声。棚の外から聞こえたこの家の主婦の声に、三本は顔を見合わせました。夕食が出来上がったのです。
「……賭けをしましょう」
言い出したのはナイフでした。
「単純な賭けよ。今日食卓に上がった方の勝ち。どう?」
シンプルイズベストとはよく言ったもので、ナイフの提案は二本を黙らせました(フォークは端から黙っていましたが)。
「いいわ。その賭け、受けます」
「僕も、それがいいと思うよ」
フォークは選択権が第三者に移ったことに安堵しました。これでフォークの責任は激減です。
「……アタクシは選ばれない……きっと選ばれない……」
どこからともなく声が聞こえましたが、三本は無視しました。
『ほら、早く運んで』
『わかったってば。おなかすいたー』
慌しくも楽しげな母と息子のやり取りに、三本は気を集中させました。
そしてきっと、それに気付いたのは三本同時だったのでしょう。漂ってきた夕食の匂いが、命運を予言したのです。
「この匂いは……!」
ナイフの声は続くことなくそこで途切れました。それを引き継いでフォークは言いました。
「……カレーだ」
なんということでしょう。三本に届いたのは、皮肉にもナイフの言ったあのメニューの匂いだったのです。
「あら、これじゃあ賭けにならないかしらね?」
スプーンは笑ってしまうのを隠そうともせずに言いました。ナイフはただただ黙っていました。確かに、元より勝ち目の薄い賭けだったのはわかっていました。けれど、こんなふうに勝敗を知ることになるなんて、ナイフは屈辱をひた隠しにしました。
「これは……ひょっとしたらひょっとする? だってカレーは学校給食の味方。ひいてはアタクシの……!」
ちなみにフォークはサラダの有無に気を取られ、この際他のことはどうでもいいようでした。自分の出番が来る率は高いと踏んだフォークは密かに喜びました。負けたナイフと引出しの中でランデブーは御免です。
そして、賭けの結果が告げられました。
『いただきまーす』
「……あれ?」
引出しが開けられることはありませんでした。三本(と一本)の心境などお構いなしに夕餉は始まったのです。
「あれ? あれ?」
慌てているのはフォークでした。ナイフは驚きで声が出ず、スプーンは何が起こったのかわからずに思考停止していました。先割れスプーンは儚く消えた夢に意気消沈し切って今にも崩れ落ちそうです。
そして食器たちがことを理解するよりも先に食事は終えられ、洗い物の水音が聞こえ始めました。
「……どういうこと?」
フォークの呟きは他の二本の思いも代弁していました。燃え尽きた先割れスプーンにはそんな声は届いちゃいません。全てが終わり台所の明かりが消されるまでの間、棚の中に会話はありませんでした。
「……残念だったな、三本とも」
その声は棚の外から聞こえました。そう遠くからではありません。おそらく食器棚のすぐ傍にあるテーブルの上から聞こえたのでしょう。三本は声に覚えがありました。
「教えて! どういうことなの? 夕食はカレーじゃなかったの?」
スプーンの声は悲痛ですらありました。一度上げられた上での落下だったので、ダメージが大きかったのです。
「ああ、確かにカレーだったよ」
「そんな! だったら私が使われないのはおかしいじゃない!」
「ただ、カレーライスじゃなかったってことだ」
「……まさか」
その息を呑む声は棚の外まで届きました。
「今のは……ナイフさんかな?」
「え、ええ……」
「さすがに鋭いな。おそらく君の考えは当たってる」
「じゃあ、やっぱり……」
「アタクシの出番がなかったことに変わりはないわ……」
先割れスプーンの悲哀に満ち満ちた呟きは全員に無視されました。
「何なのよ、一体! 結局メニューは何だったのよ!」
ヒステリックなスプーンに同情したのか、ナイフはいつになく優しい口調で言いました。
「この娘に、教えてあげて頂戴。今日の夕飯が何だったのか。……ねえ、お箸さん」
声の正体に驚いたのは先割れスプーンだけでした。食卓に上がる機会のない彼女(彼?)だけが知らなかったからです。
「……カレーうどんさ」
「カレー……うどんですって?」
「そう、うどんだ。だから君の出番はなかった」
「そんな……」
息苦しいほどの沈黙が訪れました。もはや先ほどまでの争いの熱は冷え切っており、スプーンたちの間や先割れスプーンの隙間を通り抜ける風となっていました。
「は、箸さん、その……つけ合わせは何もなかったの?」
場の空気を読めないフォークがそんなことを言い出しました。
「サイドメニューっていうか……ほら、サラダとか」
箸はそんなどうしようもないフォークにも落ち着いて応えました。
「付け合せか。あったよ」
「本当に!?」
「カレーといえばあれだろう」
またしても棚の中に「まさか……」という空気が流れました。
「福神漬け」
フォークは脱力しました。確かに、手元に箸がある状態で漬物を食べるためだけにフォークを出す人はいません。
「給食についてきた福神漬け……アタクシ、沢山刺したっけなぁ……」
郷愁に浸る先割れスプーンは、他とは違う切なさと世知辛さを痛感していました。
「……認めないわ」
静寂の中に空しく浮かび上がったのは、スプーンの声でした。
「私は認めない……カレーをうどんにかけるなんて……カレーをすくうのは私の役目なのに……!」
棚の中に、今のスプーンに声をかけられる者はいませんでした。
「……結局、食器を使うのは人間なんだよ」
箸は低く響く声で語り出しました。
「料理を作るのも人間、食器を選ぶのも人間なんだ。俺たちはこの家のお袋さんの作った料理を皆が食べるのを手伝うためにいるんだよ。いいじゃないか。使われる回数が多いとか少ないとか、関係ないだろう? 俺たち食器は、いつか必要になった時のためにいることに意味があるんだ」
「……なによ……あんたは使われてるからそんなことが言えるのよ」
スプーンは自嘲的に笑いました。
「そうよね……棚の中の食器なんて、箸立てにささって常に外にいる箸とは勝負になるはずがないのよ。考えてみれば当然のことだわ。毎日食べるのはお米、その隣にいるのはスープじゃなくてお味噌汁……スプーンの出番なんて……」
「――そんなことないよ!」
響き渡った声は――フォークのものでした。
「フォークさん……?」
「スプーンさん、忘れたのかい? 君を使って口一杯にご飯を頬張る皆の笑顔を! あんなことは君じゃなきゃできないよ!」
フォークは誠心誠意を込め、必死にスプーンに語りかけました。
「前におじいちゃんが、君たちスプーンを見つけられずに僕でプリンを食べようとしたことがあったよね? すくってもすくっても落ちちゃって、結局おじいちゃんはぐちゃぐちゃになったプリンをカップから直に飲んだんだ。あの時のおじいちゃんの悲しそうな顔は忘れられない。ああ、僕はスプーンさんには適わないなって……そう思ったんだよ。それに……」
フォークはふっと、嬉しそうに泣きそうに言いました。
「皆の大好きなカレーライスは、フォークじゃ食べられないよ……!」
「フォークさん……!」
フォークの言葉は皆の感動を誘い、食器棚は温かい気持ちで満たされました。先割れスプーンまでもが心を打たれ、先ほどのフォークの暴言などは彼方へと消え去っていました。それどころか、名誉挽回したフォークに対して先割れスプーンは「素敵……」などと青息吐息に呟いていました。
「……ごめん、ナイフさん。僕は、やっぱり……」
「何を謝ってるのよ、フォーク。それが、あなたの選択なんでしょう? 胸を張りなさい」
「ナイフさん……」
「……スプーンを、大切にね」
ナイフはそう言って、悲しさを胸に秘めて笑って見せました。そのからだには、スプーンやフォークとは別の刻印がささやかに輝いていました。
「……ごめんなさい、ナイフさん。私……私……!」
先ほどまでの争いからは考えられないくらい殊勝な態度のスプーン。ナイフは慈愛に満ちた素振りで言いました。
「あなたも、いつまでもいじけてちゃ駄目よ。どうせまたこの家の旦那はカレーうどんの残り汁にご飯を入れて食べたりするんだから。そうなったらあなたの出番でしょう?」
いまだかつて、この食器棚がこんなにも優しさに包まれたことがあったでしょうか。いいえ、ありません。ナイフとスプーンは今、初めて仲間、同志として歩み寄ることができたのです。
「……少し、羨ましいな」
そう呟いたのは箸でした。
「あら、どうして? あなたはこの家で一番愛されてる食器じゃない」
ナイフの言葉に、他の食器も頷きました。しかし、箸の思いは別のところにありました。
「君たちと違って、俺はいつも独りだからね。パートナーなんていない。それが、ちょっと、ね」
万能なものは、かくも孤独を抱えているのです。
「わかるわ、お箸ちゃん。アタクシもいつも独りだった……」
先割れスプーンは過ぎ去り日を見つめながら呟いています。
「でも、お箸さん、あたしから見たら有能なあなたは輝いているわ。私は、誰かがいなきゃ力を出せないから」
ナイフは寂しげに言いました。もっと寂しがっている先割れスプーンには誰も気づいていません。
「結局、無いものねだりなのよね」
「ああ、そうだな。だからこそ俺たちは自分にできることを、自分にしかできないことを頑張らなきゃいけないんだ。誰かの助けになるために」
「誰かが何かを食べて美味しいと感じる、その幸せな瞬間に立ち会えることを、誇りに思わなきゃね」
大人な一本と一膳は微笑をたたえてそう言いました。和洋が違えど同じ食器、食にかける思いや願いは同じなのです。
「まあ、俺は君ほど高級感のある食器はないと思うがね、ナイフさん」
「あら、それって口説いてるつもり?」
「どうかな。俺も、独りでいることに飽きたのかもしれない」
ナイフと箸は、互いに満更でもない様子でした。食器の組み合わせとしてはどうかとも思えますが、彼らにはさほど問題ではないようです。必ずしも一緒に使われることが同志であることの条件ではないと気づいていたからでした。
「……アタクシも食器……食器なのよ。希望を捨てちゃダメ、誇りを捨てちゃダメ……だって、だってまたいつか使ってもらえるかもしれないもの……! ガンバよ、ガンバだわアタクシ……!」
そうして夜は更け、食器たちは眠りにつきました。明日の朝食に、そしてこれからの食事に、自分たちが使われることを夢見て。
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