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夢を見た。
僕は学校で、相変わらず僕の机に座る雅道に何か言っている。それを聞いた雅道は、いつものように大声で笑った。その声に、僕の声が重なった。耳に懐かしい、僕のあの声が。僕は喉が痛くなるくらい、涙が出るくらい、笑った。
目覚し時計が聞こえる。僕にとって、それは通告だ。
オマエノコエヲキクモノハ、モウダレモイナイ。
僕はやかましく叫び続けている目覚し時計の頭を殴り、そのまま手に取った。壁に向かって振りかぶり、手を止める。時計を握り締める手が震えた。どうしても、僕はこいつを砕き壊すことができない。これを壁に叩きつければ、間違いなく母さんが駆けつけてくるからだ。僕は母さんに、心配をかけない説明をする自信がない。
僕は時計を、静かに置いた。
体に染みついた準備を終えて、階下へ降りる。相変わらず忙しそうに動き回っている母親は、降りてきた息子に気付かない。僕はしばらく動かずに突っ立っていた。
「あら、いつの間に降りてたの?」
五分ほど経ってから声がかけられ、僕は何も意志表示せずに席に着いた。すぐに朝食が並んだ。
「ほら、早くご飯食べちゃいなさい」
僕は頷き、朝食をとった。
母さんは昨日、新しい携帯電話は次の日曜日を待てと言った。ちなみに昨日は木曜日で、母さんは土曜日でもいいけど、と付け加えた。僕は筆談で、急がなくてもいい、とだけ伝えた。
朝食を終え、準備を終えて外へ出る。朝日が眩しくて、僕は目をつぶった。
教室に入っても、僕が声を失ったことに気付く人はいない。最初に気付いたのは雅道だった。
「あれ、携帯は?」
挨拶を終えた雅道が、手ぶらの僕に声をかける。
僕は鞄からごそごそと筆記用具とノートを取り出し、文字を走らせた。
「こわれた」
雅道は自分の携帯電話を僕に寄越し、それで会話するように言った。僕はそれを、機種の違いへの戸惑いを理由に、丁重に断わった。次を買うまでの辛抱だ、と書き告げると、雅道は納得した。
会話のできない僕に声をかけてくる人間は、ごく少数だった。筆談をしていない間中、僕は机を叩き続けた。コツコツという音は、僕の耳に優しく、また冷たかった。
携帯電話が一つ壊れたくらいで、周囲の日常に変化はない。学校での一日は、何の問題もなく進み、終わった。
「今日もうち来ないか? ……明日の英語、当たりそうでさ」
放課後になり、雅道は面映そうにそう言った。僕は気乗りしないのを隠して頷き、大人しく雅道の後ろについた。断わるには、僕のエネルギーは足らなかった。
浅川家までの道程で、雅道はここでだけは使えと自分の携帯電話を僕に押し付けた。僕はそれに従ったが、機種の違いに実際に戸惑い、いつものようなスムーズな会話は成せなかった。熱さのために切れる息の音が、耳に響いた。
浅川家には、すでに母親の姿はなかった。僕たちは雅道の部屋へ入り、それぞれに行動を開始した。雅道がノートに向かい、僕が本棚から取った本に目をやる。こういう、言葉のいらない時間は、僕にとってひどく貴重なものだ。ただ、同時にその稀少さに溜め息も出た。
いつも時間を持て余している僕は、学校では成績の良い方に入っている。雅道はそんな僕のノートにしきりに感心しながら、教科書の日本語訳をせっせと書き写した。僕はそれに曖昧に頷きながらも、本から目を離さなかった。内容は、ほとんど頭に入らなかった。
雅道の口から欠伸が漏れる頃になり、僕は、来なければ良かったと思い始めていた。
そんな時、顔を上げるだけのことにひどく覚悟が必要になっていた僕の耳に、忍び込んできた音があった。僕は反射的に顔を上げていて、そんな自分に驚いた。雅道に気付いた様子はなかった。
僕は本を置き、鞄からシャープペンを取り出した。
「トイレ」
僕は雅道の見ている自分のノートにそれだけ書きつけ、一人階下へ降りた。全くもよおしていない僕は、足音を忍ばせて居間へ向かった。
黒い箱に向かう、黒髪の背中が見えた。
僕はさらに歩を進め、音に近付いた。
と、唐突に美音子は振り向いた。驚き、一歩後退りする。
「あ、ごめんなさい。驚かせてしまって」
ピアノに姿が写っているのが見えたので振り向いた、と美音子は説明した。こうもきれいに磨き込まれたピアノの表面を見る限り無理もない気もしたが、気付かないうちにずいぶんと近付いていたらしい。
「……ピアノ、傍で聴いてみますか?」
美音子はほんの少しの緊張感を漂わせながらそう提案した。僕は頷き、ピアノの隣に立った。美音子は薄らと頬を紅潮させて指を動かし始めた。その動きは、その、何と言うか、魔法のように音の流れを生み出した。どこかで聞いたことのある、柔らかいクラシック曲だった。僕が美音子の指に見とれ、紡ぎ出される音楽に聞き惚れているうちに、美音子は一曲を弾き終えていた。僕は拍手を贈った。美音子は照れたようにはにかんだ。
ただ、僕には一つ、試してみたいことがあった。そのことを言っては美音子の気分を害しかねなかったが、幸か不幸か、今の僕にそれを言葉にして伝える能力はなかった。
「……どうかしましたか?」
それを知らないわけではないだろうに、美音子は他の喋ることのできる人間に話しかけるようにそう言った。僕は黙って(当然だ)ピアノの側面を指差した。これで、わかるわけがない。それでも美音子はどうにか答えを見つけようと考えているように僕とピアノを見た。僕はただ突っ立っていることに居心地の悪さを感じ、手を動かした。僕を指し、ピアノの横の床を指し、ピアノの側面に触れる。初めて触ったそれは、思っていたよりもひんやりとしていて、少し驚いた。
「あ、そこに座って聴きたいんですか?」
少しどころじゃなく、僕は驚いた。まさか。まさかが起きてしまった。僕は聞き間違いでないことを確かめるように美音子を見た。
「ピアノにもたれても、大丈夫ですよ」
僕は心臓の高鳴るのを感じた。まさかだ。こんなことがあるなんて。僕の言いたいことが、伝わってしまった。僕は戸惑いを隠せずに立ち往生した。
「曲のリクエスト、ありますか?」
美音子は何事もなかったかのように話を進める。僕はそれどころではなかったので、首を横に振った。
「じゃあ、月の光、弾きますね。たぶん、聞いたことあると思うんですけど」
美音子はたった一人の客がピアノの横に座ることを待っていたので、僕はピアノに背を向けた格好で腰を降ろした。つるつるとしたピアノの側面に背をもたれて美音子を窺う。奏者はゆっくりと演奏を始めた。始めの音が僕の耳に滑り込んで来ると同時に、心臓が深く鳴った。音に身を委ねようと、僕は目をつぶった。
それは、とても美しい曲だった。耳をくすぐるような高音と、体の芯を通り抜けるような低音が、僕の琴線を震わせる。
一音一音は溶け、深い呼吸と共に僕に染み込むように思えた。背に響く振動が僕の中に波紋を描き、包み込むように、同化するように広がっていく。僕は、繊細で重みのある波間を漂った。
一瞬のようでもあったし、永遠のようでもあった。
静寂が戻り、最後の余韻に浸ったまま、僕は薄く目を開けた。視界に入るもの全てがにじんで見えた。そして僕は、自分が涙を流していたことを知った。
右手の平で顔を覆うようにし、指で目の回りを拭う。一度大きく深呼吸をすると、再び涙がにじんだ。僕は、もっと泣くのもいいんじゃないかと思った。美音子はその間、何も言わずにいてくれた。
平常を取り戻し、僕はやっと美音子を見た。美音子も僕を見た。憐れみも同情もない、透明な視線で。
僕は口を開いた。
あ、り、が、と、う。
そう口を動かすと、美音子は笑ってぺこりと頭を下げた。
「どういたしまして」
つられるように、僕も笑った。それで充分だと思えた。
と、背後から階段の軋む音が聞こえた。美音子が振り向き、僕も首をねじる。
「……何やってんの、おまえら」
怪訝そうに雅道が訊く。どうやら、仕事は終わったらしい。疲れを残した顔で、雅道は美音子の横に立った。
「ピアノ、弾いてたの」
「いや、わかるよ、それくらい」
僕が視線を美音子に移すと、彼女も同じように僕を見た。そして僕らは同時に、吹き出した。雅道が目を丸くするのが目の端に映ったが、それでも僕らは笑い続けた。
「な、何だよ」
戸惑う雅道の声も、僕と美音子には耳をくすぐるように聞こえるだけだった。首をすくめ、僕らは笑い続けた。不思議そうに唇を尖らせる雅道を横目に、涙が出るほど笑った。まるで小さな子どもの頃に戻ったみたいだった。
僕は、自分の笑い声を聞いた気がした。あの幸せそうな夢で見たのと、同じ声を。
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