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銀兎の夜 -page2
鬼子が家の中を物色し尽し、表も粗方見回って暇を持て余し始めた頃合に、克一は戻ってきた。夕暮れに差し掛かる中、鬼子は玄関の前で克一を出迎え、その手にある橙色をした塊に目を留めた。
「土産だ」
玄関をくぐりつつ、後ろに着いた鬼子の方に手を伸ばす。克一は手の中に丸い実を残したまま、もうひとつ持っていた方の、紙風船のような皮に包まれている実を鬼子にやった。眩しいほど鮮やかな橙色。強く握れば潰れてしまうだろうそれを、鬼子はそっと受け取った。
「なんじゃ、これは」
「鬼灯を知らんのか、鬼のくせに」
「ほおずき?」
「その袋の中に実が入っている」
言うと、克一は持っていた実を見せた。道中ずっと指でゆるゆると潰していたのだろう、実はすっかり柔らかくなっていた。鬼子は手元の橙の風船を指で破いた。中には、しっかりと張った丸い実がある。
「その実を潰して、中身を抜くんだ。それから、こうする」
実の中身を捨てて空にすると、克一はおもむろにそれを口に含んだ。鬼子は何が始まるのやらわからず、ただその様子を見つめている。
と、克一の口からぶいっと鈍い音が響いた。すぐ後に続いて、鬼子のきゃっという小さい叫び声が上がる。続け様にぶいぶいと鬼灯の実を鳴らしてみせると、鬼子はぽかんと口を開けて、それからすぐに目を輝かせた。
「この実が鳴っておるのか? なんじゃ、どうやっておるんじゃ?」
そこらの童子と変わらぬ熱心さで、鬼子は克一にせがんだ。二人で暮らし始めてからこっち、一番のはしゃぎ様だった。空の実を舌で押し潰すと鳴るのだと、克一が口を開いたり閉じたりしながら説明するのにも、逐一頷きながら見入った。
「すごいのう、すごいのう」
鬼子も克一に習って鬼灯の実を握る。が、どうにもうまく柔らかくできず、結局せがまれるまま克一が潰すことになった。別に嫌な顔もせずに実をぎゅうぎゅうと潰す克一を、鬼子はにこにこしたまま見つめていた。
「克の字、おぬしはやっぱり変な奴じゃの。なんでこんなことを知っておるのじゃ? 子どもの遊びじゃろうに」
途端、克一の顔に影が差した。見たことのない、冷たいほどに暗い目だった。それを見て取った鬼子は、負けず顔を曇らせた。口をつぐみ、目を泳がせ、余計なことを聞いたのだと後悔した。その反応に驚いたのは、克一も勿論であったが、誰よりも鬼子本人が驚いた。
鬼灯の実が潰れていく。張っていた皮は緩まり、繋がったままだった乾いた外皮を引き抜くと、潰れた中身がずるりと出てきた。薄く潰れた実に楊枝を差し入れ、残っている種やらを取り出していく。
「おまえと似た年頃の娘がいた」
ようやく口を開いたのは克一の方だった。
「……わしをそこらの小娘と同じくするでない。童ではないと何度言わせるのじゃ」
鬼子も返してみせたが、いつも通りの調子なのは言い草だけで、まるで気の抜けた仄暗い声だった。
「見た目は似たようなものだ。母親に似て器量良しだった」
視線は手元、鬼灯に向いている。まるで手慰みだった。
克一の物言いは、全てが昔語りだった。
「……その娘、今はどうしておるのじゃ」
聞き返した鬼子の声は、やはり薄暗く、先程までの目の輝きも消えてしまった。
「どうもこうも、もういない。死んだ」
克一はこの辺りの生まれではなかった。昔はもっと遠い街で、きちんと仕える主がいた。その屋敷で勤めている最中、家が物取りに入られた。全くあずかり知らぬうちに家は荒らされ、克一が帰った時には、女房と娘は既に息がなかった。物言わぬ亡骸がふたつと、荒らされた家屋があるだけだった。驚くほど手荒で、呆れるほど雑な仕業だった。克一の目に帳が下りて、見える景色が真っ暗になった。血の赤さえわからぬほどに。
克一はそう、淡々とした口調で語った。平坦に、感情を込めず、出来得る限り他人事のように語った。
「下手人は捕まえた。すぐお縄になって、打ち首さらされた。それもしっかり目に焼き付いてはいるんだがな、俺は憤りをどこに向けていいのかわからんのだ。余所を守っている最中に我が家が襲われる、そんな間の抜けた話があるか?」
鬼灯はすっかり虚ろになり、克一は楊枝を折った。水場に立って手桶に水を張ると、皮だけになった鬼灯を丁寧に洗った。口に入れても苦くないよう、慣れた手付きで。
「……娘の、名前は?」
辛うじて出た声が、背に問う。
「おりん」
最後にそう呼び掛けたのがいつだったか、克一は思い出せない。
きれいに仕上がった鬼灯の笛を、克一は鬼子に渡した。鬼子は先程までの克一をどうにか思い出し、見様見真似で実を口に含んで舌で押し潰してみたが、上手く音は鳴らなかった。
それからまたしばらくが経ち、二人は変わらず二人のままで、戸の外はすっかり秋を深めていた。長屋で克一が刀の手入れをしていても、鬼子はもう傍でじっと見たりはしない。ただ邪魔にならないよう、程遠くで一人遊びに興じていた。近頃克一に字を習ったので、半紙を相手に文字のようなものを書き付けていた。とはいえ手習いは退屈で、鬼子はすぐにぐしゃぐしゃとした絵で文字を塗り潰してしまうのが常であった。
ぱらぱらと屋根を打つ雨音に、鬼子は素早く反応した。手元の半紙は既に真黒く塗り潰されていた。体を起こして玄関まで走ったので、克一も顔を上げた。上げた時にはもう外に飛び出した後であった。
「鬼は風邪を引かんのか、夜は冷えるぞ」
外にはまだ幾分明るさも残っているが、日が落ちるのもまもなくだろう。弱い秋雨は空を余計に暗くしていた。
「うるさいのう、儂はおぬしのように柔ではないわ」
二人の調子は元に戻りつつあった。あれから鬼子が克一に妻子の話を尋ねることはなかったし、克一の方も聞かれもしない話の種を取り上げることはなかった。鬼子は雨粒を浴びながら駆け回っている。克一は刀を腰に戻し、その様子を三和土まで下りて眺めていた。
「せめて合羽くらい着たらどうだ」
「おぬしが今直ぐ取り出して見せたら考えるとしようかのう」
言うが早いかさっさと駆け出す。
「ほれ、捕まえてみい。捕まえられたら合羽を着てやるぞ」
一人遊びに飽いていた鬼子にとっては、突然の雨は僥倖だった。それに克一まで巻き込めればしめたものである。はしゃいだ声を上げながら、鬼子は姿が見えなくなるまで駆け行ってしまった。
「鬼はおまえの方だろうに……」
そう呟いて、克一はふっと相好を崩す。本人はそれと気付きはしなかったが、笑ったのは実に久方振りであった。気持ちもいつの間にか穏やかに落ち着いている。それが鬼子のおかげだと認めるのは、さほど難しいことではなかった。
結局克一が鬼となり、鬼ごっこが始まった。否、隠れん坊に近かったかもしれない。鬼子は逃げ切り、どこへ行ってしまったか見当もつかなかった。
適当に長屋の近くを見て回っていると、程無くして雨は止んだ。通り雨だったらしい。地面はしっかり濡れているが、鬼子には物足りなかったろう。放って置けば帰ってくるかとも思ったが、興に乗っていることをこれ幸いと、克一は最後まで鬼子に付き合うことにした。そう遠くには行ってはいまい。そろそろ腹も減ったし、辺りも暗くなってきた。捕まえる方が早いだろう。
「雨はやんだぞ、合羽はもう要らんな」
わざとらしく、誰へとはなしにそう言うと、近くの樹がざわめいた。後ろだと思い、振り向きかけた時、正面から見慣れない坊主が歩んでくるのが見えた。見慣れない、しかしどこかで見た様相であった。
「御前さん、悪しきものに憑かれておるな」
坊主は不躾に、克一にそう言い放った。黙ったまま、目だけを克一は返した。その手は大刀の柄に触れている。
「人ならぬあやかしか、とんだものに好かれたものよの」
「わかるのか、俺の姿も見えんようだが」
坊主は目をほとんど瞑っていた。その下で薄い唇が仄かに笑うように歪む。
「見えるともさ。あやかしを見るのに人の目は要らぬ」
半眼が微かに開き、克一に向く。その人ならぬ目付きに、克一の記憶は引き上げられた。米蔵の用心棒の馘を言い渡された後、他用で使わされた時に見た、あの蒼白い顔をした坊主と重なった。
「ふむ、餓鬼の類と見える」
克一から目を外し、再び瞼が下りる。偽りや当てずっぽうを言っているわけではないのは、鬼子がいるだろう木に向いて言っているのでわかった。克一は刀から手を離さず、眉間に皺を寄せたまま視線も坊主から離さなかった。坊主は意にも介さず続けた。
「生まれてすぐ、口減らしで親に殺された、名付けて貰うことすらできなかった赤ん坊の成れの果て。憐れなものだ」
木の枝ががさがさと派手に鳴るのを、克一は背で聞いた。
「知らぬ! わしは鬼じゃ! そんな憐れな赤子ではない!」
「……ほう、短慮極まるな、子鬼よ。そうもおめおめと姿を現してくれるとは思わなんだ」
静止せねばと振り返った克一は、目を見張った。己の背後に現れ、しかし克一の姿を目に写してはいない鬼子の姿は、見慣れた童女の様子とは異なるものだったのである。
鬼子の目は兎のそれのように赤く染まり、噛み締められた犬歯の隙間からは荒々しい息遣いが漏れ聞こえる。威嚇する獣の如く身を低く構え、鋭く伸びた爪が直ぐにでも獲物を切り裂かんばかりに鈍く光っている。それは正しく鬼の姿だった。
「それ、見てみろ、足元の水溜りを。見事な鬼だ」
坊主の言葉を気にしてか、それとも顔を出し始めた月が足元でちらついたのが目に入ったか、鬼子は水溜りに映る己の姿をしかと見た。そして更に息を荒げ、低く低く唸った。
坊主の口元が、今度ははっきりと笑みを作った。それは恐ろしいほどの余裕に満ちていた。
「憐れな鬼だ」
咆哮が暗がりを引き裂き、鬼は、跳んだ。肉を食む獣の動きで。
しかしその牙が坊主を食い破ることも、爪が袈裟を切り裂くことも、なかった。坊主の手が鬼子を仕留めることも。
「……手のかかる、小娘だ」
鬼子は、始め、己が何に飛び付いたのか理解できなかった。ただわかるのは爪が皮膚を刺す感触と、口に広がる血の味だけだった。だが、坊主は手の届かない遠くにいる。身をよじると、二本差しが互いにぶつかる音が涼しく鳴った。それから、頬に髪の感触。身に覚えのある、抱き止める温かさ。
鬼子はがたがたと震え出した。震えるままに牙を抜くと、克一の肩に濃い赤が滲んだ。
獣のものではない、それでも悲痛な叫びがまたしても闇夜に鳴り響くより先に、克一はもう一度鬼子を腕に抱いた。鬼子の慟哭が古びた着物に塞がれる。
克一は、黙って、ただ鬼子の頭を撫ぜた。赤子をあやすように、静かに、ゆっくりと。
鬼子の震えは止んだ。代わりに、童女の泣き声が着物の隙間から漏れ聞こえた。その小さな手は克一の着物を破かんばかりに必死に縋りついている。
「帰れ、坊主よ。こいつは鬼ではない」
背を向けたまま、克一は言った。もし坊主が何がしかの攻撃を仕掛けてきたとしても、己が盾になれるのなら問題は無いと思った。それならそれで一矢を報いることはできるだろう。腰に下がっている二本は飾りではない。振るうべき時を知らぬわけでもない。
坊主は黙っていた。
「こいつはただの娘だ。俺の、娘だ」
首だけを向け、腰に差した二本よりも鋭く冴えた目が坊主に迫る。坊主はそれに動じもせず、涼しい顔のまま口を開いた。
「そこな侍よ、娘の名は何と言う?」
克一は鬼子を抱く腕に力を込めた。
「おさよ」
腕の中で、鬼子がぱちりと目を開く。その目は、泣き腫らしてはいるが、童女のものに相違ない。
「おさよ、か」
そう繰り返した坊主は、足音もなく、坊主は克一たちの近くまで来ていた。持っていた錫杖を真っ直ぐに鬼子に向ける。さらりと高い音が微かに鳴る。
「名があるのなら、鬼ではないな」
もう一度、今度はいくらか大きく錫杖が鳴る。と、克一の腕の中で、鬼子の角が、燃え尽きた線香のようにほろほろと崩れ去った。
「鬼でないのなら、私に勤めはないな。このところの騒ぎは、大方、鼠か何かの仕業だろう」
自分に何が起きたのか、わけがわからない様子で小さな手が己の頭を撫で回す。長い髪にしか触れなかった。克一もまた、目を見開いたまま角があった部分を見つめていたが、やはりそこは平らなだけだった。
次に振り返った時には、坊主はもう姿を消していた。
「……おさよ?」
腕の中から小さな声がして、顔を戻す。すっかり潤った瞳がくりくりと克一を見上げていた。月明かりを写し込んで、玻璃の玉のようだと、克一は思った。
「小さな夜で、さよ、だ。おまえを見つけた時、見事な月夜だった」
そう言うこの夜も大きな月が出て、克一の顔が柔らかな笑みをたたえているのを照らしていた。
「おまえの名だ」
それを聞いてすぐ、角をなくした鬼子は、たまらずわあわあと泣き出し、克一にしがみついた。克一はそれをしかと抱き留めた。小夜の体からは子どもらしい甘い匂いがした。それは懐かしく、温かな匂いだった。
*サイトアクセス2000hits リクエスト作品
御題 「鬼」
うなぎ様、2000ヒット報告ならびに御題提供ありがとうございました。
明るい話を御希望だったと思うのですが、これで大丈夫でしょうか……
意識した通りの雰囲気に書くのは難しいことと再認識致しました。要精進です。
ともあれ、良い勉強をさせて頂きました。ありがとうございます。
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