Hungry note -page2
「……実は、このお店を見つけたきっかけが、ピアノなんです」
そんな告白をしたのは、七度目に彼と席を共にした時のことだった。その時は、少し酔っていた覚えがある。だからこそこんなことが言えたのだった。
「仕事の帰りに、偶然このお店の外を通りかかって。その時はお店があることにも気付いていなかったんですけど、微かにピアノの音が漏れ聞こえたんです。それに誘われて、ふらりと入ったのが始まり」
「光栄ですね。少し、照れますけど」
その日もタンブラーは紅をたたえ、弦楽は柔らかく澄み渡っていた。
「でも、本当に、何て言うか、救われる思いだったんです。あの頃は仕事にも打ち込めなくて、何だかまいっていて……それでも、このお店で過ごして、さっぱりしたような気持ちになれたから」
「お役に立てたなら、良かった」
グラスの氷を微かに鳴らして、彼はそう呟いた。その声ははっとするほど冴えていて、私の内側を騒がせた。
「悪魔に救われるなんて、おかしな話ですけどね。……僕が救いたいのは、誰よりも僕自身ですから」
ひょっとしたら、彼も酔っていたのかもしれない。エル・ディアブロはまだ残っていたけれど、彼はさほどアルコールに強い性質ではなかった。酔っていないにしても、その日の彼はどこか浮世離れして見えた。
「僕がピアノを弾くのは、自分のためです。自分の音楽を食べるのが、一番良いんです。あらゆる意味でね。……でも、もしそんな僕のピアノで、誰かに何かを与えられるなら……もしそんなことができたなら、それ以上に嬉しいことなんて、きっと何もないんですよ」
そして彼は、こう続けた。
「もう、奪うのは、嫌です」
それはもう何度目になるかわからなかった。彼はいつだって不意にこの目をする。私は必死に自分の内を探って、吟味して、その目の色を拭える言葉を見つけ出そうとした。
「……少なくとも、私は救われました」
しかしどうしても、私が口にできるのは不器用な羅列ばかりだった。
「誰だって救われたいし、救いたい。私はそう思います。きっと、みんなそうです。……あなたのピアノには、本当に、救われたんです。私は本当に、あなたに救われたんです。だから……だから……」
それ以上、私の言葉は続かなかった。私の声は喉でつかえていたし、それを止める声があったから。
「ありがとう」
ごく優しい、静かな声だった。
私は、あなたを救いたいんです。
肝心な言葉は、いつも声にならない。彼との距離が縮まるほど、言葉を重ねるほど、本当は彼がとても遠くにいることに気付かされるような思いだった。
幾度彼と一緒に飲んだかもわからなくなったある日、私は取り戻した笑顔で彼の演奏を聞いていた。日が経てば取り戻せるものは、いくらでもある。特に私は彼から笑顔の作り方を学び取っていたから、平静にしていればそれは造作もなかった。喜ばしいことだとは思わないけれど、今は、それでいいと思った。彼に踏み込むのは、私にはまだ難しい。何より、彼がそれを望んでいないようにも思えた。
そして彼のピアノは、やはり私を癒してくれた。とても深いところに染み込んで、揺さ振って、純化して、汚れたものを洗い流してくれる。それは丁度、涙を流す時に似ていた。こんな力のある彼を、私は心から羨ましく思った。
「お疲れ様です」
特等席で彼を迎える時は、いつもそんな言葉を使った。
ところがその日の彼は、私の顔を見下ろして、立ったまま尋ねた。
「……喉、どうかしましたか?」
その声色は、顔色と同様に蒼白だった。
「いえ、別に……」
そう答えようとすると、咳に阻まれた。軽い、乾いた咳だった。一度出た咳は何度か連鎖して、どうにか落ち着くと喉に違和感が残っていた。
「風邪、ひいちゃったかもしれない」
苦笑して顔を戻すと、彼は青褪めた顔のままで立ち尽くしていた。いつも見られるような笑みは、完全に失われていた。いや、本当は、彼は私の前で笑ったことなどなかったのかもしれない。そう思わせるほどの欠落が、ぽっかりと浮かんでいた。
「あの、私、少し喉の調子が悪いだけで……」
言葉を続けようとする私を、彼は手で制した。
「喋らないで」
今までに聞いたことのない、かすれた声だった。もっとも、私の声の方がひどかったかもしれないが。
ゆっくりと席に着くと、彼は何もない中空を見つめて黙った。普段通りに響く弦楽が、妙に空々しく聞こえた。
彼はウェイターに、何の注文もしなかった。
「……昔話を、聞いてもらえますか」
私はやはり、拒むことはできなかった。彼の目は相変わらず暗く、それでいて私をしかと見据えている。逃げることなく、覚悟さえ携えて。私は目を離すことすらできず、黙って頷いた。
「僕が唯一愛した女性がいました」
私を見つめたまま、彼はそう言った。
「彼女の声はとても美しくて、どんな音楽も適わなかった。僕は彼女を求めたし、彼女も僕を求めてくれました。親しくなるのに、時間は必要じゃない。僕らはすぐに、一緒に過ごすようになったんです」
私の手の中にはいつものタンブラーがあったけれど、音も立てずにただそこにあるだけだった。
「彼女は僕のピアノを誉めてくれました。悪魔だって話もしたけれど、笑っていただけだった。だからピアノが上手なんだ、なんて言って。……いつか、あなたにも、そんなことを言われましたね。あの時は、本当に驚いた」
ようやく彼は少し笑ったが、それは陰を浮き彫りにするだけで、決して明るさを取り戻させはしなかった。私と彼の間で明るいものは、ジン・トニックの泡だけだった。弦楽さえも哀れを誘う調べを奏でていた。
「そして、彼女も咳をするようになりました。彼女はただの風邪だと笑っていたけれど、そうでないことはわかっていたんです。咳が出る以外には何もなかったし、咳だけはいつまでも治らなかったから。それでも僕らが一緒にいることに、変わりはなかった。理由に、気付いていなかったんです」
うつむきがちだった彼の顔が上がる。
「僕が悪魔だという話、覚えていますか? 僕が、音楽を食べる悪魔だという話です」
私は自分の鼓動が次第に重くなるのを感じていた。一体彼は何の話をしようというのだろう。悪魔なんて、こんな真剣な空気の中で出す話題じゃない。彼は察し良く私の顔を見て苦笑したが、話を止めるつもりはないようだった。
「……僕らは一緒に過ごすうちに、本当に、親しくなりました。二人でなら、何だってできました。どんな時も彼女の声は美しくて、悪魔の僕が嫉妬するくらい、嫉妬を通り越して感嘆するくらいだったんですよ。そしてそれは、声だけじゃなかった。鼓動も、息遣いも、全てが音楽だったんです。極上の、ね」
かつて聞いた音楽を内に呼び起こしたのか、彼は今日初めての笑顔を浮かべた。今日だけじゃない、今までで初めての、本当の笑顔だった。しかしそれはすぐに、一瞬で消えてしまった。笑みを塗り潰したのは、あの悲愴だった。
「そして何度目かの口付けを交わした時、彼女は倒れて、二度と起きることはありませんでした」
彼の微かな溜め息が、深く大きく聞こえた。結末を迎えたらしい物語は、私の気持ちをわだかまらせるだけだった。行き場を失った不審が胸の奥で飛び出す機会を窺っている。黙ったまま視線だけで反抗していた私に、彼は告げた。
「少し、喋ってもらえますか」
「……喋って、いいんですか」
「疑問があれば、何でも」
幾分いつもの表情を覗かせ、彼が言う。私の喉の違和感は、既に消えていた。
「疑問なんて、どこから聞いていいのかわかりません。悪魔とか、音楽を食べるとか、そんな話を今して、一体どうす……」
そこで彼は、大きく、息を吸い込んだ。途端に私の声は喉から消え、咳だけが吐き出された。咳はなかなか止まらず、さっきよりも苦しいくらいだった。
「……こんな試し方、すべきではないんですがね」
上げた顔が怪訝な表情になっていることは、自分でもわかった。彼に投げ掛けたい言葉はいくつもあったが、どうやっても私の声は出ないのだ。そのうちに咳さえ出なくなり、私は沈黙した。
「あなたの声は戻ります。僕が、食べさえしなければ」
そう言う彼は、ごく真剣に私を見ていた。その清閑さに、私は総毛立つ思いだった。
「……全部、本当の話だって言うんですか」
無理矢理に絞り出した私のひび割れた声に、彼は眉をひそめた。
「信じられませんか」
以前にも聞かれたその問いは、全く異なる響きで私の中に広がった。問いの答えは、何よりも私の声が明らかにしていた。
「普段は人前じゃ食べません。人の声を食べるなんて、絶対にしない。どうなるかは、わかったでしょう? 僕も知っているから、しないように努めているんです。……それでも、抑えられない時がある。自分ではどうしようもないところで、食べてしまうんです。とても、簡単に」
弦楽は曲調を変えていた。物静かで単調な背景音に、彼の声が重なる。
「……いつだって、奪おうなんて考えやしなかった」
その声は、やはり恐ろしいほど音楽だった。
「でも、僕は、奪ってしまった。僕が、彼女の全てを食べてしまったから」
彼の目が、両手に落ちる。最愛の人の最期を看取った手に。その手で、彼は、どんな音楽を紡ごうとしていたのだろう。
私は、思い知っていた。前に彼がマルガリータを飲んでいた時に、その名の由来を話した時のことを思い出していた。彼は決して「亡くした恋人の名」とは言わなかった。
言えなかったのだ。
私は彼のことを、これっぽっちもわかってなんかいなかったのだ。
「……あなたの声は、彼女に似過ぎている」
彼はそう呟くと、席を立った。止めようとする私の言葉は声にならなかった。
「あなたは、僕といちゃ、いけない」
伸ばした私の指をすり抜けた彼は席から離れ、ピアノへと戻っていった。弦楽の奏者たちと目配せを交わすこともなく、ピアノは鳴り始めた。今までに聞いたことのない、聞く人の胸を潰すような曲だった。剥き出しの悲傷が哀音となって店内に満ち、氷の溶ける音や椅子を引く音さえその彩りに聞こえてしまう。
そしてその演奏は唐突に止んだ。弦楽の奏者たちがピアノ弾きに目をやっている。見ると彼は思い詰めた表情で己の両手に目を落としていた。つい先程そうやったように手を見据え、睨み、そしてきつく目を閉じた。
その手で、ピアノの蓋が閉められた。訪れた静寂は、胃から体中を痛め付けるようだった。
私は、ピアノの鳴らないバーから逃げ出した。
一晩明けると、喉の調子はいくらかましになっていた。とはいえその声を聞くと気が滅入るので、私は極力喋らないようにして一日を過ごした。
かすれた文字の浮かぶ『ドゥエンデ』の看板の前で、私は足を止めた。不意にこの店名の由来を聞いた時のことが脳裏に浮かんだ。duende――これもまた「悪魔」のことだと語った彼は、嬉しそうに微笑んでいた。そして「魅力」のことを差すとも言っていた。確かに、悪魔には魔力がある。どうしようもなく惹かれて抗えない、魔力が。
店内に客は少なかった。ピアノは空いていて、弦楽の温かい音だけが漂っていた。私は誰もいないカウンター席へ着いた。
「……今日はピアノはないんですか」
かすかすな声でマスターに尋ねる。声が震えるのをごまかすには丁度良かった。マスターはグラスを磨く手を止め、真摯な態度で私に向いた。
「あのピアノ弾きなら、もうピアノを弾きません。店を辞めました」
その言葉はいとも簡単に私の体から力を抜き去り、目の前の色を無くした。
「これ以上ここにいては、また同じことを繰り返してしまうから、と」
昨夜の静寂を聞いたように、胸の辺りがぎゅうっと締め付けられた。わかっていたことだ、わかっていたことだと何度自分の中で繰り返してみても、何の効力もない。
彼はきっとまだ、いつか失った彼女を求めているのだろう。新しく出会う誰かを引き換えにすることもできずに、決して報われない思いを抱えて、悪魔はピアノを弾いていたのだ。ただその音だけを糧にして。
彼女の記憶は決して悪いものではない。昨夜の彼は、幸せそうだった。絶対に手放せない、大事な記憶――けれどそれは、とても、哀しいものだ。それだけにすがるには、あまりにも哀しいものだ。
そんな彼が私の声を聞いて、失われた音楽に似た声を聞いて、一体何を感じたのだろう。私は、彼にどんな思いをさせてしまったのだろう。自分では止めることもできないことで、私は彼にピアノすら手放させてしまったのだ。
「……彼の連絡先は、わかりますか」
黙ったままでいてくれたマスターは、私の問い掛けに静かに頷いた。
私を彼に会わせてください。
あのピアノを、彼の声を聞かせてください。
私は彼を、救いたいんです。
狭まった喉で、言葉が逡巡する。声にならない声は私を留めてくれた。
「……彼に伝えてください」
頬を伝った一滴はカウンターにこぼれ、弾けた。
「戻ってきて、またピアノを弾くように。……私はこの店に来るのをやめるから。そう伝えてください」
彼がここを去った理由を知っていて、どうしてまた会えるというのか。
「わかりました」
マスターのしわがれた声は、とても優しかった。涙を拭う私に構わず、仕事に戻ってくれた。ピアノを失った弦楽たちは、それでも澄み切った響きで私を濯いでくれた。
大丈夫。
私は声に出さずに何度もそう唱えた。
後悔は、ないのだから。
弦楽の隙間に微かな笑い声が聞こえる。乾きを潤すグラスの音に、誰かと誰かの幸せそうな談笑が重なる。私は耳に届く音の全てを刻み込もうと、目を閉じて黙した。
ふと、すぐ前の空気が揺らいだのがわかった。氷が鳴る軽やかな音が微かに聞こえ、私は薄らと目を開けた。
「サービスです」
カウンターに置かれたタンブラーの中には、あの深紅のカクテルがあった。マスターの手を離れたエル・ディアブロは、静かに佇んでいた。
私はもう一筋だけ、泣いた。
喉の調子が戻ったのは、それからすぐだった。一度戻った声は、もう二度とあの時のようにかすれることはなかった。
私は色々な店を巡るようになった。まだ数は少ないが、それぞれにある良いところを見つけるのは格段に上手くなっていた。それは新鮮な気持ちをもたらしてくれ、また新しい店を探すのも悪くないと思わせてくれた。
でも、あの店のピアノに勝るものにはまだ出会えていない。目を閉じれば蘇る、あの繊細な旋律に。
私は、あの悪魔がまたピアノを弾いているように、これからも弾き続けるように、ただそれだけを祈っている。
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