fool for you -page2
◇4◇
病室を出ると、すぐ前にある窓が曇っているのが目に飛び込んできた。そういえば今日は天気予報を見るのを忘れていた。濡れずに帰るのは難しそうだ。廊下を一本渡り終えるのすら待たずに、雨はうるさく泣き出した。ついてない。
いっそ止むまで待つかと思いつつ足を余計に遅くする。足音は雨音に消えた。
今日はちょっと、余計なことを喋りすぎたかもしれない。瑠璃子にちゃんと伝わったかどうかはいまいち疑わしいが、珍しいこと言ってしまった。どこかしら、俺でさえ弱っているのかも。そもそも五体満足な上に身内も健在な俺にとっては病院に来ること自体が億劫でもある。
角を曲がろうとしたところで、若いナースが横を走り抜けた。病院内で走っちゃいけませんよ、と思いつい目で追ったら、その白衣姿が瑠璃子の部屋に飲み込まれていくのを見てしまった。雨音に紛れて、ブザーのような音が響いていた。
ああ、やっぱり今日はついてない。
どうしようもなく早鐘を打ってしまう自分の鼓動を聞きながら、遠巻きに病室の入り口を見つめる。それで何一つ解決するわけでもないのに。そもそも、瑠璃子に起きている何がしかに対して俺が解決できるようなことは何一つないんだけど。
しばらくぼうっと見つめていたら、今度は普通の足取りでナースが出てきた。とりあえずは大丈夫らしいことが見て取れる。別に、花が咲くような明るい顔をしていたわけではないが。
次に俺が来る時までに、瑠璃子がどこかに行ったりしませんように。
そう無責任に祈って、俺は病院から逃げ出した。
◆5◆
売店でポータブルプレイヤー用に電池を買って戻ると、ちょっと病室が静かすぎるような気がした。もう日が暮れるというのに悟は来ない。借りたCDがなかなか良かったと伝えるつもりだったのに。
「大丈夫? つらくない?」
売店まで付き添ってくれた友人がそう声を掛けてくれる。私は息を整え、大丈夫と答えた。たまには動かないと、その方が体に悪い気がしてならない。ここのベッドはもう寝慣れたが、だからといって日がな一日寝ていたのではなまってしまう。調子のいい日に限った話ではあるが。
「そういえば、悟、来てる? こないだここの廊下ですれ違ったけど」
「来てますとも」
今日のように数日に一度は来ない日もあるが、結局一番足繁く通ってくれているのは悟だ。ふらっと来て、仕事がどうだとか雑談をして、余っている見舞いの果物を食べて帰っていく。あの時間だけ、私はここが病院だということを忘れる。
「なんかさ……こういう時でも軽くって驚いちゃった」
私がちゃんとベッドに入るのを見届けて、彼女は苦笑混じりに呟いた。
「不謹慎っていうかさ、マイペースすぎるとこあるよねえ。薄情、っていうのとは違う、かもしれないけど」
さすがは悟というか、この場にいなくても苦笑いを誘うのだから感心する。とはいえ、私のそれと彼女のそれとは若干違うようではあるが。少なくとも私は不謹慎だとは思っていないし、彼女が聞く立場だったら私のようにわけもなく苛立ったりはしないだろう。
「多少薄情な方が救われるよ、私は。暗い顔で見舞いに来られても、辛気臭いだけだし」
深く考えずにそう言い切ってしまってから、しまったと思ってももう遅かった。彼女は曖昧な作り笑顔を浮かべて、そっか、と短く返事をした。迂闊な皮肉を覆すだけの気の利いた言葉は何も思い浮かばなかった。
ああ、無理矢理笑わせてしまった。それは一番しんどい行為なのに。
「心配するほどじゃないよ。私は大丈夫」
散々考えた挙げ句に出た台詞がこれだ。目も当てられない。
「わかってるよ。瑠璃子は強いもんね」
そう言ってくれることが優しすぎて、つらい。
◇6◇
病室のドアをノックしても声を掛けても返事がないので内心慌てて入ったのだが、瑠璃子はちゃんとベッドで起きていた。いや、起きていたと言ってしまうと間違いかもしれない。膝を立てて、そこに突っ伏していたから。
「なに、昨日来なかったから怒ってんの?」
うつむいたまま瑠璃子は首を横に振る。ちょっと残念。
だいぶ座り慣れてきたパイプ椅子が既に置かれていたので、そのまま座った。
「誰か来てた? 椅子、ぬくい」
瑠璃子は顔をうつぶせたまま、俺の前にひとり見舞いが来ていたのだと説明した。昨日も来てくれて、今日も来てくれて、それでもう私の今日の力は尽きたのだと。断片的に言葉を並べるだけだったので要領を得なかったが、平たく言えば気まずい中来てくれてありがたい、ということのようだ。それでここまで恐ろしく落ち込むのはまったく瑠璃子らしい。さすがにこんなにもへこんでいるのは初めて見るが。
「誰のことも嫌いになりたくないの」
来る途中で買った紙コップのコーヒーが空になった頃、瑠璃子はぽつりとこぼした。
「自分に対してもそうだけど、私なんかと友達やってくれてる人ならなおさら。苛々したくないし、腹を立てたくないの」
「私なんかってことはないだろう。別に、腹立つんなら怒ったって嫌ったっていいと思うけど」
「よくない。私はよくない。私の最後がそんなのは、嫌だ。私は笑って逝くの。そうでなきゃ、だめだ」
その頑なさが意地っ張りな子どもめいていたので、俺は瑠璃子の頭を撫でてやった。それこそごく軽く、眠れずにむずがる子どもをあやすような手付きで。瑠璃子はいやいやと小さく首を振ったが、構わず撫でる。
「皆が思い出す私は、笑ってなきゃいけない。でないと、思い出した時に笑えないでしょう」
どこまでもどこまでも、瑠璃子は自分を後に回す。
「そうやって、また我慢するわけ? 今わがまま言わないでいつ言う気だよ、おまえ」
「そんな甘えなんか、くそくらえだ」
瑠璃子は俺の手を振り払った。
「会いたい人には会ったし、伝えたいことも伝えてる。たくさん泣かせてるのも知ってる。だから、最後の前に笑わなくちゃいけないの。それまでに気持ちを取り戻さなきゃいけないの。私に、甘えてる暇なんかない」
顔を上げた瑠璃子の目は、てっきり泣いていると思っていたのに、鋭く俺を睨みつけるだけだった。
「きっと、悟には私の気持ちなんかこれっぽっちもわかってない。私に悟の気持ちがさっぱりわからないのと同じ。悟は誰かの前で大声を上げて泣いたりするようなことはきっとないでしょう? 気持ちを全部預けて笑うことはないでしょう?」
ひどい矛盾だ。怒りたくない、嫌いたくないと言ったくせに、俺にはこんな目を向ける。全力でぶつかってくる。彼女の言う通りだ、俺には理解できない。
それでも、つられてかっとなるくらいだから、まるきり違う人間ではないのかもしれない。
俺は両手で瑠璃子の頭を抱え込むように引き寄せて、口を塞いでやった。驚いて混乱したのか、瑠璃子は抵抗らしい抵抗もせずにじっとしている。俺は調子に乗って、しばらくそのままでいた。瑠璃子の体温は低かった。
顔を離すと、途端に頬を張られた。ひどい音がしたくせに大した痛みはなかった。これでも、今の瑠璃子にとっては全力なんだろう。
見ると、瑠璃子はぼろぼろ泣いていた。ようやく泣いたな、と思うとなんだかちょっと安心した。
それから数日、俺は瑠璃子の見舞いに行かなかった。思いの外、自分の気持ちが落ち着かなかったから。
◆7◆
◇8◇
葬儀の日は快晴だった。このところぐずついた天気が続いていたので、皆は口々に晴れて良かったと言い合った。天気の話題は逃亡手段としては有能だ。
納棺も火葬も全て終わってから、最期を見取ったという友人が手に提げた紙袋を開けた。葬儀に出た全員に向けて、瑠璃子は手紙を遺していたという。ここに来なかった人間にまで、人づてに何通か届けたとも聞いた。やっぱり瑠璃子はすごい。俺だったら一通も残す度胸はない。自分よりも後まで残る手紙なんて。
ひとしきり泣き終えたからか、瑠璃子の最期が安らかだったと聞けたからか、解散していく人込みは落ち着いたものだった。俺は散り散りになる集団から離れて、葬儀場の片隅に見つけた木陰に残った。作法に倣うだけで済むのは楽だったが、葬式自体に慣れていないので少なからず疲労感がある。植え込みの煉瓦の高さが丁度良かったので腰を下ろし、ネクタイを緩めると、ほっと息がもれた。やれやれ、ようやく一人になれた。
瑠璃子の手紙は簡素なものだった。真っ白い封筒に、同じく真っ白な便箋が一枚。先に読んでいた連中が言うには、どの手紙もごく短いものらしい。長く書くだけの時間も余裕もなかったのだろう。聞いていたよりも、ずっと早く瑠璃子は逝ってしまった。「悟へ」で始まる手紙を見ていると、そういえば瑠璃子から手紙をもらうのは初めてだと思い至った。
「書くことがまとまらないので最後に回したのに、結局どう言葉にしていいのかわかりません。とりあえず、思い浮かぶことを書き並べようと思うので、散らかった内容になっても許してください。」
最後に書いたからだろうか、瑠璃子の字は想像よりももっとずっとか細かった。
「付き合いが短いわけでもないのに、こうして手紙を残そうとして思い出されるのは、私が入院して以来の貴方ばかりです。どうやっても近いうちに別れるだろう時になって、ようやく、近付いてきてくれたのだと思うことにしました。最後の最後で付き合ってくれなんてとんでもないことを言い出されて、驚いたけど、楽しかったです。欲しかったのは責任感じゃなかったから、貴方の接し方は、正直なところ嬉しかった。貴方の唇は温かでした。ひっぱたいた跡がいつまでも残らないといいのだけど。」
面と向かってだったら、一生かかったとしたって、きっとこんな台詞は聞けなかっただろう。それが可笑しく思えて、思わず自分の頬をさする。もちろん、跡なんて残っているわけがない。
「今までありがとう。たくさんありがとう。それと、先に逝くことに、ごめんなさい」
こうして自分に関わった全員に別れを告げたのかと思うと、俺の見る目も悪くないと思える。最後まで返事はもらえなかったが、そんなことはたいして重要ではないように思えた。こんなに格好いい女もそういない。もう、どこにもいないかもしれない。この世のどこにも。
目を落とすと、数行離れて追伸が書かれていた。
「実を言うと、貴方の頬に私の手形がいつまでも残ればいいと思ってる。」
勘弁してくれ、と自分の耳にしか届かないボリュームで呟く。手紙に加えて手形まで残された日には、忘れてへらへら笑うこともできやしない。適度に忘れないと素直に生きてはいけないのだと、葬儀に参列した誰もが、誰かを亡くしたことのある誰もが知っているというのに。
肩が重くてうつむいていると、雨でもないのに瑠璃子の字が滲んでいって、少しほっとした。この文字たちを全て滲ませられるくらいになれば、気持ちも洗い流されて、忘れることもできるだろうと。それまではこのまま泣き続けてもいいのだと、そう許されたような気がした。
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