僕らの睡眠事情 -page2
ドアチャイムが鳴ったのは、それからたっぷり三十分は経ってからだった。それまで退屈そうに船を漕いでいた澄香が、ぴんと背筋を伸ばした。来るべき戦いに備えて身構えるばかりで、相手を出迎える気はさらさらないらしい。私は渋々玄関に立った。
若い。それがユウタの第一印象だった。がっしりした体格ではあるが、だぼだぼのジーンズが地面に裾をこすらせている。一見大人しそうな澄香とは対照的に、若さを持て余してちょっとやんちゃしてみました、といった風貌だ。まさか十代ではないだろうが、そう言っても通じそうな雰囲気ではある。
「すんません、えっと……澄香、いますか?」
見た目に反して低めのよく響く声だったが、当然というべきか、幾分上擦っている。
「……どうぞ」
心底追い返したい気持ちを抑え込んで言う。ユウタはひょこっと頭を下げると、その長身を屈めながら部屋に上がった。そこでようやく、連れの女性の姿が見えた。完全にユウタの陰に隠れてしまっていたらしい彼女は小柄で可愛らしく、愛玩動物のような印象を受けた。何かに似ていると思い、すぐさまチワワに思い当たった。
「……お邪魔します」
チワワの彼女は丁寧にお辞儀をし、二人分の靴を揃えてユウタの後に続いた。そして澄香と対峙して固まっているユウタの後ろで止まった。
「……とりあえず、座って。コーヒーでいいかな」
余裕の一つや二つ見せておかないと、私自身が落ち着けなかった。
「あ、すんません」
「お構いなく」
緊張しているのか恐縮しているのか(両方だろうが)、二人はぎこちなく澄香の向かいに並んで座った。
「私、コーヒー嫌だよ」
「……わかってるよ」
普段はろくに使いもしないティーセットを出して、コーヒーを三杯とティーバッグの紅茶を一杯入れ、居間に戻る。張り詰めた空気に歓迎された。二対二になるのは正直を言えば勘弁願いたかったが、かといってジャッジの位置につくのも居心地が悪かったので、結局澄香の横に着いた。カップを並べる間、誰も一言も発しなかった。
「……僕のことは気にしないで、話してくれて構わないから」
とりあえず、私はユウタに話を振ってみた。沈黙が重過ぎる。すると彼はわざわざ私の方へ体を向け、頭を下げた。
「巻き込んじまって、すんません。すぐ終わらせますから」
なかなか殊勝な青年じゃないか、と思ったのは一瞬だった。
「――すぐ終わらせるって何よ。あんなことしておいてさっさと帰る気なの?」
「何だよ、時間かけたって伊原さんの迷惑になるだけだろ。別に謝らないなんて言ってねえし」
「だから、誠意を感じないって言ってるの。心がこもってない。口だけなら何とでも言えるでしょ」
「ちゃんと悪いと思ってるからここまで謝りに来たんだろ? ちょっとは俺の言うことも信じろよ」
「何よ、悪いのはそっちなんだから出向いて謝るくらい当たり前じゃない!」
とりあえず、コーヒーを一口すする。一杯で、足りるだろうか。
「伊原君も何か言ってやってよ!」
「え」
「何言ってんだ、伊原さんには関係ない話だろ」
「そんなこと言って、言い負けるのが怖いんじゃないの? 伊原君、凄いんだから。大学の先生なんだから。伊原君にかかったら、あんたなんてすぐに頭下げさせられちゃうんだからね」
おいおい、と言ったつもりだったが、喉がカラカラで声にならなかった。澄香の言葉はしっかり威力があったらしく、ユウタはかっとなった勢いで私を見た。睨んだ、と言ってもいいかもしれない。
「……何か言うには、いまいち状況がわからないんだけど」
「昨日言ったでしょ。私が帰ったらユウタとこの子がベッドにいたって」
間髪を入れずに澄香が言う。
「……この話は、間違いないんだね?」
ユウタにそう問うと、渋りながらも頷いた。
「だったら……君の方が悪いと、僕も思うけど」
隣からの眼力に負け、全面的に、と付け加える。向かいを見ると、眉間に不満を目一杯寄せたユウタが、恨めしそうに私を見ていた。がたいが大きいせいか、結構な迫力がある。
「あー、だから、つまり……正当な理由があるなら、聞かせてもらいたいんだけど」
そう持ち掛け、一旦コーヒーに救いを求める。正直なところ、一息に飲み干したとしても喉が潤うとは思えなかったが。
ユウタは一度考えるような素振りを見せ、視線を落とした。それを合図にしたように女性二人がカップを取る。また沈黙だ。溜め息が聞こえてしまわないようにするのも一苦労な空気の中、女性陣のカップが置かれる音に続いて、ユウタは口を開いた。
「……俺たち最近全然会ってなかったし、別れるかどうかって話まで出てたくらいなんすよ? 寝るのくらい大目に見てくれてもいいじゃないすか」
おいおい、と今度は声に出た。
「とてもじゃないけど、そんな理由が正当だとは思えないよ。第一、それならどうして澄香の家を選んだんだ? そんな酷な話なんてないじゃないか」
私がカップを置く音は思いの外大きく響き、ユウタはこっそり畏縮した。
「……金がなかったんです」
「金?」
「俺が住んでるの、この辺りじゃないから。片道の交通費でほとんどすっからかんになって、ホテルにも行けないし、じゃあって思って……」
「だから、どうしてそこで澄香なんだよ。彼女がどんな思いをするか、考えなかったのか?」
「もっと遅く帰ってくると思ってたから……」
私は思わず頭を抱え、盛大な溜め息を吐いた。今日の最大風速を更新だ。呆れて言葉が出て来ない。ばれなければいいという話ではないし、そもそも罪悪感があるかも疑わしかった。澄香が怒るのも当然だ。昨日の涙は本物だったのだ。
「――いい加減にしろ」
私自身、久方振りに強い怒りを感じていた。
「そんな話、言い訳にもならない。直接会おうと思ったのは、弁解するためか? 澄香に対して済まないと思う気持ちがあってのことだと思ったのは、僕の勘違いだったってわけだ」
言い始めると歯止めが利かず、私は勢いに任せて続けた。
「それに、隣の彼女のことだって理解できない。ここに連れてきて、どうしたかったんだ? こんなタイミングで会わせて、一体何がしたかったんだよ」
ユウタはすっかり意気消沈し、頭を垂れていた。何かを言い返そうとする様子もない。吸い込んだ空気が、いやに冷たく感じた。
「……あの」
三人分の視線が、声のした方に集まった。声の主は微かにびくつき、身を縮めた。例の、チワワの彼女だった。
「……すみません、私が無理を言って連れてきてもらったんです」
「美由」
隣のユウタが、気遣うような優しい声を上げた。ミユ、というのが彼女の名らしい。
「私も謝るべきだと思って……それに、澄香さんに会ってみたかったから」
美由は澄香の方を向き、頭を上げた。それに倣って澄香も美由を見ている。
と、不意に美由が目だけを私に向けた。意味深長な視線はほんの一時私に留まり、すぐに澄香に戻った。それはいかにも申し訳なさそうな目で、私の中に警鐘を鳴らした。
「悠太君から、よく話に聞いてました。……可愛いお姉さんだって」
「……可愛い?」
「み、美由、何言ってんだよ」
「だって、よく話してくれるじゃない。年上なのに放っておけないところがあって、でも頼られると嬉しいんだって」
「……本当に?」
「悠太君、お姉さん大好きだから。ケンカすることも多いけど、最後はいつも味方してくれるんだって……だから、私も今度のことで甘えてしまって……」
「……悠太、本当?」
「……姉ちゃん以外に頼れる人がいなかったっていうのは、本当。美由は家族と住んでるから、他に行ける場所なんかなかったし」
「なあんだ、それなら早く言ってくれれば良かったのに。うちに来る前に連絡してくれたら、私だって……伊原君? どうしたの、顔色悪いよ?」
「……別に。少し、疲れただけ」
私はぐったりした体をどうにか支え、頭痛をこらえるために目頭を押さえた。体中から力が抜け、座ったままでいることすらつらい。
「大丈夫?」
澄香の声が遠くに聞こえる。目を上げると、澄香と悠太は同じようにきょとんとしていた。悪意のない、自覚のない顔だった。ただ一人、美由だけが事情を察した慈悲深い表情で心配してくれていた。私の溜め息の最大風速記録が、更に伸びた。
「……大丈夫。そっちも、とりあえず解決したと思っていいのかな」
我ながら弱々しい調子でそう尋ねると、澄香は意気込んで悠太を見据えた。悠太が儀式ばった動きできっちりと頭を下げる。
「すんませんでした」
「よろしい」
至極満足げに澄香は笑った。
「さすが伊原君。こんなに簡単に悠太が反省したの、初めてだよ」
「……あ、そう」
嬉しくも何ともなかった。間違いなく、今日は厄日だ。
「……それで、あの、姉ちゃん?」
悠太は頭を半分戻した中途半端な姿勢で澄香を窺った。言われて見れば澄香と似てなくもないが、ちょっと気味の悪い上目遣いである。
「……金、貸して欲しいんだけど」
「貸してって……本当にすっからかんなの?」
「そう言ったろ? 俺たち、半年会ってなくてさ。それで電話でちょっとケンカみたいになっちゃって。その勢いでこっち来ちゃったみたいなもんだから、手元にあった金引っ掴んできただけなんだよ。帰ったら返せる……と思うし……頼むよ。明日はバイトも講義もあるし、帰んなきゃやばいんだって」
「そんなこと言われても……お金、ないよ」
「片道の切符代でいいんだって。駅から家までは歩いて帰っから」
「だから、本当にないんだってば! お給料日、明日だもの」
それを聞き、悠太の顔から見る見る血の気が引いた。
「マジかよ……た、頼むよ。卒業かかってんだって。一浪した上に留年なんて、父ちゃんに何言われるか……」
「ないものはないってば! 無茶言わないでよ!」
「悠太君、私、少しなら出せるけど……」
「何言ってんだよ、美由に借りるなんてみっともない真似できるかよ。……そうだ、それだったらうちに電話して、銀行に降り込んでもらって」
「悠太、今日、日曜日」
悠太は本格的に顔色をなくしてうなだれた。全く、こいつらは、どこまで厄介を引き起こせば大人しくなるのだろうか。
私は立ち上がって鞄を取り、菩薩の心で財布を開いた。
「……これ、使って」
テーブルに一万円札を一枚置く。悠太の目は輝き、そこに釘付けになった。
「こんなに! 駄目っすよ、俺、こんなところまで伊原さんに甘えられないっすよ!」
「いいから、これ使って、帰ってくれ」
平穏の価値としては安いくらいだ、という気分だった。
「伊原さん……!」
突如、悠太は身を乗り出して私の手を両手で取った。
「ありがとうございます! 帰ったら絶対に返します! 絶対に! ありがとうございます、先生!」
「いや、先生って……」
「じゃあ、教授!」
「いや、僕はただの講師だから……」
「じゃあ……じゃあ、兄貴!」
「やめてくれ! 不吉過ぎる」
興奮冷め遣らぬ悠太は冷めたコーヒーを一気にあおり、もう一度大仰に頭を下げた。
「この恩は忘れません!」
忘れてくれ、と痛切に願った。
憔悴し切った体も、悠太たちを送り出すためなら動かせた。
「本当に、すみませんでした。理由はどうあれ、澄香さんの部屋で軽はずみなことをしてしまって」
はじめに玄関で見た時の印象に反して、美由はしっかりとした口調でそう言った。根はよっぽど芯の通った子であるらしい。でなければ悠太の恋人なんて大役は勤められないのかもしれない。
「伊原さんにも、ご面倒おかけしました。何だかややこしいことに巻き込んでしまって……」
「いや、本当に、もういいから」
この子には、ある意味で助けられたと言えるのかもしれなかった。姉弟だと気付かないまま突っ走っていたら、とんだ恥をかくところだったのだから。礼をするつもりで目くばせすると、美由は温和な笑みを浮かべた。
「……伊原さん、人がいいって言われません?」
「……どうして?」
「私、よくお人好しだって言われるんです」
そう言うと、美由はすぐ近くに立つ悠太をちらと見た。悠太も気付いて見返したが、その意味までは汲み取れなかったらしく、薄らと怪訝な表情を浮かべるだけだった。
私もつい、澄香を見やった。私を見上げる澄香は、やはり不思議そうに見返してきた。血を分けた姉弟だけあって、それはとてもよく似ていた。
「……しょっちゅう言われるよ、僕も」
そして私と美由は見合って少し笑った。隣にいるのがこれでは、お人好しといわれても仕方がない。
揃って頭を下げた二人が手を繋いで去ると、部屋は急に静まったようだった。何か私の気を張らせていた糸がふっつりと切れたようで、ベッドに倒れ込むともう二度と動けないのではないかと思えた。少なくとも、今日一日分のエネルギーは使い果たした感がある。
「いい子だね、美由ちゃん。あの子なら悠太が相手でも大丈夫そう」
ベッドの端にもたれて座る澄香に、うん、とだけ返事をする。昨夜安眠できなかったせいか、ベッドはえらく心地良く感じられた。
「……ねえ、伊原君」
澄香は膝を抱き込み、首だけをこちらに向けた。
「今日も泊まっちゃ駄目?」
「……昨日、帰るって約束したろ。一晩経ったんだから、大丈夫だって」
「だって二人はうちに泊まったんだよ? 一晩って言うなら、今夜だよ」
枕に半分埋まった頭が控えめな悲鳴を上げる。今日の安眠も手放さなければならないなんて、あんまりだ。しかもこの疲労を抱えた状態で、だ。明日は仕事もあるというのに。
だがあいにく、澄香を説得する余力さえも、今の私には残っていなかった。
「……わかったよ、泊めればいいんだろ?」
澄香は子供のようににっこりと微笑んだ。
「だから伊原君って大好き」
……これだからお人好しだ何だと言われるのだ。私は悔し紛れに、ふん、と鼻を鳴らしてみせた。
「……せめて布団くらいは貸してくれよ」
頷いた澄香は立ち上がり、テーブルの上からてきぱきとカップを取った。
「コーヒー淹れてあげるね。ミルク、貰ってもいい?」
「好きなだけどうぞ……」
何だって半日足らずでこうも疲れているのだろうか。一週間振りの休日だというのに、ちっとも休まった気がしない。
「伊原君」
首をねじり、声の方を向く。
「ホットミルクを作る時は、今度からお砂糖入れてくれると嬉しい」
そう言うと澄香はとびきり上機嫌に満面の笑みを浮かべた。私の、今日最大であってくれと祈らずにはいられなかった溜め息は、枕に吸い込まれた。
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