僕らの世間話 -page2
「……君に、マサキを刺した罪をなすりつけるため、じゃないか」
「そんな!」
今までで一番大きくはっきりとした声だった。
「そんな、だって、私……」
「自分だって、捕まるかもしれないと思ってるんだろ? それが、狙いなんじゃないか」
「思ってるけど……それは、ここに他に誰もいないからで……」
「同じ理由で、警察も君を疑うんじゃないかと思うけど」
「だって、だって! 私に、マサキを刺す理由なんてないもの! 私はやってない!」
本当にそうであって欲しいと、私は心から思った。しかし、いずれにせよ誰かがマサキを刺したことに変わりはない。私の口から、大きな溜め息が出た。
「……あなたも?」
「え?」
「あなたも、私を、疑ってる?」
嫌になるくらい答えにくい問いかけだった。
「あー、いや、だから……」
「答えて」
本当のことを、言えるわけがなかった。
「……疑ってないよ」
「……本当?」
「ああ、疑ってない。だからちゃんと、君の話を聞いてるだろ?」
私は自分に言い聞かせるようにそう答えた。額を押さえると、嫌な感じの汗が滲んでいた。
「本当に、私のこと、信じてくれる?」
「ああ、信じる。だから、とにかく、警察を呼んでくれ」
いい加減、手に負えない。私は今すぐ電話を切りたいと思った。
「……わかった。警察、呼ぶね」
「ああ、それがいいよ」
私は心底安心した。ようやく、戻ってこられる。
「……ありがとう」
「いいよ、お礼なんて」
「ううん、言わせて」
そして彼女は、こう続けた。
「ありがとう。……信じるって、言ってくれて」
言って、くれて。その声は心からのもののようで、恐ろしくなるような響きは皆無だった。三度目の「ありがとう」が寂しげに耳に届いて、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
「……じゃあ、切るね。突然こんな電話しちゃって、ごめんなさい」
私は彼女に掛ける言葉を探したが、どうしても、見つけられなかった。急に辺りが静まり返ったようで、私は言いようのない罪悪感を感じた。
「――きゃあああ!」
その静寂を、突如として電話の向こうから響いた声が破った。
「い、い、伊原君!」
「ど、どうした?」
私の名を呼ぶ彼女の声に、私は背筋がざわつくのを感じた。
「マサキ……昌樹が!」
「昌樹……? 昌樹がどうした? おい、澄香!」
携帯電話を握り締め懸命に彼女を呼ぶも、返ってくるのは言葉にならない喘ぎ声ばかりだった。
「澄香、聞こえるか? 昌樹がどうしたんだ?」
向こう側で起きていることが全くわからず、私は焦りを募らせた。先ほど自分の頭の中に駆け巡った映像を、必死に追いやる。返ってこない返事に耳を向けながらただ澄香を呼ぶことしかできず、ひどくじれったく感じた。
「……先輩?」
それは、澄香の声ではなかった。
「伊原先輩?」
「ま……昌樹?」
その声は紛れもなく昌樹の声だった。
「そう、俺です。お久し振りです」
「久し振りって……お、おまえ……?」
何をどう聞いたらいいのかわからず、私は口をぱくぱくさせた。
「すみません、心配かけて。でも、俺は、大丈夫です」
「大丈夫? でも、血が……」
「ええ、まあ、痛いんですけど……」
若干かすれて聞こえる声に、私はさらに混乱した。
「お、おい、澄香は……?」
「ええ、ここにいます。彼女には何もしてません。ぽかんとして、俺のこと見てます」
たぶん、私と似たような表情だろうと思った。
「ど……どういうことなんだ? 何が……え? おまえ、生きてるのか?」
何か言えば言っただけわけがわからなくなるようだと、裏返った自分の声を聞いて思った。
「ええ、俺は生きてます。……本当は、死ぬつもりだったんですけど」
私は聞き役に徹することに決めた。
「じゃあ……じゃあ、おまえを刺したのは……」
「ええ。俺が、自分で刺したんです」
そんな、という微かな声が電話の向こうと自分の口から聞こえて重なった。
「……俺、もう、限界だったんです。俺じゃ、澄香の相手は無理です。始めは澄香にその話をしようと思ってここに来たんですけど、澄香は寝てて、真っ暗な部屋の中で寝顔見てたら、わけがわからなくなって、いっそ死ぬかって思って……」
「い、いやいや、死んだら駄目だろ」
「ええ、今はそう思うんですけど。でも、さっきは、本気でそう思っちゃったんです。それで、流しに出しっぱなしになってた包丁で……」
私は、もう何度目かわからない溜め息を吐いた。
「でも、駄目でした。ためらい傷っていうか、小さい傷作っただけで、失神しちゃって……」
いかれている、と思った。この短時間に起きた出来事自体がいかれている。昌樹は私の考えていることには気付かずに照れたように小さく笑うと、いてて、と呻いた。
結局、原因は澄香だった。昌樹の、彼女への嫌がらせ。というより、ノイローゼだろうか。どちらなのか、私にはわからなかった。そしてどちらでも一切構わないと思った。どちらだとしても知ったことか、とんだとばっちりだ。
とはいえ、誰かが死んだわけでもなく、ただ単に行き過ぎた痴話喧嘩(違うかもしれない)が起きただけだった、ということには素直に安心した。巻き込まれておいてお人好しだと自分で思うが、物事を良い方向に考えて悪いことはあるまい。私は自分にそう言い聞かせた。
「先輩? 聞こえますか?」
「あ、ああ、聞こえるよ」
そう、昌樹は生きている。電話に出て会話できる程度の怪我しかしていない。それでいいじゃないかと思った。私の時間が少々潰れただけだ。私はわざとらしいくらいに大きく頷いた。
「俺、病院に行ってきます。死にはしないだろうけど、痛いし」
「ああ、そうだな。大丈夫か?」
「ええ、大したことないですから。今、澄香が俺の携帯で救急車呼んでくれてます」
「ああ、そうか。そうだな。それがいい」
今までの展開を思えば有り得ないくらい、私はすがすがしい気分になっていた。これで、電話も切ることができる。
「それで、先輩」
「うん?」
「澄香のこと、よろしくお願いします」
「……え?」
背中に、じわりと汗が滲んだ。
「澄香のことは、先輩に任せます。こいつといても大丈夫なのって、先輩くらいだと思うから」
「おい、ちょっと、任せるって何だよ」
「俺も、嫌いになったってわけじゃないけど……でも、俺には無理です。きっと、先輩なら大丈夫です」
「いや、だから……」
私の言葉が電話の向こうから聞こえるサイレンの音に重なった。
「それじゃ、病院、行ってきます。今日のことも俺のことも、忘れてくれていいですから」
「おい、だから、僕の意志はどうなる……」
「お騒がせして、すみませんでした」
「おい! 待てって!」
返ってきたのはツーツーという機械音だけだった。一体どこの誰がこんな冷たい音に決めたのだろう。無遠慮で、無機質で、腹の立つくらい容赦のない音。ばっさりと縁を断ち切る、残酷な音だ。いっそそのまま全ての縁を切ってくれたらいいのに。
携帯電話を机の上に置き、私はしばらく呆然とした。足元に散らばったままの論文に爪先が当たり、私は鈍重な動きでそれらを拾い上げた。
と、短い着信音が聞こえた。メールが届いたらしい。嫌な予感を抱えつつ、液晶画面を見てみる。案の定、澄香からのメールだった。題名はなく、本文に「通話料金が見たことのない数字でした」とだけある短いメールだった。
私は今日最大の溜め息を吐き、窓の外を見やった。いつの間にか、空は薄らと白み始めていた。
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