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order.07 fallen angel #01

折られた翼をかき抱き
天を仰いで血を拭う

 その街は相変わらず賑やかで雑然とし、やかましいほどの艶やかさでスタンリーを迎えた。時に東スラムと俗称されるこの三番街では、まだ日も高いというのに街娼が路地にひそみ、それを支配しようと男たちが肩を怒らせて練り歩く。スタンリーは西スラムで拾ったバイクから降り、適当なところに捨てて歩き出した。
 足が進むにつれて辺りは次第に静まり、目的の場所の周囲には他に目立つ建物もなかった。無理もない、とスタンリーは思う。あいつらに歯向かおうなんて無謀な奴は、この街にはいられない――俺がそうであったように。
 朽ちたコンクリートの壁を横に通り過ぎたところで、スタンリーは足を止めた。広い道路を一本挟み、豪奢な店が建っている。傍らに掲げられた看板には流麗な文字で「ヴァージン・リップ」という店名が示されていた。記憶の中のものよりも大きくそびえるその店に肥え過ぎた印象を受け、スタンリーは苦笑をもらした。
 ヴァージン・リップはこの街の中でも特異な存在だった。上品めいた塗りの壁の重厚な建物で、浮ついた隙はない。金のない人間は近付こうとも思わないような装飾は余計な人間を弾き、それは今のスタンリーにとっても好都合だった。
 回り込んだ裏口の前に人影を見つけ、スタンリーは物陰に身を潜めた。従業員らしき若い男が一人、少女を連れている。見覚えのない少女はあまり裕福そうには見えず、緊張を隠し切れずに顔色を蒼白にしていた。自分が連れて来られた場所がどんな店なのか、知っている顔だった。
 男が少女に何事かを言っているが、聞き取れる距離ではなかった。少女は青ざめた顔を上げる。歳は十五、六といったところか。怯えた様子で首を横に振っている。
 すると男は少女の肩を掴み、壁に押し付けた。少女は必死に抵抗するがそれもかなわず、その服の中に男の手が挿し入れられる。スタンリーは舌打ちし、足音を殺して駆けた。
 少女の目にスタンリーの姿が映り、その目が見開かれる。スタンリーは唇の前に指を立てて見せ、黒服の背後に迫ってその首に腕を回した。
「――ずいぶんと手癖が悪いな。ボスに知れたら事だ」
 右腕を首にかけたまま早口に言う。男はスタンリーの腕に手をかけたが、びくともしなかった。
「未遂で済んだんだ、ありがたく思えよ」
 男の手が止まり、糸が切れたように崩れ落ちる。スタンリーの支えをなくした体はコンクリートの地面へと倒れ込んだ。
 スタンリーが目を向けると、少女は地面にへたり込み、目に涙をためて両手で口を押さえていた。その姿にスタンリーは既視感を覚えた。理不尽な暴力と、それに抗えない非力な腕。この街は何も変わっちゃいない――そう感じて、溜め息を吐く。
「殺しちゃいない」
 スタンリーは男の横を抜けて少女の前にしゃがんだ。少女の体が大きくびくつき、涙が落ちる。スタンリーはもう一度口の前に指を立て、少女が落ち着くのを待った。
「……この店で働くために連れて来られたんだな?」
 少女が小さく頷く。口から手を離して目を拭う仕種を見ながら、スタンリーは右目の上を軽く掻いた。絆創膏の下で多数の裂傷が疼いている。
「……名前は?」
 幾分鎮まった様子で、少女がスタンリーを見上げる。貧富の差がどこよりも激しい三番街では到底見られない澄んだ目だった。
「――エイダ!」
 その声は裏口の奥、店内の方から聞こえた。見ると、髪の短い垢抜けた少女が一人で立っている。
「あんた、エイダに何を――」
「待って! エレナ、違うの!」
 エイダと呼ばれた少女は立ち上がり、スタンリーを一瞥してからもう一人の少女を止めた。
「エレナ、私は大丈夫。この人は、私を助けてくれたの。こっちの、黒い服の人が、その、私に……」
 辺りをはばかるように抑えた声でそう説明をするエイダを見つつ、スタンリーが腰を上げる。エレナの射るような視線を受け止め、結論を待つ。できる限り、無用な騒ぎは避けたかった。
「……あんた、新しい始末屋?」
 エレナが窺うように問う。その手はしっかりとエイダの手を握り締めていた。
「……いや、違う」
 その嘘だけは、どうしても吐くことができなかった。
「グレアム・リュニオンの雇う始末屋が、こんな格好でうろつけると思うか?」
 裾の擦り切れたズボンに薄汚れたシャツ姿のスタンリーが、首を傾げて訊き返す。エレナは口元だけで笑った。
「確かに。ボスの周りにいる奴は皆、揃いも揃って小綺麗な格好させられるからね」
 期待した通りの応えにスタンリーが頷く。
「……俺はあんたらを傷つける気はないし、その必要もない。ここから逃げたって文句は言わない。――ただ、俺が中に入るのを見逃して欲しい」
 エレナが微かに眉をひそめる。
「何が目的?」
「人を捜してる」
「誰を?」
 立て続けに問うエレナを、スタンリーは見据えた。
「知り合いの女と、グレアム・リュニオン」
 ここに留まれる時間は短い――そう感じながらスタンリーは答えた。標的の懐でもたもたするわけにはいかない。しかしスタンリーは辛抱強く相手の反応を見た。彼女たちを、敵に回したくはなかった。
「最後に、もう一つ教えて」
 抑えた声で、エレナは問うた。
「あんたは、グレアム・リュニオンの何なの?」
 きつい視線を曲げずに向けてくるエレナに、スタンリーは微かな哀愁の浮かぶ目を返した。
「――昔馴染みさ。……今は、敵だがな」
 そう言い切り、スタンリーは研ぎ澄まされた決意を目に宿す。
 エレナは、頷いた。
「わかった。――ついて来て。エイダの恩を返してあげる」
 エイダの手を引き、裏口の扉を開ける。
「あたしから離れちゃ駄目だよ、エイダ。あんた一人じゃこの街は危な過ぎる」
 扉の奥は静まり返っていて、中に人がいるとは思えないほどだった。
「こいつは放っといていいよ。始末屋の誰かがやったってことになると思うし」
 足元に伏したままの男に冷ややかな目を向け、エレナが言い捨てる。
「ほら、早く。見つかったらあたしもやばいんだから」
「……いいのか? ここから逃げられるチャンスなんて、そうないだろう?」
 スタンリーの言葉にエレナは押し殺した声で吹き出した。
「あんたがいつ頃のこの店を知ってるのか知らないけど、今そんなことしたら店の子全員が責められるんだよ」
 それは自嘲と諦観が入り混じったような声だった。スタンリーはそれ以上何も言わず、開けられた扉の奥へと向かった。
 外装から想像できる通り、店内もまた華やかな装飾が施されていた。広い廊下に立ち並ぶ黒い扉の一つ一つに細工が美しく映える。中で行われることを考えると、そのきらびやかなさまは滑稽にも見えた。
「入って」
 エレナはそのうちの一つのドアノブに手をかけ、静かに引いた。二人が中へ滑り込む。最後に入ったエレナは周囲を見渡してから扉を閉め切り、ほっと一息吐いた。
「ここはあたしの部屋だから、店が開くまでは大丈夫。あと三時間ってとこかな」
 ベッドに腰を下ろしたエレナに続き、エイダもその隣に座る。スタンリーは入口近くに立ち、部屋の中に視線を一巡させた。初めて見るそこは店の印象と違わず、高級感のある立派な作りになっている。
「……悪くない部屋だって、最初は誰でも思うんだよ。実際、ここで暮らしてれば温かい食事にありつけるし、お風呂にも入れる。ここにいる限り、あたしたちの生活は保証される」
「……ここにいる限り、か」
 スタンリーは首を上げた。高くに窓があり、格子がはめ込まれているのが見える。
「そう。ここから出ようなんて考えない限り、ね」
 エレナに目を戻すと、その顔には歳に似合わない皮肉な苦笑が浮かんでいた。
「……さっきは外まで来てたが、大丈夫なのか?」
「あたしは店内なら平気。稼ぎ頭には、ちょっとだけだけど甘くなるんだ。まあ、あんまり派手にやるとさすがにやばいけど……でも、今日はエイダが来るって聞いたから」
 エレナが隣のエイダに顔を向け、つられるようにスタンリーもそちらを見る。エイダは少し肩を強張らせた。
「エレナとは北スラムにいた時にずっと一緒だったんです。私たち、他に家族って呼べるような人がいなかったから……」
 うつむいたエイダの手に、エレナがそっと手を添える。
「――ねえ、あんた、ひょっとしてガルシア・ファミリーの人間?」
 不意にその顔がスタンリーに向いた。
「いや。何故だ?」
「あたしも最近聞いたんだけど……今、うちのボスがガルシアのシマを狙ってるらしいから」
 スタンリーはあからさまに不愉快そうな顔をした。
「リュニオン・グループは北スラムを自分のものにして、気を良くしてる。あの孤児ばっかりの街をね。この店にいる女の子の半分くらいは北スラムから連れて来られたんだ。それに味を占めて、今度は西スラムにまで手を伸ばそうとしてるんだよ」
「東だけじゃ足らないってわけか……冗談じゃねえな」
 吐き捨てるようなスタンリーの声に、苦笑が重なる。
「完全に一人で乗り込んで来たんだ、あんた。凄いね、ある意味」
「相手がグレアムだけなら勝機はあるさ。協力があればなおのことな」
 スタンリーがエレナに視線を流す。エレナは肩をすくめて見せ、そして笑った。
「あんたが探してる女っていうのは、うちで働いてる子?」
「ああ、おそらくな。三ヶ月ほど前に逃げ出してきたらしいんだが、昨日のうちか今日にでも連れ戻されたはずだ」
 スタンリーの言葉を耳にしたエレナの顔色がすっと変わる。それを見て怪訝な表情を浮かべたスタンリーに、エレナは問いを重ねた。
「……名前は?」
「ルーと名乗った。ルイーゼのルーだ」
 エレナは顔色をなくしたまま口を結んだ。その顔を、エイダが心配そうに覗き込む。
「知っているんだな?」
 エレナはためらいがちに、ゆっくりと口を開いた。
「……この店でルイーゼっていえば一人しかいない。歳でこの店を辞めてからボスに囲われてたけど、今はもういない」
「いない? どういうことだ?」
「……殺されたんだよ、ボスに。店の男と逃げようとしたから」
 深く考えないで済むようにか、エレナはすぐに続けた。
「そのルイーゼの娘もこの店で働いてたけど、母親が殺された後にここから逃げた。それから管理が厳しくなったから、他に逃げ出せた子はいないよ」
 エレナはスタンリーから目を離し、伏せた。そして一つ溜め息を吐くと、改めてスタンリーを見据え、告げた。
「……その子の名前はポーシャ・リュニオン。――グレアム・リュニオンの、娘だよ」
 一瞬、スタンリーの周囲から音という音が引き上げた。それから少しずつ世界に音が戻り、次いで自身の奥の方で何かがくすぶるような感覚があることに気付いた。西スラムまで届くリュニオン・グループの噂を耳にする度に疼いた古傷が、今また熱を帯び始めている。
 と、スタンリーは唐突に吹き出した。苦笑とも嘲笑とも取れるような声に、二人の少女がぎょっとする。
「本当に厄介な拾いものだったってわけか……笑えねえな」
 そう独り言ち、大きく息を吐いて笑みを消す。そのまま目を向けられたエレナは、わずかに身じろぎした。
「ここから、外に連絡は取れるか? そいつは内線だけだろうが」
 部屋に備えつけられた電話機に向かって顎をしゃくり、スタンリーが尋ねる。エレナは晴れない表情のままスタンリーを見上げた。
「一応、外線電話はあるよ。見張りの前でしか使えないけど」
 右目の上を軽く掻きながらスタンリーが頷く。
「ここに呼んでもらいたい奴がいるんだ。雑魚に構ってる暇はなさそうなんでな」
「呼んでって……電話で呼べるのは知り合いの客くらいだよ。見張りの前で、ばれないようにあんたの仲間を呼べって言うわけ?」
「できるさ。向こうも慣れてる」
「だからって――」
 エレナが言葉を続けるのを遮るように、スタンリーは口の前に指を立てた。その目付きは鋭く、扉の向こうを見据えている。不意に訪れた静寂に、微かな足音が混じっていた。それは徐々に近付き、だらしなく引きずるような特徴が聞き取れた。
「――隠れて」
 エレナは素早く立ち上がると、洗面所のドアを開けた。エイダの手を引いて立たせ、スタンリーを見やる。
「何があっても黙って隠れてて。ポーシャを助けたいならね」
 扉を叩くノックの音。スタンリーとエイダは言われるまま洗面所へ入り、ドアを閉めた。その直後に扉の開く音が聞こえ、スタンリーは息を潜めて室内の様子をうかがった。
「……また来たの? こんなところに来てないで仕事しなさいよ」
 ドア越しにくぐもった声が聞こえる。誰が聞いても不愉快であることがわかるような声だった。
「まあ、そうつれないこと言うなよ」
 部屋に入って来たのは、どうやら一人の男のようだった。息を呑むエイダがスタンリーの腕に掴まる。
「……商品の品質管理も仕事のうちだろ?」
 いらやしく引きつった笑い声に、ベッドの軋む音が続く。これから何が行われようとしているのかを察したスタンリーは、エイダに目を向けた。エイダは先程自分が似たような目に遭いかけた時よりももっと顔を青くし、スタンリーに掴まる指を震わせていた。
 更に男の笑い声が聞こえる。スタンリーはエイダの手を取り、腕から離した。
「ここにいろよ」
 小声で短く告げ、音を立てないよう気を払ってドアを開ける。隙間からベッドの上に男の背を見つけ、スタンリーはドアを開け放った。
 男が振り返る間もなく、その首にスタンリーの腕が巻きつけられる。男はわけもわからずに暴れ、揉み合いとなった。闇雲にばたつく手足がスタンリーの体をかすめる。男は背が高く、その手はスタンリーの顔に届いた。
「どいつもこいつも……!」
 一気に力を込め、スタンリーは腕を締めた。男の動きは一瞬にして止まり、投げ出されるように手が垂れ下がる。ゆっくりと腕を解くと、男の体はぐにゃりと床に伏した。
「……馬鹿だね、あんた」
 ベッドから起き上がり、エレナが呟く。微かに震えた声だった。
「騒ぎになっても知らないよ」
「頭のいい奴は馬鹿に歯向かったりしないさ」
 肩を回しながら、小さく笑う。
「グレアムみたいな馬鹿に歯向かうのは、やっぱり馬鹿だけだ」
 スタンリーは男のネクタイを解くとさるぐつわにして噛ませ、担ぎ上げた。
「それに、最後には騒ぎになるに決まってる。だったらちょっとくらい痛めつけてやっても問題ないだろう。どうせこいつはしばらく騒げんしな」
 入れ替わりに出たエイダにエレナを任せ、男を引きずって洗面所に運び込む。適当に使わせてもらうとエレナに断わった上で、ドライヤーのコードや引き裂いたタオルで男の手足を縛り、バスタブに放り込む。部屋に戻ると、少女たちの顔色は幾分良くなっていた。
 と、エイダがスタンリーに歩み寄り、その顔に手を差し伸べた。
「……痛みますか?」
 右目の絆創膏が剥がれかかり、血の滲んでいるのが見える。先程の格闘のせいで、傷が開いたらしかった。
「大したことはない」
 スタンリーは絆創膏を剥がし、くしゃくしゃに丸めた。具合を確かめるように何度か瞬きし、そのままエレナを見る。エレナは胸の前で握った手を解き、あらゆるわだかまりを振り払うように立ち上がった。
「――どこに電話すればいいの?」

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