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order.01 bishop
物語が始まる
悲しき叫び声と
温かな湯気と共に
「――助けて!」
そんな声が聞こえるのは、この界隈ではさして珍しいことではなかった。モーテルの裏やダイナーの駐車場、廃墟の隙間に暗い声が滲んでは消えるのが日常。この西スラムという通称を持つ街に生きる人間には、それが当然の日々の風景だった。
だからこそ、男には不思議に思えた。
「おい」
誰かを、助けるなんて。
「俺の店の前で騒ぎは御免なんだがな」
その声に振り向いたのは二人連れの若い男だった。二人は薄汚れたシャツと破れたズボンに身を包み、敵意を剥き出しにした眼差しを返した。見慣れた反応である。
店主は一人の胸倉を掴み上げ、動じた素振りもなく冷ややかに見下ろした。
「……一発食らわないとわからないか?」
白いタンクトップから伸びる腕の筋肉が隆起する。ギリギリと音が聞こえるほど男を締め上げると、その表情は見る見るうちに歪んだ。降参しているつもりなのか、肘を折って両手をだらしなく上げている。店主は半ば呆れ、つまらなさそうに鼻で笑った。
「――バカが!」
その隙をつくようにもう一人の男が動いた。振りかぶった手には空き瓶が握られ、笑うような甲高い声が響いた。
「これでも食らいやがれ――」
その言葉が言い終えられる前に、店主は左手で瓶を持つ手を掴んだ。そのまますかさず引っ張り、体勢を崩した男の鼻面に右の拳を叩き込む。折れたとも潰れたとも取れる鈍い音に、男のくぐもった叫び声が重なった。男はそのまま膝をつき、両手で顔面を押さえて呻き声をもらした。
店主は一つ息を吐き、まだ立っているもう一人の男に目をやった。自由の身になった男は、先程の格好のままで立ちすくんでいる。
「おまえは、どうする?」
聞くまでもなく、男は後退りをして店主から距離を取っていた。
「わ、悪かったよ……あんたみたいな強え奴がこんなとこにいるなんて思ってなかったんでよ……」
少しずつ距離を広げながら男は猫撫で声を出す。その足が未だしゃがみ込んでいる相棒の男にぶつかり体勢を崩しても、顔には媚びた笑みを張りつけていた。
「別に、あんたのシマを荒らそうってつもりじゃあ……」
「だから、どうするんだ?」
痺れを切らせて店主が訊くと、男は一度身をびくつかせ、そして走り去った。その無防備な背中に、店主はもう一度呆れた。
「――おい!」
店主の声に背中が跳ね上がる。
「忘れもんだ! ちゃんと連れて行け!」
言いながら、鼻を押さえる男の腿を蹴り上げる。蹴られた男はその勢いで立ち上がり、ひょこひょこと前の男を追った。無防備な背中が二つ並んで走り去るのを見届けて、店主はようやく助けを求めていた声の主を見た。
汚れた地面に倒れているのは、まだ年端もいかないように見える小柄な少女だった。
「おい」
先程よりも幾分優しげな声をかけるが、少女は気を失っているらしくぐったりとしたままだった。軽く頬を叩くも、目を覚ます気配はない。
店主は大袈裟な溜め息を吐いた。……やはり、放っておくべきだったか。
仕方なしに店主は少女を抱え、店の中へと運んだ。開店前の店内は薄暗く、がらんどうとしていた。
「マスター、また何かやったんですか?」
店内にいた若い男が視線も寄越さずに店主に声をかける。それは心配しているというよりも非難しているような声だった。
「またって言うな。別に俺が売った喧嘩じゃない」
「結局は喧嘩なんじゃないですか。だからこの店は……って、マスター、その子は……?」
振り返った男がカウンターを拭く手を止める。
「拾った」
「は?」
店主はカウンターまで進むと、ほら、と声をかけながら呆気にとられている男に少女を軽々と渡した。
「お前に任せる」
「ま、任せるって……」
「店は俺に任せておまえはそのガキを起こせ」
二の句を繋げずにいる男を尻目に、店主はその手から台布巾をひったくった。
「命令だ。わかったな、ウィリアム」
「……了解」
さっさとカウンターを拭き始める店主に隠れて溜め息を吐くと、ウィリアムは気を失ったままの少女を見てやれやれと小さく笑って寝床のある階上へ消えた。ぎしぎしという階段の鳴き声を背中で聞きつつ、店主は台布巾をカウンターの上へ放り投げた。指を組み、腕を上げて背を伸ばす。それから、心持ち痛みが残っているらしい右手を見た。男の歯で切れたのか、甲の部分に血が滲んでいる。
お世辞にも広いとは言えないこのバーに血の匂いが持ち込まれるのは珍しいことではなかった。店内でいざこざが起こることこそ少ないが、この周辺地域に住む人間で血の匂いもすえた匂いもしないような者は一握りである。だからこそ、店主は自ら拾ってきた少女の扱いに戸惑っていた。少女を抱え上げた時の清潔な石鹸の香りを思い出し、店主は再び台布巾を取った。
しばらくして、ウィリアムは一人で階下へ降りてきた。店主は床を磨く手を止め、デッキブラシをウィリアムに押し付けながら問うた。
「起きたか?」
答えはわかっていたので、店主はしっかりと非難の意味を込めて投げかけた。そんな扱いに慣れているのか、ウィリアムは肩をすくめただけだった。
「起きそうにないんで、寝かせてありますよ。とりあえず目立つ怪我はないみたいですけど……」
「けど?」
ウィリアムは悲しげに目を伏せると、落ち込んだ声で告げた。
「……痣が、手首に」
その言葉で大体の意味を掴んだ店主は、ウィリアムに気付かれないように舌打ちをした。厄介な拾いものをしたかもしれない、と再び考えていた。
「さっきの奴らでしょうか」
「ないな。あいつらはあのガキに目をつけただけの、ただのゴロツキどもだ。しっかり灸も据えておいた」
あいつらじゃない、と店主は小さく付け加え、少女が眠っているであろう方へ向いて天井を睨み付けた。それから目を伏せ、軽く頭を振った。
「やめだ。今ここで考えたって何がわかるわけでもない」
「でも……」
「でももクソもねえ。いいからおまえは掃除を済ませろ。もうすぐうるさい奴らが来ちまう」
ウィリアムは口を開いて反論を試みたが、結局は口をつぐんでデッキブラシを動かした。店主はカウンターに投げていた白いシャツを羽織ると腰に黒いギャルソンエプロンを巻きつけた。
そして店主は外灯をつけるために表に出ようとして、ぴたりと足を止めた。
「……マスター?」
ウィリアムの声を遮るように手を挙げ、店主は横目に二階へと伸びる階段を見やった。ぎし、と階段が鳴いた。
店主は大股に階段まで歩み寄り、覗き込んだ。薄暗がりの中にほっそりとした素足が見える。顔は見えないが、胸の前で不安げに両手を握っているのはわかった。
「――降りてこい」
それだけ言って、店主は階段を離れた。それに交代するように、ウィリアムがエプロンで手を拭きながら階段に近付く。
「大丈夫。ここに君を傷つける人間はいないから」
その声は店主の声に比べて明らかに優しいものだった。店主は気に食わなそうにカウンターに入り、腕を組んで少女を待ち受けた。
階段を下り切った少女は隣に立つウィリアムに支えられるように促され、カウンターの前まで寄った。上目遣いの不安げな表情で店内を見渡すさまは、どこか諦めているようにも見える。ウィリアムに促されるままにカウンター席に着いた少女を、店主は冷ややかに見下ろしていた。少女はうなだれたままただカウンターの表面を見つめていた。
緊張感に負けたウィリアムが口を開く。
「あの、怪我とか、してない? もし痛いところとかあったら手当てしないと……」
「おまえは黙ってろ」
鋭い一瞥でウィリアムを黙らせた店主は、正面から少女を見据えた。
「名前は?」
少女は答えない。
「歳は?」
少女は答えない。
店主は頭を振りながら、これ見よがしに溜め息を吐いた。少女の隣に立つウィリアムは心配そうに眉をひそめるばかりだった。
うつむき黙り込んだ少女を、店主は改めて眺めやった。小柄で華奢な体付きは幼く見えるが、その上に浮かぶ表情はどこか醒めている。店主は、少女の顔に時折「少女」と呼ぶことをためらわせるような陰りが差すのを見逃さなかった。警戒心が諦観に塗り潰されたような目の色。
覚悟を決め、店主は口を開く。
「どこから逃げてきた?」
少女は見て取れるほど肩をびくつかせると、痣を隠すように自分の手首を掴んだ。
「その痣をつけた奴は、おまえの客か?」
傷ついた目を、少女は店主に向けた。その目は微かに潤んでおり、すがるように店主だけを見ていた。店主はその無言の抵抗に額を押さえた。厄介だ。まったく厄介だ。初めに耳にした少女の叫び声を思い出しながら、店主はそう思った。
「……帰る場所はあるのか」
答えはわかっていたし返事を聞けばどうなるかも理解していたが、店主はそう尋ねる以外の選択肢を見つけられなかった。
少女は、弱々しく首を横に振った。それと同時にウィリアムが無理矢理に表情を明るくしたのが目に入り、店主は顔をしかめた。
「じゃあ、じゃあ、しばらくここにいるといいよ。部屋はまだ余ってるし」
到底店主には出せないような声で、ウィリアムはそう提案した。予期していた展開に、店主は更に表情を険しくした。
「おい、おまえは何様だ?」
「だって、このまま放っておけないじゃないですか」
「勝手なことを言うな。居候の分際で」
そんなやり取りを、少女は二人を見比べるようにして眺めている。ウィリアムは店主から向き直り、少女に笑いかけた。
「僕もね、マスターに拾われた身なんだ。見た目はおっかないけど、こう見えて結構善い人なんだよ」
「……いっそおまえを拾ったのが間違いだったよ」
半ば本気で、店主はそう呟いた。
店主はカウンターに両手を着き、少女を見つめた。少女も、頼りない視線を返す。
「おまえは、ここにいたいか?」
その直後に訪れた一瞬の静寂は、厳しく澄んでいた。
少女は店主を見つめたまま、しっかりと、頷いた。
店主はカウンターから離れると、大きく息を吐いた。それは失望の溜め息ではなく、覚悟の呼吸だった。
「いいか、よく聞け」
店主は背後の壁に作り付けられた戸棚に手を伸ばしながら言った。
「俺にもこの店にも、ただ飯を食わせる余裕なんかない。本当は居候一人だって追い出したいくらいだ」
最後にきっちりとウィリアムを睨みつけ、店主は手を動かしながら続けた。
「だから、おまえにも働いてもらう」
その言葉が届くと同時に少女の顔に再び影が落ちたが、それはすぐに少女の意志で打ち消された。店主はそこまで見届けた後、告げた。
「だが、この店で客を取らせるつもりはない。誰にもだ」
少女はきょとんとした表情を見せた。そして店主はカウンターの上に湯気を立てるカップを乗せ、こう続けた。
「とりあえずは雑用からだが……今日は、これを飲んだら上に行って休め」
少女の目の前に差し出されたカップの中では、赤い液体が湯気を立てていた。ほんのりと甘い香りが少女に届き、その表情を緩める。
「ビショップだ。ワインを湯で割って、砂糖を入れた。あいにく、ミルクは切らしてるんでね」
言いながら、店主はカウンターを出た。少女の歳相応に子供っぽい目と、ウィリアムの嬉しそうににやつく目から、逃げるように。そして改めて外灯を点けるべく足を進めた。美味しい、という少女の初めての声は背中で聞いた。想像していたよりも悪くない声だと店主は思った。
「ああ、それから」
思い出したように振り向き、店主は声を上げた。少女がカップを両手に持ったまま振り返るのを待ち、言う。
「名前が無いんじゃ不便でかなわん。何て呼べばいい?」
少女は手元のカップに目を落とした。何かを考えるように、思い出すようにした後、顔を上げて真っ直ぐな視線を店主に返した。
「ルー」
「……ルー?」
聞き返した店主に、少女は大きく頷いた。「ルイーゼの、ルー」
店主はそれ以上追及することを止めて一言、悪くない、と呟いた。
「俺はスタンリーだ。店にいる時はマスターと呼べ」
「僕はウィリアム。よろしく、ルー」
二人の自己紹介に少女は丁寧に頷き、ようやく人心地ついたように柔らかく笑った。
スタンリーはいつもより遅い開店のため、外に出た。久し振りの快晴に、空は星を散りばめ始めていた。店内のウィリアムはルーに満面の笑みを向け、こう言った。
「ようこそ、バー『アイアン・バタフライ』へ!」
それは、明かりが灯るのと丁度同時だった。
ビショップ【bishop】
@ワインにレモンや砂糖などを入れて作る温かい飲み物。
A精神的監督者。
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