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velvet dark -the incubus story-


 少年は食事をしたことがなかった。生まれたばかりで、世界の勝手がわからなかった。

「僕らはどうやって生きているの?」

 常闇の中に仲間を見つけては、問い掛けるのが日課だった。

「そんなこともわからないのかい? 我々は、ヒトの快楽を糧として生きているのだよ」

 波紋を広げるような緩やかな声で返事はされた。

「この夢の世界で、ヒトと交わるのだよ。その快楽が深いほど、我らの腹は満たされる。“食事”をすれば、寿命が尽きることはない」
「どうやって食事をするの?」
「それは自分の胸に訊いてみることだ。夢魔ならば、本能でできるから」

 少年は首を傾げて歩き続けた。お腹はなかなか減らなかった。



「僕らは“食事”をしないと生きられないの?」
「“食事”が嫌なら、魂を食べればいいのさ」

 宝石のように美しい目をした仲間は、事も無げに言った。

「魂を食べると、えらく満腹になる。自分は時折食べているよ。面倒が嫌いだから」
「どうやったら食べられるの?」
「心の臓に一番近い、穴から吸い出すのさ。“食事”よりもずっと楽だよ」

 少年はヒトの魂に興味を持った。



「魂を食べたことはある?」
「ああ、もちろんだ。一度食べたら忘れられない味がするぜ」

 三人目は肌を炙るような熱さを匂わせていた。

「“食事”をしたのに腹が減る、そんな時に食べるんだ。ヒトの魂は極上だ。食べても食べても欲しくなる」

 空腹感を知らない少年が首を傾げているのを見て、彼は喉の底で笑った。

「もう何度食べたか思い出せないが、それでも飢えは唐突に俺を襲う。おまえにも、いつか、わかるさ」

 夢魔と別れた少年は、いよいよ魂のことを考えずにはいられなくなった。



 またある日も、少年は問うた。

「魂を食べたことはある?」
「一度だけ」

 そう答えた夢魔は、目を伏せた。

「今からずっとずっと前、一人の女と交わった。いつもの“食事”と同じはずだった」

 他の夢魔とは違い、彼を取り巻く空気は凛として、ひどく冷え切っていた。

「しかし女は言った。ヒトと言葉を交すのは初めてだった」

 ――私を覚えておいでですか。

「女は私に、誰かの姿を見ていた。会ったことはなかったのだから」

 夢魔は口を開きたがらなかったので、少年は辛抱強く待たなければならなかった。

「それでも、私は拒むことができなかった。何故か、目が離せなかった」

 ――もはや会えぬと思うていたものを。

「そう言った女を、私は抱きすくめた。どうあっても思い出すことはできなかったが、狂おしいまでの懐かしさを感じた。体中が引き裂かれてばらばらになり、そのまま死んでしまうのではないかと思った。女も私も」

 少年は黙り込み、言葉の続きを待った。

「そこで、嗚呼、私は思い余ってしまった。女が唇を求めるのに、抗うことができなかった」

 二人目の言ったことが、少年の頭を掠めた。

「達するのと触れるのとは、完全に、同時だった。女は果てた。私の腕の中で力を失い、二度と目を覚ますことはなかった。呼び掛けても、揺さ振っても、返事はなかった」

 それで話は切り上げだとばかりに、夢魔は少年に背を向けた。

「それから、もう、三百年が経つ。まだ腹は減りそうもない」



 夢魔と別れた少年は再び仲間を探そうと歩を進めたが、数歩で立ち止まった。そして、数日前のことを思い返した。夢を見にここを訪れた、ヒトを思い返した。

 初めて見るヒトの女は肌が白く、透き通るようだった。自分がひどく汚れた獣のように思えて、その夜は近付くことすらできなかった。

「あの子も泣くのかな」

 少年は、腹が減り始めていた。







  了









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