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phantom blue -The ghost story-


 まだ世界が狭く、時が遅かった頃、あらゆる人間は没した者の魂を見ることができた。

 友を失った若者は友の魂と、子を失った親は子の魂と、連れ合いを失った配偶者は連れ合いの魂と、逢うことができた。

 しかし、誰一人としてそれを嬉しそうに語るものはいなかった。



 ある青年も、その話を知っていた。会える者との別れを惜しむ、その理由を不思議に思っていた。

 青年は幸福を見つけるのが得意だった。両親は息災で、友人は多く、毎日が恵まれていた。新たな出会いをする度に、青年の幸福は深まった。

 青年は、恋をした。

 それは初めて感じる温かさで、相手の女も同じ温かさで青年を想った。青年は更に幸福を深めた。ゆっくりとした時の中を、二人は同じ速度で進んでいた。手を離さず、身を寄せ合い、常に共に居た。

 が、女は逝った。病で、呆気なく逝った。

 青年は初めて劇烈な喪失感を味わったが、またすぐに会えると一念した。恋人を求め、必ず会ってみせると、自らを奮い立たせた。

 二人は、それからすぐに逢った。探し当てるまでもなく、女の魂は死の床に立っていた。

「良かった、ここにいてくれたんだね。僕がわかるかい?」

 女は生前と同じ姿で立っていた。ほっそりとした足を地に着け、緑の黒髪を真っ直ぐに下ろしていた。

 返事はなかった。

「どうしたんだい、僕だよ、こっちを見て。ほら、君の好きな花を摘んできたんだ。二人で、よく眺めたろう」

 返事はなかった。女は虚ろな目をぼんやりと上げただけだった。

「もう、おやめなさい」

 振り向くと、青年の後ろには女の両親がいた。女とよく似た虚ろな目で、青年を見ていた。青年は訝しげな視線を返した。

 両親は決して、女の部屋に入ろうとはしなかった。

「君の声は娘には届かない。花の匂いも娘には届かない。もう諦めなさい」
「諦めろとは、どういうことですか。彼女は今も、あそこにいるというのに」
「もういないのだよ。娘は、どこにも」

 両親はそれきり部屋を離れた。青年はわけがわからず、女を見た。女は瞼を伏せ、静かに佇んでいた。

「また来るよ。花は置いていくからね。今度は何が欲しい?」

 やはり女の返事はなく、青年は肩を落として家を出た。

 年老いた夫婦だけが暮らす家は、おぼろげな影が差しているように見えた。



 青年は明くる日も女を訪ねた。

「この近くの野原で、僕らはよく歌ったね。こんな歌だよ、覚えているかい?」

 青年の声はよく通り、部屋中に美しい調べが満ちた。それは柔らかで、温かだった。女への想いをかたちにしたように。

 女は眉一つ動かさず、黙してまたたいた。青年の歌声は女に一欠片も残らず通り過ぎた。

 青年の歌は、ぱたりと止んだ。もうそれ以上歌が紡げなかった。

「また来るよ。花は、生けておくから」

 家を出て振り返ると、影が濃くなっているように見えた。



 青年は明くる日も女を訪ねた。

「今日は果物を持ってきたよ。僕が採って渡すと、君はいつも嬉しそうに笑ってくれたね」

 果実は瑞々しく、爽やかな香気を振り撒いていた。皮を剥くと果汁が滴り、涼しい甘みが漂った。

 女は振り向こうとすらしなかった。果実の潤った香りを嗅げる鼻が、女にはなかった。

 体のない女が果実を食べられるわけがないと気付き、青年はいたたまれなくなった。

「ごめん。辛い思いをさせてしまったね」

 女は平然と佇んでいた。まるで辛いという感情さえも忘れてしまったようだった。

「また、来るよ」

 女の家に差す影は、更に濃くなっていた。



 青年はそうして七日七晩女を訪ねた。

 女の姿が透け始めたのを見て、青年は、こっそり、ほっとした。青年はそれに気付かない振りをしたが、声を掛けるのはためらわれた。

 青年は女に近付き、手を伸ばした。肩に、頬に、髪に、触れたいと思った。いつかのように、手を握り返して欲しいと思った。

 女の魂は、青年の手を受け止めることなく透かした。温度すらそこにはなかった。

「君の目に、僕は映っていないのだね。花の匂いも、歌声も、果実の味も、君にはわからないのだね」

 前に聞いた言葉の意味を、青年は知った。

「君は、もう、いないのだね」

 家を出る時、青年はもう振り返らなかった。ただ一輪の花だけが、ぽつりと残されていた。



 まだ世界が狭く、時が遅かった頃、あらゆる人間は没した者の魂を見ることができた。

 しかし、誰一人としてそれを嬉しそうに語るものはいなかった。



 今はもう、誰も見ることができない。







  了









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