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minority


 その男の時間に狂いはなかった。

 ベッドから体を起こし、カーテンを開け、着慣れたシャツに袖を通す。顔を洗い、髪に櫛を入れ、身支度を整えて台所へ向かう。今日の朝食はトーストと炒めたベーコンにしようと、ゆうべ決めていた。珈琲のドリップを待ち、新聞に目を通す。暑くもなく寒くもない、そんな気候を天気予報で確かめる。温かな曇りの日は、大抵機嫌が良い。

 男の名は時任。小さなバーを一人で切り盛りしている。家族と呼べる人は誰もいない。

 無難に大学へ進み、無難な就職をし、そこまできて色々なことが嫌になり、突然仕事を辞めてバーを始めてから今年で七年になる。

 日が傾き始めると時任は店を開く準備に取り掛かる。その手順すら、毎日決まって繰り返される。椅子を下ろす順番さえ。時任は飽きるということを知らない。気に入っていることに関しては。

 午後六時、時任は毎日間違いなく店を開く。開けてすぐの、まだ誰も訪れていないわずかな静寂を、時任は愛していた。ここから自分の一日は始まるのだと、そう思ってさえいた。

 店は決して大きくはなく、大手を振って贅沢ができるほど潤ってもいないが、今のところ不満はない。席は十席ほどで、客との距離こそ近いが、ずかずかと踏み込むような真似はしない。客もそれを心地良く思ってくれているのだろう、店内の席が全て埋まっていても落ち着いた静けさが保たれていることが多かった。

「いらっしゃいませ」

 近頃、日曜の夜の決まった時間に来店する客がいた。もう常連と呼んでも差し支えないだろう彼は、大柄な体躯の割りに人懐こい笑顔を浮かべてカウンターに着いた。その席も、今は彼のものだ。

「こんばんは」
「外は雨のようですね、濡れませんでしたか」
「ええ、なんとか。強くなる前にやんでくれるといいんですけど」

 時任はカウンター内に用意していたタオルを手渡した。

「使ってください。肩が少し濡れてらっしゃる」
「ああ、すいません、ありがとうございます」

 低いがはっきりした声でそう応え、彼――木内は受け取ったタオルで体を雑に拭く。その様子に時任はかつて実家で飼っていた犬を思い出して薄く笑った。茶色がかった柔らかそうな短髪も似ているが、人を疑うことを知らないような無邪気な仕草がそっくりだと密かに思っている。成人していることを疑いはしないが、自分と一回りも違う木内を見ていると微笑ましいような気分になってしまうのは仕方がないとも思っていた。

「どうぞ」

 木内の一杯目はいつもビールと決まっている。バーでビールなんて、と始めの頃こそ恐縮して言い慣れない名の酒を注文していたが、近頃ではすっかり安心してグラスを受け取る。木内はこの店に通うようになるまで、ビールといえば黄色くて一気に飲み干すような日本のものしか知らなかった。時任の助言で知らない酒の味に舌鼓を打つのは木内にとって貴重な体験であったし、少しずつ飲み方を覚えていく木内を眺めるのは時任にとっても楽しいことだった。

 いつものように、ネクタイの結び目に指を差し入れて緩めると、木内はグラスをあおった。喉仏を揺らし、鼻に抜ける苦味に、控えめに、しかし深く息を吐いて、また愛嬌のある笑みを浮かべる。

「やっぱり時任さんの入れてくれるビールは美味いなあ」

 一杯目がすぐに尽きるのは常だった。そして二杯目は時任におすすめを聞いて、それを素直に注文する。大抵、時任のすすめる酒に外れはなかった。気に入って続けざまに頼んだことも幾度もある。時任は木内の好みをすっかり覚えていて、それもまた店の居心地の良さのひとつだった。木内にとって行きつけと呼べるほどの店はここしかなかったが、たぶん、ここ以上に通いたいと思う店もないのではないかと思っている。

 仕事の話や友人と遊んだ話など、他愛もないことを木内がぽつぽつと口にし、時任はそれに相槌を打ちながら仕事を重ねる。雨のせいか、カウンターに着く客が増えることはなかった。数少ないテーブルに掛ける客たちは各々おとなしくグラスを揺らしている。今夜は静かな夜だと、時任は心地良く木内の声に耳を傾ける。

 ふと、木内の話し声が止んだ。相槌を忘れた時任と視線をぶつからせ、その間に濡れた沈黙が忍び込む。木内は目を逸らすと目の前に残されていたグラスを取った。琥珀色の液体がその喉を滑り落ちる音を、時任は聞いた気がした。

 時任の振る舞いに狂いはない。真っ白いカウンターに所在無げに置かれた手に触れたのも、無防備な指に柔く絡ませるように力を込めたのも、すべてそうなるべくしてなったのだと時任は疑わなかった。

 初めて触れる木内の指は骨張っていた。いかにも男性的な手だ。たぶん器用な方ではないだろう。対する時任の指は細長い。しなやかに伸び、木内の指の付け根まで緩やかに滑る。もう酔いが回り始めているのか、木内の体温は高い。滑らかな感触に、まだ雨は止まないのだろうと時任は思った。

 平たくて幅広な爪の脇を指先でなぞると、木内の体が強張るのがわかった。目を上げて見ると、木内はその猫背気味の広い背を小さく丸めてうつむいていた。

 掌を目指して指を運んだところで、木内は強い力で逃げた。顔を見せないまま傍らの鞄から紙幣を出し、カウンターに突きつけると、そのまま店から駆け出していった。時任の目は最後まで木内の赤く染まった耳を見つめ、指先には微かな震えが残っていた。

 彼はまた来店するだろうか。もし次があるのなら、今度は力を込めずに、そっと、触れるだけにしてみよう。ただあの滑らかな指をなぞるだけにしよう。そうしたら彼はどんな反応を見せるだろうか。もし逃げなかったとしたら、自分は、どんな行動に出るだろう。

 そんな想像を己の時計に組み込みながら、時任は仕事へと戻っていった。弱い雨は規則正しく降り続いていた。







  了








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