半ば自棄になりながら、シャンプーボトルやら何やらをドアに投げつけてみる。当然のようにドアはびくともしない。そもそもバスルームにドアを壊せるようなものがあるわけがないのだ。それでも私は手に取れるものは片っ端からドアに向かって投げた。

 クスクスクスクス……。

 その微かな声に、私は手を止めた。どこから聞こえたのかもはっきりしないほど小さな声だった。それはとても不気味な響きを持っていて、私は空耳だと思うことにした。再び、さっきよりも強く、ドアを叩く。

「乱暴な人だなあ」

 今度は、はっきりと聞こえた。ドアの向こうから、はっきりと。

「――誰っ!?」

 反射的に出たその声は、自分でもわかるくらい上ずっていた。ドアの向こうにいる人物は動じずに小さく笑っている。しゃがんでいるのか、ドア上部にはめ込まれた曇りガラスからその姿を見ることはできない。声から若い男だとわかるだけだった。

「僕だよ」

 すっと人物が現れる。黒髪に白い服。わかるのはそれだけだ。

「食事、用意したんだ。カルボナーラ、好きだろ?」

 男は親しげに話を続ける。知り合いだろうか? 越してから住所を教えた人の中に心当たりを探す。

「最近はコンビニのお弁当とか、そんなのしか食べてないもんね。そろそろ温かい食事が恋しいんじゃない? ここのパスタは、テイクアウトしても本当に美味しい。君の口にも、合うと思うよ」

 男は優しく甘い声で私に話しかける。私は男に尋ねた。

「……どうしてそんなこと知ってるの?」

 答えを聞きたくないような気もした。

「いつも、見てたから」

 男の声は穏やかに笑った。

「昨日のグリーンのシャツはよく似合ってた。こないだの黒も良かったけど、君は淡い色の方がいい。よくつけてるブレスレット、何ていう石なのかな、あれは……あれも、明るい色の服と合わせた方が、きっといいと思う。たまにはピンクなんてどうかな? 持ってきてみたんだ。プレゼントなんだけど。着てみてよ。きっとよく似合う。ああ、でも……」

 聞きたくなかった。これ以上何も聞きたくなかった。

 私が引っ越す原因になった、アイツだ。

「やめて……」

 しかし男は黙らない。私は両手で耳を覆った。

「……生まれたままの君の姿も見てみたいな。ドア、開けようか?」

 僕は知ってるんだ。

 君も僕に会いたがってくれていることを。

 だって、君はさっきからずっとこのドアを開けようとしている。

 そうだろう?

 とても、とても嬉しいよ。

 僕も、早く君に会いたい。

 誰よりも愛している、君に。

 早く、会いたいよ。

 今日子を、抱き締めたいよ。

 背筋を悪寒が走った。

 いけない。そのドアを開けさせてはいけない。しかし私の体に力は入らず、立っているので精一杯だった。

「開けるよ」

 私は、

  A.体を支え切れずに地面に腰を着いた。
  B.体を支えるように当てもなく手を伸ばした。