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Iron butterfly : last order spirits


そして 魂は受け継がれる



 目が覚めると、そこには光があった。時は夜で、その光は丸くぽっかりと浮かんでいた。少年は枕の上で頭を横に向け、サイドボードを見やった。橙色に光る電灯が、目の開き切らない少年を見下ろしていた。

 温かいベッドに違和感を覚えた少年は起き上がり、部屋内を窺った。自分でここへ来た記憶はなく、心当たりもない。ただクローゼットが目に入り、試しに引いてみたら無防備に開いたので、その中を探った。少年はまず、男物の上着の胸ポケットに手を滑り込ませた。とても慣れた手付きで。

 床の軋む物音がしなければ、少年は作業を続けたに違いない。

 反射的に振り向いた少年の正面で、ドアは開かれた。長身の人影が見えた。

「ああ、目が覚め――」

 人影の言葉を待つより先に、少年は動いた。相手は一人だったし、弱そうな見てくれだったので迷いもなかった。ただ、自分がしばらく飲まず食わずで寝ていたことは忘れていた。足は勝手にもつれた。

 飛び掛るのを避けられた後は、あっという間だった。意外なほどの強さで逆に背中から押さえ付けられ、少年は舌打ちを響かせた。それと同時に、腹の虫がくるるる、と鳴いた。背後から柔らかい笑い声が聞こえる。恥ずかしさと悔しさで赤面をするのを、少年は抑えられなかった。

「暴れないと約束してくれるなら」

 まるで警戒心のない声がした。

「この手を放して、下で食事を作ってあげるけど」

 そのあまりに人の好い様子に、少年は不快感すら覚えた。それでも空腹は勝てず、おとなしく体から力を抜いた。次いで背後の男も手を放す。少年は振り返り、相手を睨み付けた。

「とりあえず、元気そうで良かった」

 思った通りの呑気な顔と台詞に、少年はもう一度舌打ちした。



 男について階段を下りると、そこは店舗になっていた。大きなラウンドテーブルを数脚の椅子が取り囲み、その周りには二人掛けのテーブル席がいくつか。全てのテーブルは美しい木目をつややかに浮かべていた。丁寧に扱われていることがわかる、小綺麗な店構えのダイナーである。

「適当に座って。すぐに用意するから」

 少年は、落ち着かなかった。

「金、ねえよ」
「いいから」

 男は店主であるらしく、迷いなく厨房の方へ入っていく。仕方なしに、少年はテーブル席に着いた。きちんとした店で食事をするのがどれくらい振りだったか、少年はうまく思い出せなかった。

 手持ち無沙汰に店内を眺めていると、そう古い店ではないことが知れた。店主も、少年から見ればそこそこの歳だが、店を構えるにはまだ若いように思える。もっとも、あの態度だから、実際よりも若く見えていることは間違いなさそうだったが。まだ新鮮な匂いの残る店内であの店主が駆け回っているのを想像すると、やはり居心地が悪かった。こんな日の当たるような場所は、自分の居場所ではない。

 と、厨房から人影が現れた。先程の男ではない、髪の長い女性が、湯気を立てる食事を乗せたトレイを持っている。美人と言って間違いなかった。

「なんだ、そんな端に座らなくていいのに」

 女性の後ろから顔を出して、店主が言った。その手には店主と女性のものらしい二つのマグカップがある。どうやら他の人間は店にいないようだった。

「どうぞ」

 女性は少年のテーブルに食事を並べると、静かに、小さく微笑んだ。若作りが上手なのか、それとも本当に若いのか、少年には判別がつかなかった。

「残り物で申し訳ないけど」

 ラウンドテーブルの、少年に程近い席に着いた店主が声を掛ける。女性の方も、その隣で言葉少なに食事を勧めた。少年はパンにかぶりついた。食事はどれも美味だったが、味わうことよりも腹を膨らますことの方が重要だった。

「ゆっくり食べないと、体に悪いよ。丸一日寝てたんだから」

 店主の声は無視するに限った。あんたは食事のできない日があるなんて考えもしないんだろうな、という言葉を、スープで飲み込む。ただひたすらに、食事を腹に詰め込むことに集中した。テーブルに並ぶ皿はあっという間に空になった。

「……あんたが、俺をここに連れてきたのか」

 そこでようやく、少年は正面から店主を見た。相変わらずの射るような視線を、店主は相変わらずの柔和さで受け止めた。

「そう。この店の近くで倒れていたから……放っておけなくてね」

 店主の手元では、未だカップの中身がなみなみと揺れていた。

「君は、どこから? そう近くからじゃなさそうだけど」

 少年は殊更にぶっきらぼうに答えた。

「……シティ」

 二人が驚いたように目を見開くのが、うつむく少年にもわかった。わかっていたことだ、と少年は歳よりも大人びた、自嘲の笑みを漏らした。自分があまりにみすぼらしい格好をしていることは確かめもしなかった。

「元は、北からだ」
「……北スラムから、シティに出たんだね?」

 ああ、という億劫な声が少年の口から吐き出された。それだけでもある程度のことが察せられた店主は、口を閉ざした。スラム上がりの子供がシティでどんな扱いを受けるか、スラムに居続けるよりも余程冷たい現実を、そこにいる三人ともがわかっていた。

 店主はカップを傾け、唇を濡らした。

「……どうして、こっちに? 北に戻るには逆だけど」
「戻る? 北に?」

 少年は呆れた声を上げた。

「何を好き好んで戻るんだよ、あんな、ガキとゴミしかない街」
「じゃあ、どうして南まで来たんだい? ここは最近、シティに似てきた。スラムから這い上がって自治区と呼ばれるようになって、ある意味、住みにくくなった」
「知ってるよ、それくらい」
「なら、どうして」
「行くんだったら、そこそこ金のある街の方が、まだ――」

 盗れるものがある、という言葉が喉でつかえた。

「……マシだろ」

 自分の有様に少年自身が一番戸惑いを隠せなかった。場所が悪い。ここにいると駄目になる。そうとさえ思わされるくらいの狼狽だった。

 少年は音を立てて席を立った。

「世話になった」

 店主たちの方を見る気にはなれなかった。

「けど、払える金は持ってない。構わないって言ったのは、そっちだからな」
「ちょ、ちょっと待って。もう行くの?」
「ここにいる理由もないだろ」
「行く当てがあるの?」

 言った店主が思う以上に、その言葉は少年に突き刺さった。

「もしないなら、もう少しここにいてもいいんじゃない?」
「……いて、どうするんだよ」
「そうだな……昔話っていうのは、どう?」

 どうもこうも、少年は語るほどの昔話が思い浮かばなかった。

「君は、どうして北を出ようと決めたの?」
「……あんたには関係ない」
「そんなこと言わないで。一宿一飯の恩くらいは感じてもいいんじゃない? 世間話だけで恩を返せるもんなら、安いと思うけどな」

 店主はそう言うと、いたずらな笑みをちらりと覗かせた。借りを作るのは好きではない、そんな少年の性格は、この場合不利にしか働かなかった。仕方なしに、少年は席に戻った。わざとらしい溜め息だけがささやかな反撃だったが、店主にはこれっぽっちも効いてはいないようで、佇まいを正しただけだった。隣で女性がこっそり笑った。

「それで、北スラムを出たのは?」
「……別に、理由なんてねえよ。ただ、北でくすぶってるのが嫌になっただけだ」
「知り合いなんかはいなかったの? ほら、別れるのが惜しい人とか」
「いねえよ、そんな奴。どうせいつまでも一緒にいるわけでもない」

 少年の淡白な反応に、店主は気後れしたように一時言葉を止めた。しかしそれは、怯んだと言うには意志が伴い過ぎていた。

「じゃあ、南に来てどうするつもりだったんだい?」
「……別に」
「言っておくけど、ここには盗れるものなんてろくにないよ。見ての通り、大した店でもないしね」

 店主はごく真剣に続けた。

「北スラムよりは、いくらか栄えてるけどね。……この街に、何を期待してた?」

 その心の内を見透かすような物言いに挑発され、少年は静かに荒げた声をもらした。

「――期待なんてしてない。ここにも、どこにも」

 ここまで足を伸ばしたのは、見限った北スラムや失望したシティで朽ち果てるのが嫌なだけだった。

 世の中のどこにも、期待するべきものなんかない。

 ただ、少年はどこからもいなくなってしまいたいだけだった。

 知らず、少年の口から溜め息が出る。自分が袋小路にはまり込んでいることは十二分に自覚していた。そこから抜け出す術が見つからないだけだった。

「もういいだろ」

 いい加減に、少年はうんざりするのを抑え切れなかった。うんざりだ、こんな世界は。

「……あんたには、関係ないんだ」

 先程と同じ台詞をもう一度、更に威嚇を込めて言い放つ。行きずりの関係に、期待などしない。こんな恵まれた生活をしている呑気な男に、この気持ちは、わかるはずもない。

「あるよ」

 何のてらいもためらいもない、真摯な態度で店主はそう言った。自然ともれた呼気のように。

「君を拾った。食事をあげた。話を聞いた。今ここにいる。関係、あるよ」

 そして口元に微かに笑みを浮かべてみせると、それにね、と続けた。

「ほんのちょっとね、似てるんだ。君を見てたら、昔の自分を思い出しちゃって」

 少年は怪訝な面持ちを隠そうともしなかった。

「あんた、シティの生まれじゃないのか」
「それは、そうなんだけど」
「だったら、何が似てるって言うんだよ。金があって、店があって……俺と、どこが似てるって言うんだ」

 少年は苛立ちを抑えることもできなくなっていた。店主は辛抱強い笑みをたたえて応えた。

「確かにね、生まれはシティなんだ。でも、そう長くいたわけじゃない」
「シティを出た? 何のために」
「そうしないと、殺されたから」

 あからさまにぎくりとすることも、少年は抑えられなかった。店主は相変わらずの表情を浮かべている。

「両親をね、殺されたんだ。君くらいの頃だったかな」

 それは決して畳み掛けるような言い方ではなくて、ふともらすように出た言葉だった。

「昔ね、大きな力を持った、とある組織があったんだ。今はもうなくなったんだけど、その頃は丁度成り上がってる最中で、手加減なんか知らなかった。そんな組織に、僕の父が目をつけられて。理由は、よくわからない。僕はまだ子供だったから……年齢以上に、子供だったから」

 その眼差しに、ほんの少し、懐かしげなものが混じる。しかしそれは深い悲哀に阻まれてはっきりとは見えなかった。

「その組織っていうのは東スラムを拠点にしてたんだけど、シティまで追ってきた。父と母が殺されて、僕は命辛々逃げ出した。相手に報いるなんてことは考えもしなくて、シティにいることだけでも怖くて、逃げて、スラムの方で暮らすようになった。組織の手の伸びていない、寂れたスラムでね」
「……あんたみたいなのが暮らせるようなスラムなんて、あったのか」

 長くスラムにいた少年は、つい口を挟んだ。目の前にいるこの温和な男と、自分の経験から来るスラムの厳しい印象は、どうあっても和合しなかった。

「たしかにね、僕はスラムでの暮らしにはまるで向いてなかった。どっちを向いても怖くて、そのうちにどうして自分が生きているんだかわからなくなった」

 店主はカップを傾けると、ゆっくりと一口を飲み下した。深く吐き出された息は、柔らかく、重く、ぬるくなったカップの中に溶け消えた。

「どうして僕は生きているんだろう、僕だけが生き残って何になるんだろう、ただ生きてることに意味なんてあるんだろうか……そんなふうにね、毎日膝抱えて考えてたよ。自分の生活が良くなることなんて、到底考えられなかった」

 少年の鼓動が、店主の言葉に呼応した。同じだ、と。

「死んだっていいんじゃないか、とも思った。でも、自分からそうする気にもなれなかった。何をする気にもなれなくて、食事をとれる日も減っていって……どれくらいそうしていたのかは、よく覚えてない。僕はもう動けなくて、ただ地面に横になって、その時を待ってた。全てが終わる時を、ね。でも、自分が少しずつ死んでいくのは、どうしようもなく怖かった」

 少年は、思い出していた。つい数日前の自分を。数年前の自分も、そして今も、店主の言うような無気力とぎりぎりのところで闘っている。それは負けの見えている、ただ長らえることしかできない不毛な闘いだった。

 生きるのは苦しい。でも、死ぬのは怖い。

「それが、どうして」

 少年は嗄れた声で呟いた。無理矢理に唾液を飲み込んで、今度は店主の目を見て、言った。

「どうしてそうやって笑ってられるんだ、あんた」

 答えがあるのだろうか。こんな、ただ腐っていくだけの日々から抜け出す術が、あるというのだろうか。

 店主は、少年から、目を逸らさなかった。

「世界は、僕を見捨てなかったから」

 そしてまた、柔らかく笑い掛けた。

「だから、僕も世界を見捨てないでいようって、決めたんだ」

 その決意は、少年にも見て取れた。笑うんだと決めたら、笑って生きるんだと決めたら、自分にもこんなふうに笑える時が来るのだろうか。店主は少年に湧いたかすかな望みに頷いてみせるように、続けた。

「――生きてみろ」

 少年の胸が、また一つ、強く鳴った。

「生きていないとできないことが、この世にはたくさんある。死んでしまったらできないことが。それをやってみて、全てやってみて、それでも駄目なら、その時にまた考えてみればいい」

 僕を拾ってくれた人の受け売りなんだけど、と店主は相好を崩した。

「誰にでも手を伸ばす権利はあるんだと、僕は信じてる」

 この男は決めたのだ。手を伸ばすと。もがいて、足掻いて、それでも生きると。

 だから、こんなふうに笑えるのだ。

 どこに駆け出していいのかわからずに力を持て余す駿馬の足取りように、少年の鼓動は跳ねていた。少年の逡巡に合わせて刻まれる律動は、じわりじわりと迫ってくる。

 ――自分にも、そんな覚悟が、できるだろうか?

 鬼気迫るほどの真剣さを目に宿した少年を前に、店主は、含み笑いをしてみせた。

「……期待をかけられたら、応えたいって思うもんだよ」

 それともう一つ、と続ける。

「一度掴んだら離すなってね」

 その一言は静かに、しかし確実に、少年の背を押した。

 店主は少年に向かって、手を差し伸べた。

「僕はウィリアム。ウィリアム・クーカー。君は?」

 少年はごく自然に、その手を掴むことができた。

「俺は――」

 少年の名を聞きながら、店主は思い返していた。隣の女性と出会うよりももっとずっと前、自分が丁度この少年ほどの年頃だった時のことを。そしてまた、自分が拾われた時のことを。

 今は遠く離れたところに住む救い主にこのことを話したら、僕が誰かを拾い救うことがあったと話したら、あの人はどんな顔で喜んでくれるだろうか。「そりゃあ、おまえを拾った甲斐があったってもんだな」なんてぶっきらぼうに言いながら、小さく笑ってくれるだろう。

 ひょっとしたら、自分がそういうことを、今より歳をとったこの少年に告げる日が来るかもしれない。

 そう考えると、店主は少年の手を固く握りながら、微笑まずにはいられなかった。




スピリッツ【spirits】
@アルコール度の高い酒。火酒。蒸留酒。
A魂。心。受け継がれるもの。







  了









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